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タイトル未定の140字連載小説

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タイトルの通りです。140字連載小説にチャレンジしていますので、それらのつぶやき記事をまとめております。
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#140字連載小説

生きることが責務ということは、よく考えてみると特別なことではないのかもしれない。生きとし生けるものは全て生きている限りにおいて生かされているのであって、この文脈においては死ぬ権利など与えられていないことになる。寿命は根本的に自分で決められずあらかじめ定められているのかもしれない。

臨終の間際、苦しむくらいなら早く逝ってしまいたいと思うものかもしれないが、他者からすれば1秒でも長く生きて欲しいと思われることもあるだろう。最期くらい自分の希望を通させてくれと思われるかもしれないが、僕は生きることが責務だから、臨終の間際にどれだけ苦しかろうと1秒でも長く生きる。

ただ生きる、即ち、ただ生命を維持することに何の意味があるのだろうか。自分のことだけ考えれば、そんな発想に至ってもおかしくはないのかもしれない。だが僕は、祖母の死を経験した時、臨終の間際まで生きて欲しいと願った。本人は、早く逝かせて欲しいと思っていたかもしれないが、僕は願ったのだ。

生きることには責任が伴う、というより、僕の場合は生かされており、人生に終止符を打ちたいとは思わないが、生きることそのものが責務なのだ。生きたくても生きられない人からすれば、贅沢なのかもしれない。生きる努力をしなくても、生かされるのだから。ただ、良い歳をして赤ん坊のようでもあるな。

時が経つにつれて、良くなることも悪くなることもあるだろう。僕という人間は、いつも周りに迷惑ばかりかけてきて、恩返しの類は全然できていない、最低な人間だ。頭につけているこの装置が、嫌な記憶を簡単に想起させるものだから、なおさら自己否定感が増す。生きることは、僕にとって、責務なのだ。

人が変わったようだ、ということがあるかもしれないが、人は変わるのである。人だけじゃないかもしれないが、自分という人間は、一瞬一瞬、変化しているのだ。そのことにその都度気が付かないだけで、長いスパンでみれば、大抵何かは変わっている。少なくとも、内面はわからないが、老いはするだろう。

それにしても、妄想こそ恐ろしいものである。過去の実体験からすると、後から振り返れば、なぜ、あんなことやそんなことを思い込んだのだろうと不思議で仕方ないが、まさに今の視点からすると、思考を支配されていたようなものであった。あの時の自分と今の自分は違うが同じ人間の思考だとは思えない。

僕は、何かに操られているかどうか、断定できない、と思っているだけで、何かに操られていると思ったり信じたりしているわけではない。もし、何かに操られていると確信めいたことを口にしようものなら病気であることを疑われるのは百も承知だ。過去に妄想で病気を疑われたことがあるだけに尚更である。

自分が何かに操られているかどうかなど、本当のところはわからないのである。一般的には、自分には意志があり、何かに操られているわけではないと信じる方が多数派であろう。しかし、元を辿れば、自分の意志すらもどうなっているかわかったものではない。僕がこう思っていることについても全く同じだ。

実際に、何かに操られて行為を行った、と主張することは可能かもしれないが、その主張を納得してもらうのはかなり困難が伴うであろう。例えば、では今のあなたは、何かに操られているのですか、そうではないのですか、と尋ねられたら、どちらの返答をしたとしても、もはや説得力に欠けるのではないか。

自由などないとすれば、責任を問うのは酷であろう。しかし、例えば、全く自由がないとして、自由のない人が殺人などの犯罪を行ったとしたら、法律的にどうかは別として、行為者を責めずにいられるだろうか。何かに操られて犯罪行為を行った、だから自分には責任がない、と主張したらどうなるのだろう。

自由に行った行為の結果に対して、何らかの形で責任を負わなければならない。そう考えられているだろう。だが、例えば、内心の自由は保障されているが、内心で思うだけなら責任問題など生じない。責任問題が生じる場面で、原因となる行為が、本当に自由になされたものかどうか。自由などないとしたら。

何もかも、自分ではない何かが結果を招いていると考えても、何ら不都合がないように思われる。自由に何かをしていると自分ではその時思っているかもしれないが、そのように思わされているだけで、本当は自由なんかじゃないのかもしれないのだ。自由とは、責任という概念を生み出すための代物と言える。

人生といえば、僕の中では、今という瞬間が決まっている以上、過去も未来も変えられないと思っている。今は変えられるんじゃないか、という考え方もありそうだが、今という瞬間は、思った時にはもう過ぎている。人生とは、あらかじめ決められたストーリーを死ぬまで確認し続ける過程なのかもしれない。