マガジンのカバー画像

タイトル未定の140字連載小説

225
タイトルの通りです。140字連載小説にチャレンジしていますので、それらのつぶやき記事をまとめております。
運営しているクリエイター

#タイトル未定

それにしても、自分一人の脳が処理している情報量を考えても圧倒的すぎて想像を絶するのに、世界の人口が少なくとも僕が37歳の時には約80億人であったことを思うと、一体、どれほどの情報が処理されていたのだろう。想像しようとするだけでも、気を失いそうになる。ましてや、生物全体と言ったら。

脳が処理していることを想像すると、あらゆる精神現象には、それに先立つ物理現象があるのではないかと思えてくる。このような立場を物理主義と呼ぶらしいが、批判も多いらしい。詳しいことは知らないが、様々な考え方があるようだ。確かに物理主義の立場だと、自由意志などあるのかという気もするが。

どちらにしても、僕は、脳が同時に処理し続けていることの量と速さに驚きを隠せずにいる。認識は嫌でもその都度構成される。され続ける。これでも脳が取捨選択していると思うが、それにしても、何て量と速さだろうか。自分以外の人は、何とも思わないのだろうか。いや、共感してくれる人もいるはずだ。

問題は、無数に続く静止画は、連続的か、離散的か。僕たちが普段感じている時間の流れは、直感的には連続的だろう。連続的というのは、途絶えることなく切れ間なくということだ。一方で、コマ送りに再生される静止画を脳が連続的と認識させており、実際の現象の構成は離散的、とびとびとも考えられる。

さっき眠りにつく前に、そういえば、こんなことを考えていた。動画の再生速度を限りなくゼロに近づけると、動画は限りなく静止画に近づき、ゼロにすると完全に静止画になるはず。そうだとすると、ゼロ秒間の間にも静止画は存在しうる。再生を再開すれば、ゼロ秒間の静止画が無数に続いていくイメージ。

夢に出てきた懐かしい人のことを想うと、みんな今頃どうしているんだろうと考えずにはいられなくなる。生きているなら、僕がこんなことを思っているこの瞬間でさえ、どこともなく、何かをしているのだろうし、存在しているのだろう。記憶から消えてしまった人も含めて、いろんな出会いがあったものだ。

そうこう思っていたら、うとうと寝てしまった。そして、夢を見た。大した夢ではない。だが、懐かしい人が何人か出てきて、もうしばらく夢を見続けていたかった。素朴な疑問だが、脳はどういうわけで、そういう人選をしているのだろう。夢に出てきた人に連絡でもとってみようか。取れないだろうけれど。

いろいろ頭の中が錯綜しているが、今の気分としては、ゆっくり寝たい、だ。ぐっすり寝て、良い夢を見て、できればその夢の内容に感動するか、夢の中で何かを閃きたい。起きたら世界が変わっていた、なんていうよくありがちな設定でも良いから、ガラッと実現してくれれば、この人生も、好転するだろう。

とはいえ、何かがあるかないかについて、個人の主観によるとしたら、個人がいなくなってしまえば、その何かもなくなってしまうという結論になる。これは、客観的な世界があるという直感に反するであろう。実際のところどうなっているのだろうか。「ある」も「ない」も、よく考えると難しい問題である。

そもそも、あるものもないものも、個人の主観によるところが大きいのではないだろうか。信じるか信じないかというか。例えば、幽霊がいるかどうかは、科学的にはわからないが、幻覚であれなんであれ、本人が幽霊はいる、と何らかの原因で思い込んだら、その人にとっては、幽霊はあることになるのでは。

無いものは、認識できないから無いわけではない。認識できずとも、存在するものは存在する。同語反復だろうか。無いもの、無いことを証明することは難しいと言われている。ただ一つの例外でも見つかれば、無いわけではないことになるし、背理法を使ったとしても、どことなく、違和感が残ると思うのだ。

ここで、よく考えてみたいのだが、トクントクンというクオリアが無意識の領域に追いやられている時、トクントクンのクオリアがない、というべきだとしても、自覚がないだけで、「無」のクオリアはある、ということにならないだろうか。この視点からそもそも「無」とはなんであるかに迫れないだろうか。

心臓の鼓動のクオリアは、ある時にはある。トクントクン、という感覚だ。だが、トクントクンが無意識に追いやられているとき、心臓は鼓動しているが、その時、クオリアはあると言うべきか、無いと言うべきか。もしあると言うべきならば、「無」の領域のものについてもクオリアはあるということになる。

自分の意識にあがってこなければ、そもそものクオリアの定義からして、主観的体験が生まれないわけで、「無」については、クオリアなどそもそも観念できないし、する意味もないという意見もあるかもしれない。だが、例えば、心臓の鼓動のクオリアを考えてみてはどうか。普段は感じないがある時はある。