ショートショート「挨拶」

 地区の小学生の登校の時間帯だった。昨夜来の雨はきれいに上がっていて、色とりどりのランドセルが歩道の大きな水溜まりに映え、行き交う小学生の顔はどれも、すがすがしい朝の陽射しと同じくらい眩しかった。
 「おはようございますっ」
 通学途中の小学生が何人かが同時に一人の年配の男性に元気よく挨拶をして通り過ぎた。快晴の日の朝の光が男の頭のべとついた整髪料をギラギラと輝かせていていた。男は自分の経営する会社へ向かうところだった。
 男は口元を緩めると、満足気に頷きながら思った。
 実に気持がいい。こうでなくちゃいかん。最近の子供は知らない大人にもきちんと挨拶をしてくる。あの子供たちを見ていると国の将来も明るく感じられる。『挨拶に始まり挨拶で終わる』これがわが社のモットーで、日々の朝礼でも口を酸っぱくして言っているにもかかわらず、いい年をした大人でも満足に挨拶のできん連中が社員の中にいる。全く恥ずべきことだ。小学生にも劣るとは。
 男は社員三十人程を抱える小さな町工場の社長をしていた。営業畑出身の社長はどこよりも安く見積もりを出して、取れる仕事は片っ端から取っていった。そのため、多くの社員は休日も出勤しないと仕事が間に合わないうえ、連日のように夜遅くまで残業することをを余儀なくされた。社長より年長の工場長などは激務が続くと、昼の休憩時間には梱包用の段ボールをコンクリートの床に敷いた上で、ぐったりとして横になっていることもあった。そして、いくら社員の超過勤務が長くなっても、一定の上限以上の手当はつかない給与の仕組みになっていた。そのため人件費が固定できるので、現場の負担を顧みることなく、他社では利益が低いうえに面倒でやりたがらない仕事を大量に取ってきては、営業の手柄のように言い立てた。よそより安く多くの仕事量をこなすことでなんとか会社が成り立つという薄利多売の経営方針だった。

「いくつなるんだお前はっ」
 社員が居並ぶ朝礼の席で、社長は工場長を怒鳴りつけた。社員の多くは下をむいて声だけを聞くようにしていた中、女子の事務員たちは上目遣いで様子を窺っていた。
「いい年をしてしみじみ挨拶もできんのかっ」
 朝礼の冒頭、進行役の工場長は社長をはじめとしたみんなに挨拶をしたつもりだったが、職人気質の無骨な彼は、一体に口が重たい性格で普段から声も小さかった。仕事ぶりは、はたから見るといつか体を壊すのでは危ぶまれるほど勤勉で、会社のあまりの忙しさに若い社員が入ってもすぐ辞めてしまうため、新人が嫌がるような仕事は自ら引き受けて、少しでも長くいてもらえればと気を使うような人柄だった。
 工場長は一瞬何か言いたげなそぶりをみせたが、結局だまっていた。すると社長は間髪を入れず
「わたしは人より仕事をしています。だから、挨拶ぐらいしなくてもいいんです。そう言いたいんだろっ。いいか、人間仕事をするなんて当たり前のことなんだ。仕事をしない人間が、どれだけみじめなものか分からないのなら、会社なんかやめちまえ。そうすりゃ、仕事のある有難さが身にしみて分かるから。いやいや仕事するならしなくていい。仕事をさせていただきます。そういう感謝の気持ちで仕事をして初めて一人前といえるんだっ」
 社長はことあるごとに繰り返す持論を口角泡を飛ばして展開した。
「おい、その年で会社やめたって、いくとこなんかどこもないんだからな。大体、うちで務まらないようなやつは、どこいったって通用しないんだ」
 辞めたらまた雇えばいい。社長には社員を育てようという気持はまるでなかった。自身が営業出身のためか、技術職を軽んじる傾向にあるように見受けられた。ほとんど、機械が仕事してるんだから、誰でも教えればできる。むしろ、社員の能力を低く抑えておいた方が、管理しやすいとさえ思っているのではと疑われた。ただ、さすがに工場長に本当に辞められると、無理に無理を重ねた仕事のスケジュールがどうなるものかという一抹の不安はあった。

 その日の夜の七時になっても今日の仕事の目途がつかず、工場長は暗澹とした面持ちで、工場の片隅でうつむいて立ったままコンビニで買ったおにぎりを食べていた。そこへ、ペットボトルのお茶を持った手がぬっと差し出された。
「今日も遅くなりそうか」
 社長は工場長にお茶を渡しながら声をかけた。
「あ、いただきます。いえ、まあ、あと少しでなんとかなりそうです」
「そうか。今朝は少しきついことを言ったけれども、あれは最近みんな忙しくて疲れているからといって、気を緩めたりしているとミスやケガにつながる。だから、気持を引き締めるためにカツを入れようとして言ったんだ。社員の生活を預かる立場として、 言いたくないことも言わなきゃならないんだよ」
「ええ、分かります」
「うん。きみが頑張ってくれているのはわたしも分かっている。戸締りと電気には気をつけてな」
「はい、お疲れさまでしたっ」
 工場長はしっかりとした声で社長に言った。社長は工場長の目を見ながら頷くと、そのまま振り返って帰途についた。
 工場の明かりは煌々と点いたまま、非常識な時間まで消されることはなかった。

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