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言葉の刃を振るうこと

「全てが浅はか」

これは私が2年前くらいに付き合っていた方に別れ際に言われた言葉だ。笑

今考えれば私の何を知っとんじゃいうるさいわって感じなのだが、当時はめちゃくちゃ傷ついた。

もう顔とか声とか全然覚えていないのだが、この言葉だけはトラウマというか、衝撃的すぎて今でも覚えているのだ。

ということで、今回は「言葉」について書きたいと思う。

今ならきっとそんなことはないと、彼に自信を持って言えると思うが、
当時は高校生上がりみたいな年齢であったこともあり、真に受けすぎていた。

そこから私は「言葉」の重みというものをよく考えるようになった。気をつけて「言葉」を使うようになった。

例えば、愚痴。
愚痴って言っててスッキリすることもあるけど、マイナスの力が大きすぎて自分もネガティブになるし、相手にもじめじめが移ると思う。

だから本当に気心知れた人、私は家族くらいにしか愚痴を言わないようにしている。

愚痴だけでない。
自分が死ぬほど傷ついた手前、厳しい言葉を相手に放つのには細心の注意を払っている。

特に、親密な関係ではない人には。

星野源の「そして生活はつづく」の一節で

意識的ではないとはいえ、彼に深い傷を残してしまったことに変わりない。

そしてその人が夜な夜な、私が無意識に発してしまったであろう酷い言葉を思い出して、激しく落ち込んだりしていると思うとぞっとする。

人間の無意識というものは、場合によってはその人の人生を狂わす可能性のある、とても恐ろしいものなのだ。
星野源「そして生活はつづく」

という話がある。

私はこれにとても共感していて、厳しい言葉や傷つけるような言葉は相手をその後ずっと苦しめ続ける可能性もあるのだ。

それほど親密でない人には、挽回する余地もないため、知らないうちに私が放っていた言葉に傷つき続けて、トラウマになって過ごしているかもしれない。

しかも、私はそんなことはつゆ知らず生きていくのだ。

それってとても怖いことだと思う。

だからこそ私は相手に放つ言葉には気をつけている。時にそれはナイフになってしまうから。

何でこんなことを文章にしてみたのかと言うと、最近テレビ、バイト先、SNS、友人、あらゆるところで何も考えずに言葉を使いまくっている方々が多いなと感じたからだ。

テレビのコメンテーターはどこまで考えて、残酷な事件に対する発言をしているのか。

自分のイラつきを相手にぶつけるような言葉に生産性はあるのか。

SNSは利用者が多く自分の言葉なんて誰も見てないだろうから、誹謗中傷をしていいのか。

自分が傷ついたからと、相手のことも言葉で傷つけた先には何があるのか。

ひとつひとつの言葉のダメージは小さいかもしれない。
けれどもそれらは確実に蓄積していっている。

私も、きっと他の人も、言葉で傷ついているのだ。

自由に発信できるようになった今だからこそ、
言葉の恐ろしさ、残酷さを今一度立ち止まって考えてみて欲しいと、私は思う。

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