命の取り扱い
だいぶ以前に、コロナで亡くなった芸能人の方のご家族が、
「臨終の立ち合いもできず遺体と対面させてもらえず、
火葬場からお骨になって帰って来てやっと会えた」
と言っていましたが、
父の場合は、コロナの闘病期間を過ぎていて、
後遺症で亡くなったので、そういうことはありませんでした。
普通に危篤の連絡が来て臨終に立ち会うことも許され(誰も間に合いませんでしたが)
駆け付けた家族とともに遺体は自宅に戻って来て、
お通夜まで2日間、家族のもとで過ごすことができていました。
父がコロナの陽性反応になったのは、8月になったばかりのころです。最初は37度台の微熱で中等症状ですと言われ、
「発症から10日間で、熱が下がっていて症状が改善していれば退院できる」
ということでした。
ところが4日目くらいから数日間、高熱が出て重症となり、
傷んだ肺などの呼吸器官がなかなか回復せず、
酸素吸入器が手放せず、自力で食事が摂れなくなり、
延命装置の話が出始めたところでした。
ですがあとになってお医者さんによく聞くと、
食事が摂れなくなったのではなく、
父自身が「摂ろうとしなくなった」のだと、
わかりました。
看護師さんたちがどんなにすすめても「いらない」との一言しか言わず、
重症となってからはそれ以外、言葉を発しなくなったそうなのです。
つまり、そろそろこの世を卒業しよう、食べ物は必要ないと、
92歳で気管を傷めてこれ以上この肉体で生きるのは得策ではないと、
父自身が判断したのであると思います。
なぜわかるかというと、父はそういう人だからです。
平凡で常識人、きわめて善人、無口だけれど人当たりはよく、
自己主張もするけれどほどほどで、人に迷惑をかけたりトラブルを起こすことをできる限り避け、
どんな環境に送り込まれても、それなりに生きる道を見つけることに長けている。
そろそろこの世で生きることを卒業し、
次の世界に行ってみるのがいいのだろうという判断をしたのです。
父は宗教もやっておらず、スピリチュアルに興味を持つような人ではないので、死が怖くないということはなかったはずですが、
ただ、戦前生まれで終戦のとき15歳。
14歳の時に「特攻隊予備軍」のようなところに入学し、
飛行機や機関銃の扱い方を習っていたそうです。
終戦直前、父よりほんの少し年上の男の子たちが飛行機に乗って出撃し、
2度と戻って来ることがなかったのだと、晩年に話してくれました。
またそういうところに通っている父に、両親(私の祖父母)は何も言わなかったそうなのです。
戦争でたくさんの人が、人生半ばでこの世を卒業していく、
そういう世の中、命の取り扱いに関する考え方が少し違う時代に生きた
ということもあるのではないかと思います。