カノキシ

気がつくと寂れた小さな駅の待合所に立っていた。駅舎は海を背にしているのか、遠くからかすかに波のとどろきが聞こえる。
高い山に囲まれた窮屈な盆地で生まれ育ったわたしにとって、海のある風景は縁遠い。そんなわけでこの場所にはとんと見覚えもなく、街のほうもこのようなわたしの事情を察してか、幾分よそよそしい表情を浮かべていた。
時おり渦を巻くようにして溜まる風が、かすかな潮の匂いを運んでは静まった待合所を満たしていく。今どきでは珍しいゼンマイ式であろうか、古時計の鈍い音が空気を震わせていた。よくみると振り子は規則的に動いているものの、時計の針は一寸進んでは戻ってを繰り返している。螺子が壊れているのだろう。電車の来る気配はない。時計は、午後四時三分を指し続けていた。

見渡した構内には、客はおろか駅員すらいないようだった。券売の窓口をみやると中はがらんとしていて、飲みかけらしい缶の珈琲が置かれるばかりの殺風景である。改札には、腰ほどの高さに使用済みの切符を入れる小さな箱が設置されていた。乱雑に放置されたいくつかの切符を手に取ってみると、どれも黒いボールペンで斜線が引いてある。表面には片仮名で「カノキシ」と印字されていた。切符を箱に戻すと、隅のほうに積まれた貝殻が目に入った。誰かが拾ってきたものだろうか。
形ばかりの改札を通りホームに出ると、いっそう海の気配が強くなった。線路へ身を乗り出してみると一方はすぐ近くでレールが切れている。ここが終着駅なのか、向かって左側に続くレールはただ真っ直ぐに敷かれて、先も見えない。足元のコンクリートは潮に吹きさらされて、ところどころが赤く錆びついていた。随分と長いあいだ改修もされていないような駅ではあるが、涼やかな風が通るせいか、どことなくこざっぱりした印象を受ける。空は淡く滲み、晴れているのか曇っているのか、うっすらとした太陽が光を落としていた。

ミャーオ。
ふいに鳴き声がした。元をたどると、それは一羽の鳥であった。ホームの端、大きく変形して今にもくずおれそうな鉄製の手摺りの上にその鳥は停まっていた。白い羽根は整えられたようにつややかで、嘴は紅をさしたように赤い模様が入っている。ウミネコだ。思えばウミネコをみたのは初めてかもしれない。一点を睨むようにして静止しているのをしばらく観察していると、どうやらウミネコは電車を待っているらしかった。遠く霞んで消えていく線路の先をじっと見据える佇まいは、なにか迎えの来るのを待つ人間のようだった。わたしは時刻表を探して辺りをうろついてみたが、掲示板に留められた広告の類いはどれもインクが禿げていて読めそうにない。けれどウミネコと違って待つものもなく、どこか諦観したような心持ちでいるわたしにとって、そのことはちっとも不安にならなかった。むしろ電車を待つ時間が永遠であってもいいとさえ思っていた。この場所に来ることは、なんとはなしに元来のわたしの望みだった気がするのだ。

しばらくの時間が経ち、動かないでいたウミネコは思い出したようにわたしを振り返った。そしてふいに手摺りから飛び降りて、水掻きのついた足をペタペタと動かしながらこちらへ寄ってきた。しゃがみこんで手を伸ばしてみると、いつの間にか嘴に紙片を咥えている。切符だ。「カノキシ」と印字されたそれは、まだ未使用だった。ウミネコはわたしが切符を受け取ったとみると、間延びした声をもう一度あげてから飛び上がった。そしてちょうどホームの真ん中の空をくるくると旋回したあと、果てない線路の向こうへ飛んでいってしまった。
ウミネコの姿がみえなくなるまで見送ってから、わたしは隣に立っているホームの柱を覗き込んでみた。柱に打ち込まれた細長い鉄板には「カノキシ」という文字があった。その下には赤い矢印が書かれていて、線路の続くほうを指している。カノキシというのはこの場所の名ではなく、この先にあるものだったか。カノキシ。どんなところなのだろう。

ボオー。
にわかに低い音を響かせたのは警笛だった。線路の向こう、はるか遠くに見えるのは電車ではなく、果たして船である。目を凝らしてみると先頭には船を導くようにして、切符をくれたあのウミネコが飛んでいた。海の匂いが近くなってくる。気がつけばホームのあいだ、電車の通るその道には、少しずつ海水が溜まっていた。小さく立った互いの波頭がぶつかり合い、ひっきりなしに軽快な水の音がこだまする。海水は、みるみるうちにコンクリートの高さギリギリまでを満たしていく。透き通った水面には、流される勢いで巻き上がった小石が幾つも浮かんでいる。海がわたしを迎えに来たのだ。
ボオ、ボオー。心臓を震わすような音が二回、続けざまに鳴り響く。停泊の合図だ。駅のすぐそこまで迫ってきたウミネコが、滑るようにホームへ進入する。線路に浮かぶ船もそれに続く。海水を分け入るように進む船の動きにあわせて、波がざばあと音を立てながらホームの上に流れ込んできて、わたしの足首から下は海水でずぶ濡れになった。船とウミネコ、動く二つの物体はわたしの目の前まで来ると、ちょうど電車がするのと同じように器用にゆるりと速度を落としていく。ウミネコは滞空して二、三はばたいたあと、船頭とも船尾ともつかない形をした船の鼻先に、静かに降り立った。ウミネコは船が完全に止まったのを確認するように少し身震いをして首をかしげたかと思うと、じっとわたしをみつめてくる。船に乗るか乗らないか、わたしに問うているようだった。わたしが船に乗るのにふさわしい者であるかを見定めているのかも知れなかった。
わたしがその鋭い視線につかのま逡巡していると、ウミネコは先ほどまでとは打って変わった甲高い鳴き声をあげた。

船に乗るのか、それとも乗らないのか。

穴の開かない切符は、手の中にある。
これがあれば、わたしはカノキシへ行ける。
ウミネコを通じて、なにか途方もないものがわたしを呼んでいる。この船に乗るために、気の遠くなるような時を待ち焦がれていた気がした。
水上で揺らめく船は時おりホームの縁にぶつかって、ゴオン、ゴオンと鈍い音を立てている。
あと三回。あと三回この音が鳴ったら、そうしたら船に乗ろう。そうしよう。

ゴオン。ゴオン。ゴオーーン…
最後の一回を聞くのとほとんど同時に、頭の中で堰を切ったように記憶の濁流が流れ込んできた。
家族のこと、友人のこと。気に食わない隣人、好物のレモン・パイ。楽しかったことや、泣きたかったことや、それから、
「やり残したこと…」
無意識に発された声に驚いて気がつけば、わたしは船の乗り入れ口に掛けようとした足を反射的に引っ込めていた。自分の喉から出た音がやけに新鮮で、瞬間、あたりを覆っていた薄い膜のようなものがはじけた気がした。
目が覚めたように立ち尽くすわたしを眺めていたウミネコは、すいと目を細めてから大きく羽をばたつかせて欠伸をした。そしてすっかり興味を失ったようにこちらを一瞥したあと、ミャーオと鳴いた。

ウミネコはふわりと宙に舞い上がったあと、船の頭上を一周してから来た道を引き返すようにまっすぐ飛んでいく。
ボオー。先導する動きに呼応するように、船は静かに進み出した。二つはまるで見えない糸で繋がっているように、同じ間隔を保ちながらホームを抜けていった。
船の通ったあと、それに連れられるようにして海水が少しずつ引いていく。線路の隙間に取り残された細かい砂つぶが、キラキラと光を反射していた。色が変わるほどに水が染み込んだ靴を乾かそうと足元に目をやると、横に貝殻が転がっている。忘れ貝だろうか。拾いあげて薄い殻を撫でてみると、わたしはいままでにも数え切れないほど、この光景を目にしたことがあるような気がするのだった。

◆◆◆
ずぶ濡れの靴を片手に持ちながら、裸足で待合所に向かった。靴の先から滴る水が、歩いてきたコンクリートに点々と跡を作っている。結局切符は使わなかった。使えなかったのだ。
「まただめだったね」
そう呟くと、わたしは窓口に転がっているボールペンを手に取って未使用の切符に線を引いた。それから小さな箱のなかに無造作に放り込む。そして最後に、拾った忘れ貝をまた一つ積み上げるのだ。何度やっても同じことだった。いつも肝心なところでやり残したことを思い出してしまうのだ。やり残したこと。もう出来ないこと。あきらめてしまえば簡単なのに、いつになったらわたしはカノキシへ行けるのだろうか。遠のいたはずの潮騒が耳の奥で鳴り止まない。それどころか、ますます音は大きくなるいっぽうだ。頭がひどく痛む。

壁に掛けられた時計の針は、午後四時四分を指していた。
#小説 #短編 #海

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