『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』 もしかしたら自分は“いい人間”じゃないかもしれない
by キミシマフミタカ
小さい頃から「優しくて思いやりのある子だね」と親に言われて育ち、大人になってからも自分は“いい人間”であると思っていた。それが自分のアイデンティティで、人から非難されることがあっても、それは相手の誤解であると(心の底から)思っていた。
ところが最近、いろいろな状況で人から“よくない人間”だと指摘されることが重なり、もしかしたら自分は“いい人間”なんかじゃないのかも? と思いはじめた。アイデンティティが崩壊するわけだから、これは重大な問題である。
そんなとき、オレンジ・イズ・ニュー・ブラックを見始めた。海外ドラマを見ていると、しばしば起こる現象なのだが、それがここでも起こっている。シンクロニシティだ。
主人公のハイパー・チャップマンは、裕福な白人家庭に生まれたお嬢さんだ。ところが、レズビアンの恋人の麻薬運搬を手伝ったため、発覚して刑務所に入れられてしまう。優しいフィアンセと涙の別れをして入所した世界は、まさに絵に描いたような女刑務所だ。
ヒスパニック系と黒人系の派閥抗争。ロシア人の料理番長と取り巻きの縄張り争い。屈折している所長と、病的な看守たち。偏執的なキリスト教信者や、ハンガーストライキを敢行するアジア女性。その中でパイパーは、孤立して虐められ、裸にされてナイフを突きつけられたりする。これは、そんな環境で成長するお嬢様の物語なのか、と最初は思う。
だがシーズン1の最後に、物語はいきなりダークな展開になる。一言でいえば、パイパーが自分のダークな部分に気づくのだ。自分がよかれと思ってやったことが全部裏目に出て、囚人仲間から非難され、恨まれ、罵倒され、傷つけられる。感情が爆発した後に残るのは、“もしかしたら自分はいい人間じゃないかも”という気づきだ。
だからといって、物語は急激に展開するわけでもなく、シーズン2に入っても、ドラマはまったりと進んでゆく。珍しくテンポの遅いドラマなのだが、米国で絶大な人気を誇っているのはなぜなのか? “いい人間”であることをやめると、人生は楽になる? 個人的には、それがこのドラマの主要なメッセージだと捉え、励まされながら見続けている。