『ナルコス』シーズン2
by キミシマフミタカ
シーズン2を見終わって、早くも『ナルコス』ロスが生じている。これは『ブレイキング・バッド』以来かもしれない。輪津直美さん絶賛の理由がよくわかった。ここで筋書きを改めて紹介することはしないが、ドラマを見て思ったことを記しておこう。
このドラマが魅力的なのは、おそらく物語が、基本的にDEA捜査官2人の視点から語られるからだ。捜査官のナレーションが効果的に入るために、複雑な物語の道筋がよくわかる。加えて、どこか寓話的な雰囲気も醸し出す。それがマジックリアリズムなのかも。
そういえば『ブレードランナー』も、後のディレクターズカット版より、ハリソン・フォードのナレーションが入った劇場公開版の方が、はるかに良かった。
悪事にかかわる者は、失うものがなければないほうがいいと思う。恋人とか家族とか、守るべきものを持っていると、どうしてもそこが狙われる、弱みにつながる。悪党なのだから、身軽でいるべきだし、享楽的に人生を楽しめばいい。人を殺しまくる麻薬王でありながら、家族も大切にするなんて、そのこと自体に無理がある。
たとえば『仁義なき戦い』の菅原文太が、強く吹っ切れていられるのは、守るべきものがないからだ。守るべきものが自分のプライドだけならば、人生はシンプルだ。
それにしても、パブロ・エスコバルを演じるワグネル・モウラとは、何者なのだろう。(資料によれば、ブラジル人の有名な俳優らしい)人を見据えるときの、落着き払った三白眼や、いったん重々しくうなずきながら、突然キレるのが怖い。無駄に手を下してしまうのが、『ゴッドファーザー』のドン・コルレオーネとの違いだが、子煩悩で愛妻家という設定や、ゆったりした物腰は、マーロン・ブランドを真似ているようでもある。
ともすれば、アクションシーンに陥りがちな犯罪ドラマだが、詩情あふれる映像も見逃せない。野原に佇むパブロの顔を、カメラが360°回って、背景の自然とともにフレームに納める。説明は一切なく、空を飛ぶ鳥の姿や、揺れる草木を映し出す。風の音も。こうした映像の手法は、明らかにテレンス・マリックの影響だと思われる。パブロの妻であるタタの横顔のアップも抒情的で、陰惨な物語の中のアクセントになっている。
前科のない素朴な青年が、犯罪組織に巻き込まれ、やがてパブロに最後まで寄り添う忠実な部下になっていくというエピソードがあるが、それは私たちの回りの誰かに似ている。本当は人の良い性格でありながら、強がる態度を取るために訪れる悲劇。人を裏切ることができないから、悪党につけ込まれ利用される。それはパブロその人の一部でもある。
パブロは、世界で初めてコカインの可能性を見出して市場をつくったため、世界有数の大富豪になった。考えてみれば、人が欲しがるものを製造し、販売ルートを確立し、ライバルを蹴落とし、マーケットを独占するのは、優良なビジネスの典型でもある。ビジネススクールの教材になってもいいほどだ(もうなっている?)。それがたまたまコカインだったから犯罪になるわけで、やっていることは、マイクロソフトもGoogleも同じだ。
こうした海外ドラマのお約束なのだが、DEAとCIAはなぜ反目し合うのだろう? 敵対する根底にあるのは、「だれの利益のために働くか」という理解の違いなのだと思うが、そもそも国益とは何だろうか? DEAの捜査官は人情的で、CIAの捜査官はクールに見えるが、本当はどちらが正しいのか、わからない。一見正しく見えるのは、行動がわかりやすいDEAなのだが、国益ということを考えるならば、やはりCIAが正しいのか。
発展途上国? の警察官や政治家は、汚職と賄賂の温床だ。まっとうな政治家になるのは命がけだが、同じく犯罪者になるのも命がけだ。その間でうまく立ち回ろうとするのも命がけである。かの国では、テレビのレポーターですら命がけの仕事になる。貧しく生きるのも、金持ちとして生きるのも命がけ。そう割り切ってしまえば、あとは選択の問題になるのか。たぶん、正義を求め命を惜しむ者だけが、愚か者の烙印を押される。
DEA捜査官のペーニャとマーフィー。行動も考え方も対象的な2人だが、女性が好きになるとしたら、やっぱりペーニャなのだろうか。
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