「アメリカン・クライム・ストーリー /O・J・シンプソン事件」 ぼくらが真犯人を探さない理由について
by キミシマフミタカ
殺人事件において真犯人を探すことが必ずしも重要でないことがある。O・J・シンプソン(愛称:ジュース)が犯した(かもしれない)殺人事件はまさにその典型である。
犯罪現場から、ジュースの血痕が見つかった。自家用車のブロンコには被害者(前妻のニコール)の血がつき、自宅からは犯罪に使われた血にまみれた手袋が見つかった。ジュースは前妻に暴力を振るい警察に通報された前歴がある。つい最近もストーカー的なトラブルがあった。おまけに出頭を拒んで車で逃げ出し、高速道路でパトカーと逃走劇を繰り広げた。証拠は完璧で行動は異常、誰がどう見てもジュースが犯人である。
だがジュースは高給で“ドリームチーム”と呼ばれる超一流の弁護士たちを雇い、陪審員裁判で無罪判決を勝ち取った。ドリームチームは、決定的な証拠を“ロス市警によるでっちあげ”と断定し、裁判の争点を人種差別の問題にすり替えた。だが、もしジュースが犯人でないとしたら、前妻と若い男を無惨に殺害した真犯人はどこにいるのか?
でも、そんな捜査は行われなかった。捜査をするのは警察や検察の役目なのだ。もし「なぜ真犯人を探さないのか?」と市民が尋ねたら、彼らはこう応えるだろう。「だから真犯人(ジュース)を逮捕したじゃん」。ゆえに、裁判の焦点はジュースの無罪の可能性を追求することだけに終始する。これは一見おかしなことだが、そうでもない。
ある小さな村があるとする。その村の中で殺人事件が起きた。真犯人らしき一人の男が捕まる。彼は無罪を主張し、決定的な証拠はないが、クロに近い。村中の人たちは話し合う。彼は本当に犯人なのだろうか? だがタイムマシンがない限り、真相は誰にもわからない。そこで住人たちの争点は、「私たちは彼を犯人とするかしないか」に変更される。つまり、自分たちの共同体を維持するためには、彼を受け入れるか排除するか、どちらが得なのだろう? という判断だ。そこではもはや、真犯人の追求は重要ではない。
当時のアメリカは、O・J・シンプソンを排除しないことを選択した。そちらの方が共同体を維持していくために有益であると判断したのだ。そこでは被害者の遺族の哀しみなどは除外される。裁くのは神ではなく村の住民、あくまでも共同体の維持が大切なのだ。
制作総指揮は「アメリカン・ホラー・ストーリー」のクリエイターであるライアン・マーフィー。女性検察官を演じるのは、同ドラマの常連でエミー賞主演女優賞を受賞しているサラ・ポールソン。「アメリカン・ホラー・ストーリー」は奇抜な設定の怪奇シリーズだったが、ホラーが人間の根源的な不条理性を描くものであるとするならば、この「アメリカン・クライム・ストーリー」の闇の方が深いかもしれない。
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