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あいの里2を観て思う、本当の私とは 2024.12.09
あいの里2を全部観た。前半戦は面白味に欠けており、これだったらマッチングアプリ使えば良いのでは、、?と思うこともあったのだが、見どころは後半にあったと思う。
ネタバレを含むが、今回はクレイジーなメンバーが多かった。それは否定的な意味ではなく、むしろ本来の人間っぽさがあった。コロナ禍以降あまりにも漂白された現代では、見て有り余るほどの心の歪みやコンプレックス、行動原理が見えた。編集の意図はあるにせよ、今の感度のSNSであれば簡単に燃えてしまうだろう。
その中で希望を感じたのは、あやかんとギタりんの2人だ。あの2人が親友的な関係になったとかは別にどうでもよい。前半戦を見ている限りあの2人のことを好きになれる人はあまりいなかったんじゃないかと思う。集団の中で自分都合な振る舞い、自分にしかベクトルが向いてないようなコンプレックスだらけのメンタル。もっと我慢しろよ、相手を理解しろよ、世の中そんな甘くないぞ。と見てもないのにXの投稿が目に浮かんでくる。
正直この2人とは現実でも関わりたくないと思っていた。それは今でもそうかもしれない。ただ、2人でいる時の2人は好きという人は多いと思う。常に変わりつづける人間関係の中で、人はいくらでも醜かったり、逆に魅力的にも見えたりするものだということを、これほど分かりやすく提示している例はない気がする。さて、果たして本当のその人とはどこにあるのか。
小説家の平野啓一郎が書いた、私とは何か「個人」から「分人」へ、という本がある。家族といる時、友達と遊んでる時、会社で働いてる時、私たちはそれぞれ大なり小なりその振る舞いや性格に違いがあると思う。この本は、本当の私はどれだろう?と悩む人に、我々の最小単位は「個人」をさらに分解した「分人」なのだ、と提示している。
つまり、その場その時の人間関係に応じて、それぞれの自分がつくられる。それの総和が自分であり、そのどれか1つが本当の自分というのは違うのではないか、ということを言っている(けっこう前に読んだので理解が違っていたら謝罪)
集団で生活するギタりんは好きじゃないが、あやかんといる時のギタりんは好きというのは、まさしく、そのギタりんの分人が好きということになる。職場には嫌な上司がいるけど、ある日街で家族といる時の姿を偶然見かけたら印象が変わったとか、この人といる時の私が好きという理由で結婚を決めたという話だって聞いたことがある。
つまり、人とは基本的に多面的であり、嫌いな人の中にも好きな部分を見つけられるかもしれないということだ。今でも私は誰かを嫌いになる感情を持っているが、それで完全に諦めるのではなく、その人を好きになれるように努めていくことは結果として自分にとって幸福になるのかもしれない。
まあでも人間関係の構造は基本的に変えられないので、嫌な人は嫌なままであり続けるという現実も忘れずにおきたい。
以上、身も蓋もない話を書いた。