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自分の中に潜む“狂気”

今回は、最近ちょっと気になっている「自分の中の攻撃性」について考えてみたいと思います。

自己愛性パーソナリティ障害を知って

確かにこの20年以上の日々全てが不幸だったという訳ではありませんし、そこまでの自覚はありませんでした。

ただ、去年の暮れに、通勤中の車の中で音楽を聴いていたのですが、この曲がたまたまかかり、聴いていると何故か左目からだけボロボロと涙が出てきて、しばらく止まらなくなってしまいました。

車だったので良かったのですが普通にいたら「やだ!あのおじさん怖い!」って通報されてたかも知れません。

でも、この時に「あ。もしかしたら自分が危ない域に来てしまったのかも…」と感じました。

確かに今までにも何回か思った事があっても、自分の中で「まだまだこのくらいなら乗り越えられる」と“変な自信”があったのですが、この時はちょっと違いました。

この時以降、今までよりも様々な事を調べる様になり、そんなタイミングで“自己愛性パーソナリティ障害”という「答え」に辿り着きました。

それは、初めは「驚き」でしたが、深く掘り下げて調べれば調べるほど「確信」に変わって行きました。

その「確信」により、自分が「被害者」だと認め、自分が何をしなければならないのかという「答え」に辿り着いた瞬間から、僕の中の何かが変わりました。

それは、「強く」なれたのかも知れないし、「無慈悲」になってしまったのかも知れない。

「正義感に燃えてる」のかも知れないし、「悪意に満ちてる」のかも知れない。

「戦う覚悟」が出来たのかも知れないし、「相手の不幸を願う」様になってしまったのかも知れない。

それは、「自分が正しい」と信じているけど、そんな考え方をしてると「もしかすると自分が…」と巡り巡って自分に突き刺さる。

こんな堂々巡りの思考から抜け出さなければと思い、こうやって文を書く…

書くという事

僕が学生だった頃はちょっと学校という環境が荒れ気味の時代だったこともあり、僕もその波にそれとなく乗っかっていたクチなので殆ど勉強らしい勉強もせずに社会に出ました。

なので文章力も無いし語彙力もこうやって「いつ誰に読まれるが分からないのに良く投稿してるね」って言われたとしても「すいません」と謝罪するしかないレベルなので、いつもそう思いつつ投稿させて頂いています。

ただ、書くことによって自分の心の中も整理されてる気がするのですが、不特定多数の方に見られる可能性があるという事は、なんらかの可能性で誰かからジャッジされる事もあるという事です。

そこまで考えていたと言えば嘘になりますが、もしかすると僕のこの状況を、誰かにジャッジして貰いたかったのかも知れません。

自分が心から大切だと思っていた人から、常に「否定」され続ける日々の中で、「その時の僕は何を考えていたのだろう」と、思い起こしては文字を打つ作業を黙々と続ける事が、自分の為のリハビリ的な何かになるのでしょうか?

それとも、この行為は誰かを傷付ける行為で許されない事なのでしょうか…

強化

自分が「被害者」だと認め、この先についての「覚悟」を決めた時から自分でも思うのですが自分が“強化”された様な感覚を持っています。

確かに無意識に準備していた“もの”だったのか、それとも深層心理で考え、この時の為に準備してた“もの”のかはわかりませんが、今では絶対に負けない確固たる“もの”があります。

その事については何を言われようとも絶対に負ける事は無いし、そもそもあちらの考え方が既に破綻しているので、あちらも追い込まれていて、かなり苦しい言い訳しか言えない状態です。

今までに、どれだけ酷い事を言われてもあちらから「離婚してくれ」と言われた事はありませんでした。

良く考えればおかしな話で、「私はあなたのせいで不幸になった」「全部あなたが悪い」「あなたさえいなければ」みたいな言葉をまるで刃物の様に研ぎ澄まし、何年も何回も投げつけて来ていたのに、その「1番の元凶の僕を排除しようとしない」ってどんな心理だったのでしょう。

自己愛性パーソナリティ障害について調べても、その事は書いてありますし、体験済みの方は良く理解して頂けると思います。

ちょっとやり方が汚いかもとは思ったのですが、先程言っていた“確固たるもの”を利用し追い込んで、逃げ道のない状況まで持って行ったところで「離婚してくれ」とこちらから言いました。

元々はこちらが何かを特別仕掛けた訳ではなく、本人がこの何年もの間に投げ続けていたブーメランをはっきりと可視化し、それを避けようの無い状態に持って行ったとイメージして頂けると分かりやすいかも知れません。

だからと言って、反省し、行動や言動を改めて二度とこの様な事を起こさない様に反省したりする人間性を自己愛性パーソナリティ障害の人間は本当に残念ですが持ち合わせてはいません。

なので、とりあえずの返事は「わかった」と言っていましたが、最終的な段階にならないと安心は出来ません。

それと今の時点では不確定要素ですが、もう一つ“弱み”らしいものもある様な気がしていますが、そこは今の時点では追求もしないし興味もありません。

ただ、色々な事が終わった後に、あの人の本当の本性を見る事が出来るかも知れません。

僕は強くなりました。

狂気

色々と今感じている事を書いて来ましたが、以前の僕と比較すると、明らかに「攻撃的」な自分がそこにいます。

「攻撃的」と言っても暴言を吐くでも無く、暴力を振りかざすでも無く、常にイライラしてたりする事はありません。

基本的には常に平常心。

以前なら軽いジャブ(ちょっとした皮肉や人格否定)を入れられたとしたら「なんでこの人はいつもこんな風にしか出来ないのだろう?」と疑問に思い、どうすれば改善できるかと答えを探していたのですが、「相手が自己愛性パーソナリティ障害なんだ」と一度理解してしまうと、全ての相手の行動原理が理解出来る様な気になってしまうので、「思考」の面ではもはや「物凄く有益な情報に溢れてる攻略本」を見ながらゲームをプレイしている様なものです。

普通は他人の思考と言えば、想像するくらいの事しか出来ないし、ましてや手に取るようにわかるなんてそんなにある事では無いと思います。

ですが、まるで「手に取るようにわかる相手の思考」を目の当たりにしながら冷静にそれを聞き、見ている。その自分自身の状況にはかなり違和感を感じます。

ただ残念なのは、その思考自体が元々形を成しているものでは無く、本人の都合の良いモノへと次々と形を変えて行ってしまうので、その思考の向かうべき所が何処にも存在しません。

なので、道を示す事も助言をする事も出来ません。ですが本人はそもそもそんな事は望んでいないのだと思います。

ただその思考は余りにも脆く、一貫性が無く、一時的に自分の罪を他者になすりつけ、自分の何の根拠もない優位性のぬるま湯に浸かって気持ち良くなっている気がしてるだけで、実際には時が経てば経つ程に自分自身を追い詰めていると言う現実に気付けず、そこから抜け出す為に誰を犠牲者にするのかと言う“正義の行い”を考える事しか出来ない様な状態なのでしょう。

確かに、色々と調べていて自己愛性パーソナリティ障害の被害者の方のブログや、「note」を始めてから読ませて頂いた体験者の方の投稿を見ても、確かに性別が違っていても年齢が違っていても周りの環境が違っていても、その被害者の方の体験や経験された事は、自分でも不思議に感じるほど共感出来てしまいます。

もしかすると、自己愛性パーソナリティ障害の人は、物凄くシンプルで単一的な思考で、一度その思考のロジックを理解すれば誰にでもその本性が手に取るようにわかる様な性質のものなのでしょうか。

それともそんな事を考えてしまう僕の方が狂気染みてるのでしょうか。

今は、自分を信じて心も鬼にして目的の為に前向きに考え、行動して行くという事は痛い程理解しているつもりなのですが、様々な時にふと自分を客観視すると「もしかして自分自身が自己愛性パーソナリティ障害?」「それとも何か違う障害があるの?」という思いに囚われてしまう瞬間があります。

実際に「暴言」を吐かれ、「人格否定」され続け、「無視」され続けたのは紛れもなく自分なのに、自分が被害者だった筈なのに、やっと立ち上がる事が出来て、いざこれから立ち向かおうと言う時になって襲われる罪悪感って一体何なんでしょう。

迷いも無く、吹っ切れてる筈なのに、時々この様な“罪悪感”に襲われるし、時にはその“罪悪感”さえ麻痺してしまい「もしかして今悪い顔して笑ってる?」と急に怖くなり鏡を見る事も。

今、自分自身が解決して行くべき問題についての考えが、ある程度煮詰まってくると、その“狂気”を感じて我に帰ります。

本当に“狂気”に取り憑かれてしまっているのか、それとも今までに無かった自分の思考や思想に自分自身が追い付けていないだけなのか、自分では正確な判断が下せない様な状態です。

本来の自分

本来の自分は、「能天気」で「ノンビリや」の「マイペース人間」で「平和主義者」で「涙脆くて」「捨てネコ」に1ヶ月に4回も遭遇してしまい飼い主を探すのに奔走する様な人間です。(当社調べ)

客観的に見た自分と言う人間と、日頃自分で何となく認識している自分と、潜在意識の中の自分と言うモノに、どこまで差があり、またはどの程度相反するものなのかは自分自身では全く分かりません。

ただ、上にあげた僕が日頃自分でなんとなく認識し、友人からもそう言って貰えてる自分は、きっと真実の自分に限りなく近い存在だと思うので、その自分を早く取り戻せる様に、余計な事を考えなくていい環境に一日も早く自分を置く事が出来る様に前を向いて生きたいと思います。

その為にしなければならない課題は山の様に有るのですが、進む方向が決まっているので、それだけでも今までの暗闇の中で方向感覚さえも失いかけてた頃の自分からすれば大きな成長で、この歳で自分が成長出来るなんて思っても見なかった事なので、ある意味感謝しなければならないのかも知れません。

今までに考えられなかった「自分の為に」と言う人として当たり前の意識をしっかりと保ち続ける為に、多少の“狂気”も、よくよく考えると自分がこの20年間に押し付けられて来た“狂気”に比べればたわいも無い事の様に感じられるので、その辺りもちゃんと冷静に受け止めつつ自分のバランスを取れる様にしていきます。

Twitterもやってますので良ければよろしくお願いします。m(_ _)m


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