我々がプロの合唱団に求めていることは何か?〜ただのアマチュアが演奏会を聴いて思ったことを綴るだけ〜
東京混声合唱団の定期演奏会を聴きにいった
以前クライネスの話をした時に大谷研二氏の件でちょっとだけ出てきたが、東京混声合唱団(以下、東混)は、日本有数のプロ合唱団である。
プロなので当然合唱を仕事にしている。僕のような趣味で合唱団に行ってボケを拾っているだけの人間とは訳が違う。めちゃくちゃ上手な方々が真剣に練習をしているだろう。多分ボケを拾う係とかはいない。そもそもボケたがりがいないと思う。いい場所だ。
東混は定期演奏会だけで年に4回くらい開催している。大抵の(アマチュアの)合唱団は定期演奏会を開催するとしても年に1回が相場だと思うので、相当な頻度だといえる。
しかも、いわゆる愛唱歌のよう易しい曲を演奏する気配はない。自分が聴いた第265回(!)定期演奏会では、間宮 芳生 の作曲した 『鳥獣戯画』 をはじめ、「歌詞vocaliseだけなんか?」と思いつつ曲が良くて心に残り続けている林 光 作曲の『黒い歌』 など、僕が歌おうとしたら形になるまでに何年かかるか分からない曲ばかりで構成されている。次回の定期演奏会の告知を見たら、三善晃の『縄文連禱』と、信長貴富の『二つの巨(おお)いなる情景』を歌うと書いてあった。マジで??
しかも、定期演奏会の他にも大阪公演や各地での依頼演奏など、様々な演奏をこなしている。3か月に1回のペースでかなり不可思議な曲たちを2時間くらい演奏する機会があるのに、それに加えてかなり多くの客演をするというのは、僕のような凡人には到底たどり着けない領域だろう。
そんな非凡な領域の一端を、凡人はるんるんしながら聴きに行った。
技術の高さとレパートリーの広さがプロとしての武器
質の高い時間であった、というのが演奏会を通しての感想だ。何のひねりもない。これでこそ凡人だ。
あそこまで自然な声を出し続けられるのは、プロとしての研鑽の賜物だろう。『鳥獣戯画』なんて奇声を上げたりしているのに声の質は変わらない。すごすぎる。音量変化で声質が変わらないのもすごい。特にdiminuendoは芸術そのものだ。あんなにアナログに消えていく弱音を僕は聴いたことがない。演奏を作っている個々の技術の高さがあるからこそ、意味の分からない曲たちを3か月に1回演奏しても大丈夫なのだろう。
演奏会の初っ端に『黒い歌』を歌うのも個人的に驚いたポイントだ。僕だったら開演して開口一番「ヤーーーーヤヤヤヤヤ」から始める勇気はない。ホールのコンディションも分からないし。この曲めちゃくちゃ音が細かいし。
アマチュア合唱団はどのような団なのか知られていない/これからどんな演奏をするのか不安である観客がいることが前提となるので、演奏会の1曲目はある種の自己紹介としての役割も果たしている。知らん合唱団がいきなり三善晃の『生きる』みたいな曲を歌い始めたらビビる。心の準備が出来ていない。よく知られた曲や分かりやすい曲で「自分たちはこういう団ですよ」という演奏をしてアイスブレイクとすることによって、のちの大曲演奏が本領を発揮するのだ。思えば、自分が大学時代に所属していたコールクライネスも、演奏会の1曲目は必ず団歌『われらうたう』であった。
そんな1曲目に意味の分からん曲を持ってくるという行為は、自分たちが十分知られた演奏会であり、観客に心の準備が出来ていると思っていないと出来ない行為であるように思う。ここにプロとしての矜持と観客への信頼を感じた。(あるいは僕がただ『黒い歌』を意味わからん曲と思っているだけで、東混の人や観客の人からするとあれがアイスブレイクだったのかもしれない。)
『黒い歌』でvocaliseだらけの時間を過ごした後にやってくる尺八とチェンバロとの演奏の温度差もかなりのものだった。そして尺八とチェンバロが退出したと思った矢先に現れたコントラバスや打楽器と一緒に奇声を発し始める。どういうこと?
こんなみょうちきりんなことをしているのに質が安定しているのがすごい。何を歌っても一定以上の質が担保されている。プロだ。合唱団としてプロの仕事が成立するための条件はここにあると思う。
真似されるような先端で居続けてほしい。東大の入試問題のように。
『黒い歌』の『次ハ火ダ』を聴き終わったとき、率直に「もっときれいにハモる曲も聴きたいねぇ」と思った。僕がシンプルなハモり大好き人間だからというのも大きいとは思うが、それくらい普通のハーモニーとかけ離れている(ように聴こえる)曲だったし、東混の良い所を最大限発揮できていないようにも思えた。
僕がこの考えを思い直したのは、『鳥獣戯画』が始まって少ししたころであった。アマチュアの合唱団で、この異様な曲の数々を高い質で聴ける場所はほとんどないであろう。語弊を恐れずに言うと、適当に歌ってそれっぽくなるような曲は定期演奏会の場でプロがわざわざ歌わなくてもアマチュアが勝手にやってくれるのだから、アマチュアが歌ってくれればいいのだ。プロの合唱団がやるべきことは、合唱を深堀ったり広く見渡したりすることで、これからの合唱界に残る曲を生み出し掘り出すことなのかもしれない。
こう思った矢先、東京大学のことが脳裏をよぎった。東京大学の入試問題は、しばしば他大学で参考にされ、数年後に類題が出される。これは、東大の問題がその科目の本質をつき、新たな視点や解法によって見る人を唸らせるからに他ならない。
東混も、合唱界の東大であるべきなのかもしれない。新たな曲や隠れた名曲を とうだい よろしく照らすことによって、合唱界全体のレパートリーは広がっていくことだろう。
東混のレパートリーが多いことは、合唱を知らない人も知っている人も、合唱の解像度を上げることにも繋がると感じる。
僕の場合は美術について全くの無知なので画家についての知識がほとんどなく、美術館に行くと初めて見る名前ばかりで自分の不見識を恥じるばかりなのだが、そういうところで一度見た画家の名前は他のどこかで見かけると反応できるようになり、絵の見方も何も知らなかった時と比べてなんとなく変わっているように感じる。最近だと山種美術館で見た東山魁夷がその最たる例だ。
この「なんとなく変わっている」というのは非常に大事なことだと思う。ちょっとしたプラスの変化を感じるだけで物事は楽しくなる。
東混はそのネームバリューと実力によって、「知ってる合唱団といえばここ」となりやすい。そこで歌われる曲やその作曲家は、美術に蒙い僕に対する画家のように、合唱の解像度を上げるための一助になるだろう。
これ以上話すとまとまらなくなってしまうので、今回はここで止めておく。
最後に、今回の演奏会のチケットを譲ってくれたメープルさんに最大限の感謝を込めて終わりとしたい。
それではまた。