成長するために必要な3つの指針。あるいは、友人と麻雀をした感想。
前回、麻雀のルールを説明した経験をもとに、自分がゲームのルールを説明する際に意識しているポイントを列挙した。
あのタイトルにした理由は簡単で、「なんかビジネス書とか自己啓発本っぽい切り口に見えないかな〜」と思ったからである。蓋を開けてみたら意外でもなんでもない凡庸な文章が出てきて悲しくなった。
オモコロの記事よろしく、「自分の想像では完璧な文が作れているのに、いざキーボードに触ると一気にイメージが霧散する」状態である。
![](https://assets.st-note.com/img/1725803014-0U5A6bN1KjIdGp9tl4FSzXvE.jpg?width=1200)
ざわさんの気持ち、今なら痛いほどわかる。霧散して仕方ない。頭の中ではずっとカーネギーやサイモン・シンがドヤ顔で闊歩しているのに。
まぁでも、とてつもない研鑽を積んでいるであろう村上春樹が『風の歌を聴け』で「完璧な文章などといったものは存在しない」と言っているわけだし、素人の自分が完璧に近い文章をすぐに作れるわけが無い。研鑽を積むのみである。
さて、今回は麻雀をしていた10時間の中で感じたことを記しておく。前回のようなイキり説明おじさんにならないよう、なるべく注意していきたい。
自分のメタ認知の暴走を抑えるために書き加えておくと、自分の考えていることを説明するということは、少なくとも誰かからイキっていると思われるリスクを含んでいるものだと思う。周りの目を気にして何も行動しなくなった人間はその時点で成長する可能性を捨てたことになる。だから他人に自分の思いを伝えるべく言葉を紡ぐことは、自分の発展を助長するための正当な手段なのだ。だから大丈夫。大丈夫だからね、うん。
メタ認知が落ち着いてきた。書き始めよう。
文章なのに早口なのがよく分かるのなんなんだ。
なお、『3つの指針』とか言っているが実際は本当にただの感想である。心のカーネギーが現実として表出するにはまだ時間がかかりそうだ。
おそらく前回よりも自分の思考回路がそのまま出てくるはずなので、しみたいの内部を覗いてみたい方にはオススメだ。問題はそんな人間などいないということなのだが。
理解するための相性を捉える
自分がゲームをする際は「世界観とかいいからルールが知りたいんだよ」と思いながらゲームプレイの方法を探る。そのおかげかは分からないが、ある程度のボドゲならすぐにゲームですべきことを理解でき、最低限の定石はすぐにプレイすることが出来る。
それもあって、麻雀を教える際にゲームの目的を最初に教えることになんの躊躇もなかった。
だから、ルールを教えようとしている時に先輩が「麻雀は雀を作るゲームなんだよね。頭が2枚組、身体が3枚組4セット。」
と言い出した時、肝が冷えるかと思った。自分にとってフレーバーテキストはゲームに慣れたあと知って嬉しくなるものだから。聞いた瞬間、心の中で「それいる!?」と叫んでいた。
(なんならこの後軽く調べたのだが、それっぽい内容を確認できたのがリックェさんのnoteの他に麻雀に本当に関わるか不明なツイートしかなかったので、「このフレーバーテキストはどこで知ったものなの???」と脳内が疑問で埋め尽くされてしまった。)
そして、この後の休憩でより驚いた。自分が「フレーバーテキストなんて最後に知れば良くない?」と話したところ、先輩と経験者の友人から「いや、フレーバーテキストで世界観に納得出来ないとゲームやる気にならない(意訳)」という返答をもらったからだ。
つまり、本質から知りたい人と概観から知りたい人がいるのだ。このことに今更気づいた。
ゆる言語学ラジオでビジュアルシンカーの話を聴いた時と同じ衝撃が走った。絵が思考の媒体になっている人に理解が及んでいなかったことと同じように、フレーバーテキストがゲームのルールを覚える魁になっている人に理解が及んでいなかったのだ。
嬉しくなった。自分はなるべくフラットな視点を心の中に持って人と会話しようと思っているので、自分の中に隠された偏見を見つけると「まだ世界はフラットになるんだ」という気持ちになる。
実際には自分の意見があるので完全に客観的にはなれないのだが、これからも究極の平坦を求める人ではありたい。まだ自分の心は凹凸に溢れているだろうから。
質問をすることはきっと得が多い
最初に1番話したいことを置いてしまう癖をやめた方がいい。あとの内容を成文化する際に飽きてしまうから。僕の悪い癖だろう。
さて、あとの2つでは、ルール説明をしている時に「めっちゃ楽だな〜」と思った原因について、これまでの自分の人生に対する反省を踏まえて書いていく。
ゲームをする際、友人からいくつか質問が投げかけられていった。その質問は全て「いい質問だなぁ〜〜」と思うものばかりだった。さながら池上彰である。
東工大の特命教授である彼は、ある授業中に「テレビでは、これから説明しようと思う内容に即した質問に対して"いい質問"だと言う(※)」と言っていたが、僕の気持ちはこれに近かったかもしれない。
※本人の名誉のために言っておくと、彼は「考えさせられる、本質をついた質問にも"いい質問"だと言う」とも言っていた。本当のいい質問はこういうものだと思うし、池上彰も実際はそう思っているだろう。
話が逸れた。
友人は賢いので、ルールを理解するために必要十分な内容を質問していた。
だが、賢くない僕でも、疑問に思ったことは質問していくことは大事だと思う。
いまさら大学1年生のオリエンテーションあるあるをしてんのかと言われそうだが、僕はそもそも質問するのが意味分からないくらい苦手なので、ことある毎にこうして暗示していかないとメタ認知に潰されてしまう。苦手なものからは距離を置くのも生きていく上で大事だが、成長機会を逃すほど愚かでもない。ここで改めて、分からないことは質問しようと感じたわけである。
メタ認知に負けないように成長していきたい。
賢い人ってすごい
東工大に入ろうと思い立ち、東工大に入れる程度に勉強を続けられる才能のある人は、勉強を経てある種の賢さを身につけていることが多いと感じる。これは先天的なものが多いとも思われるが、かといって後天的に習得できないものではなく、相対音感と同じく訓練すれば身につけられるものだと思う。賢さは身につけられる。
彼ら、彼女らを見ていると、「分からないことを質問する」ことがまず凄いと感じるが、自分から見て「理解するための道筋に無駄がない」ように感じるのがもっと凄い。餌を巣に運び入れるアリが巣への最適通路を更新し続けるように、物事を理解するための経路を日々更新し続けている。
いいノウハウがあれば、それまでの考え方を棄却することができる。こういう人は本当に賢いし、正しく努力してきた人の姿だと思う。
僕は怠惰な人間なのでやりたくないことから逃げ続けた結果、そのコツが体得できているとは言えない恥ずかしい人間になってしまった。東工大に入学し、卒業した人間の中で最も恥ずかしい人間かもしれない。
なので、これから恥ずかしくない人生を送るために、やりたくない事にも少しは向き合っていきたいと思う。2-30冊の積んである本を傍目に、そう思った。
なお、これは自分が見てそう思った感想なので、実際聞いてみて違ったらただの深読みおじさんである。実際に聞くことはないだろう。真実を知ることは恐怖と隣り合わせだから。
3,000文字の駄文を生成してしまった気もするが、これから成長する自分の未来に期待しつつ、終わりにしたいと思う。
それではまた。