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ただ自分を探して靴を鳴らす

会話でなんとなく腑に落ちない事が多くなった昨今。「俳句とかやってみようかと思っているし、エッセーとか書いてみたい。兎に角何か書き出してみたいんだよね!」この言葉に対して「へーそう」「ふーん」と興味が無いって返事が来るのが普通だったけど、最近では様子が少し異なる。「へー自分は興味が無い」と言われる事。態度だけじゃない。

最近否定をしっかり言う人が増えたよなぁ。否定を使うのは昭和の人なのか性分なのか慎重になる。


さて、映画の話に進んで、「ジュディ虹の彼方に」を観ましたので、雑談を少し。

この映画のキャストなどは省いて、ジュディー・ガーランド本人は昔のオズの魔法使いを観ただけなのですが、声だけはとても小さいころから馴染みの声でした。

親がたいそうな洋楽好きもあり、また洋画も好きという洒落た親だったので自分も必然とそこに身を置くのですが、親の映画好きが高じてサントラ盤も多数あり、耳にタコができるくらい聞いたのが「サウンドオブミュージック」と「オズの魔法使い」の二つだったのです。

英語で高らかに歌い上げるのは共通していて、どちらも意味が解らずとも高揚したり哀しくなったりと歌の伝えたい気持ちは誰しもが入っている筈。
子供心にこんな風に歌えるってどんなにすごいんだろうと無邪気に思っていました。

現実世界に身を置くドロシーことジュディー・ガーランドは薬物と若くして男性との関係からかなり不安定だったと伝えられています。薬物は単純に渡す側は仕事をしてほしいだけの燃料でしか無かったと思いますが、男性との関係は薬物による不安定さを誰かに救いを求めていた節もあるのだと思います。それが単純な恋愛や本能的な話としてでは無く必要とされているという安心感でしょうか。映画でははっきりとは見せずワンシーンで伝えるに留まっています。

彼女と彼女の子供との関係性も親子では無く、ジュディーにとっての【必要な人達】だった。映画の中で「良い母親」を何度も口にする彼女は母親とは何かが見えていない。自分は母親では無いので母親というものを理解しきれていないジュディーの気持ちが逆にある程度理解はできる。職場や友人知人、必要とされている事で自分の立ち位置が見える、そんな気持ちは誰しも持つのでは?だから子供が自分を必要としている事に答える事が母親だと思っているように感じました。

否定そして拒否される事への不安。不要だと言われてしまうのでは無いかと思い詰める彼女は今の日本で暮らしたらさぞ毎日辛いだろうか。自分の気持ちも考えも相手から否定を否応なくされてしまうこの世の中、彼女ならどう生きたのだろうかと想像してしまう。

だからこそ必要とされているのを実感できるステージに立つ事と、それが終われば誰も自分に気にもとめないと思っている事。皮肉にも彼女のいるオズの国はハートが無いブリキのきこりと自分で考える事が出来ないかかしと嫌だと言えない臆病なライオンを彼女一人で全部こなしていたのでしょう。

そして自分が子供心にオズの魔法使いの映画のセットがインチキ臭いと思える程度に時代は進んでいましたが、実際インチキペテン師が魔法使いの本当の姿なのはただの偶然では無いと思っています。ショウビスの世界はほんの少し間接的に覗いた事はありますが、どこか上っ面ばかりのインチキペテン師の魔法使いだらけだと自分ですら感じていました。どっぷり浸かった彼女はそれを気付いたときどうしたのでしょう?彼女の履いていたはずの銀の靴は多分すり減ってしまいかかとが鳴らなかったのかもしれません。


この映画で何を拾うかは自分が決めるものだと思いますが、少なくとも虹の彼方を探し虹の根元に居たジュディー・ガーランドという人が日本までその歌声が届いたという事は彼女の持つオズの国は壮大な広さと時間軸を超えていたのではないでしょうか。





映画のレビューというものの書き方がいまいちわからないのですが、とりあえず試しにダラダラと書いてみました。

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