見出し画像

変分原理 1 - 東横線と多摩川

あなたは東横線沿線でどこが一番好きですか?

僕は多摩川駅から多摩川を渡るまでが大好きです。

多摩川駅を出発すると加速するまもなく急カーブ、キィキィ音を立てながら亀甲山と多摩川浅間神社の切り通しに突入、抜けると視界がパッと開けて、多摩川が一望、さらに天気が良い日には富士山まで望めます。
ほんの数十秒ですがドラマチックです。

切り通しを通過する東横線と目黒線

大好きなのと同時に実はこどもの頃から疑問に思っていることがありまして今回はそれについて考えてみたいと思います。


なんでそんなに急カーブで多摩川に突入するの?

多摩川駅すぐの急カーブは本当に激しくて、昔は(30年以上前の話)電車の窓も開いてることが多かったし車体の性能も今と比べると低かったせいもあってキィキィ音がすごかった。

多摩川駅のホームは目黒線ができて複々線化される以前はもっと多摩川寄りにあって、ホームの半分ぐらいから先がカーブしてる。ホームと電車の隙間がとても広く乗り降りは恐怖だった。

幼かった僕でもこの急カーブはなにかとても無理をしていると感じました。

丸子橋を避けるため?

地図を眺めていると理由としてすぐ思いつくのが丸子橋が邪魔だからそれを避けるために急カーブせざるを得なかったということです。

でもこれは違います。丸子橋は1934年(昭和9年)にできました。東横線の多摩川橋梁は1925年(大正14年)にできました。丸子橋より9年早くできてる!

丸子橋ができる以前は渡し船です。船着き場が沼部駅付近にありました。
東急線の歴史は目蒲線(目黒~多摩川~蒲田)から始まりますが、そのなかでも多摩川駅や沼部駅は最初の方に作られています(1923年(大正12年))。沼部駅は渡し船に接続するという意図があったようです。

丸子橋もないのだったら、多摩川駅を出て、多摩川線(旧目蒲線)沼部方面に沿わせてからゆっくりカーブして多摩川を斜めに渡ってもいいのではないかと思います。

でもどうもだめみたいです。前掲した東急100年史に記載がありましたが、多摩川に橋をかけるのは難工事だったそうです。少しでも短く掛けたかったようです。

古墳と神社を貫通してでもなるべく短く

切り通しは亀甲山古墳群と浅間神社を貫通しています。浅間神社の本殿は前方後円墳の後円部にあります。

普通、神社の本殿の後ろってとっても神聖な場所なはずです。そもそも古墳がたくさんある場所です。鉄道通すのに勇気いりません?罰当たりそう。反対運動は起こらなかったのか?

東急100年史に以下の記載があります。目黒線開業を祝って浅間神社裏で園遊会が開かれたそうです。

目黒線が開業した1923(大正12)年3月11日の午前、田園都市会社の本社がある洗足駅前では1000人を収容できる大会場を設け、打ち上げ花火を合図に開通式典が開かれた。時の鉄道大臣、東京府知事、荏原郡長らから次々と祝辞が披露されたほか、渋沢栄一が最後にあいさつに立ち、すこぶる盛大な式典となった。午後からは浅間神社裏で園遊会が開かれた。また始発駅の目黒駅では美しく飾られた新車の発車式が行われ、沿線各駅付近では開通祝いの舞台が設けられて太神楽や手品などの演芸が催され、お祭り一色の光景となった。地元から大いに歓迎された、目黒線の開通であった。

1-2-2-2[コラム]開業当日の沿線の様子 東急100年史

この数年後、この浅間神社裏に鉄道通しているわけです。
この時点で、東横線建設計画は皆さん知っているはずです。

当時の人達からしたら、鉄道こそ希望・夢そして神秘的なものに見えたか。
あるいは国家プロジェクトに近い位置づけにも見えるから、内心反対でも大きな声は出せなかったか?

橋をかけることはどれぐらい大変なのか?

罰当たりはともかく、山を切り崩す工事をやってでも最短で橋を掛けたいと思うほど橋の建設は大変なのか?

次回は橋が川に対して直角に架けざるを得ない条件を探したいと思います。

追記:亀甲山古墳は1928年(昭和3年)に国の史跡に指定されている

1928年って東横線の多摩川橋梁ができて3年後です。
ひょっとして工事中に古墳の埋葬品がでてきたりして初めて古墳の存在に気がついた?

もしそうだったら、東横線が通ったことで亀甲山が守られた?

いいなと思ったら応援しよう!

とち
いただいたチップは記事を書くための取材や調査に使わせていただきます!