インド・カルナータカ州のOOTA(ミールス)を食べにいく旅3
3日目は、朝からMの家に向かう。途中で、Mが家族経営する印刷屋に立ち寄った。日本製の機械をつかっていると見せてくれたのは年季の入ったRYOBI製の印刷機だった。
これをつかった印刷物の風合いを気に入った同行者のHは、すぐMに印刷物を依頼していた。
Thalipeeth
Mの家に到着し、朝食にThalipeethをつくる。
何度か、私の投稿で引用・参照した『Indian Food: A Historical Companion. 』という本の中で、12世紀のカルナータカ王宮の食事としてgharikaというVadaが以下のようにとりあげられていて、その形状がとりわけ奇妙で気になっていた。
インド料理を学ぶ日本の仲間からGharikaおよびGarageが、Thalipeethという料理に似ていると指摘があり、Pに一連の流れを話したところ朝食で作ることになった。
写真のように、完成したThalipeethに穴はない。なんでも穴を開けるとそこから油を吸うので健康によろしくないというのが理由らしい。
Thalipeethとは、はたしてGharika・Garageなのかこの姿かたちからは予想がつかない。
少し消化不良になってしまったが、ThalipeethとココナッツベースのKay chatniとの相性は良好で体に良さげな優しい味だった。
Oota
朝食を済ませ、さっそく昼食を作りを始める。
この地域で定番のJolada Roti、Badanekai Yennegai、Holigeをつくっていく。
この日のハイライトは、なんといってもHoligeの作り方を学ぶことだった。
Holigeとは、黄色く丸いRotiでJaggeryで甘く味付けした豆の餡が挟んである。16世紀の料理本『The Supa Shastra of Mangarasa』の中で、すでに原形が記されているという[1]
名称は異なるがマハーラーシュトラ以南の州でも類似する料理があるらしい。
今となってはレストランで日常的に食べられるが、本来は祝祭で食べる料理である。
Mの姉Nと弟の妻も加わり、みんなでHoligeづくりにとりかかる。
まず餡をつくる。チャナ豆を煮てジャガリーを加えペースト状にする。豆の煮汁は残しておいてsaaruをつくるときに使う。つぎに生地をよくこねて色付けし、餡を中にいれボール状に丸めていく。これを食べる分だけ平らに伸ばして焼いていく。単純だが手間のかかる料理である。
Ootaの前に焼きあがったばかりのHoligeを食べさせてもらった。
GheeをかけたHoligeは、餡の甘味とGheeの風味が調和し驚くほどおいしかった。
日本の食べものでいえばアンパンにバターをかけたような感じだろうか。
しかし、Holigeのチャナ豆とジャガリー、Gheeが織りなす甘くて豊かな風味と黄色く丸い月のような優雅さを、自分の知る料理で表すのは難しい。
個人的に、食事における甘い料理の立ち位置がどこにあるのか分からないこともあり、甘い料理全般に苦手意識を持っていた。しかし、甘い料理がさまざまな料理と同じタイミングで並ぶこととコースの中の料理として提供されることは違った受け入れ方ができると感じた。Holigeは後者の料理で食事のコースの中で食される。
食事の順序
食事の順序として、RotiとBadanekai Yennegai、gojju、Podiなどをあわせて最初に食べる。合間に生野菜をつまむ。
この日の生野菜は人参、きゅうり、ビーツ、メティがあって、特にメティの強い青臭さが印象的で、きぬさやなどの豆類の葉に似た風味だった。
Rotiやgojjuなどを食べ終えたら、holigeを食べる[2]。つぎにライスがサーブされsaaruをかけて食べる。
最後はカードライスを食べて食事を終える。
この食事が北カルナータカの料理を味わう最後の機会だった。
北カルナータカとお別れ
この日は移動日で、ダールワールの駅から深夜の夜行列車に乗り、南カルナータカに向かう。
途中、北インド菜食レストランで食事した。PとMが満州風スープにフライトヌードルを入れて満足そうに食べているのをみて、なぜか不意に笑いが込み上げてきた。
それは、南インドの人もインド中華料理を好んで食べるんだなあという単純な気付きだと思う。
私も彼らと同じスープ、チョウメン、パラタを食べた。
おいしかった。おいしかったがどこか味気なかった。
ここ数日食べた料理は、なぜあんなにおいしかったのか。
フブリ・ダールワール最後の晩餐は、それらしくゆっくりしたものだった。
食事が終わり、電車の出発時間ギリギリになってしまいPが焦っていた。
わたしがインドの列車はだいたい遅れてくるから大丈夫では?とPに言うと、ダールワールが始発駅だから遅れることはないと教えてくれた。
駅に着きプラットフォームを足早に駆け抜け、何とか出発時間に間に合った。
しかし、定刻になっても電車は来なかった。40分遅れのアナウンスがホームに鳴り響く。
V、M、Wとはこの時点で別れた。
VとMは、別れの際に俺たち結婚するんだ。是非、結婚式に来てくれと言ってくれた。
彼らはそれぞれ近いうちに結婚するらしい。
たったの3日間しか北カルナータカ・キットゥールにいなかったのかと不思議な気分になる。
いつもの旅より学びが濃く現実の時間より長く滞在したように思える。
同行者のHは、これが1週間続いたらインプットし過ぎて倒れていたかもしれないと言っていた。
ちなみに、電車は40分後にも到着せず、結局2時間後に乗ることとなった。
インド人のPも始発駅なのに電車が遅れることがあるのかと驚いていた。
続く
脚注
[1]Achaya1994参照
[2]バンガロールの2つのレストランでholigeは最初に食べるものと話を聞いた。今回教えてもらった食べる順序と違っている。
参考文献
Achaya, K T. 1994. Indian Food: A Historical Companion. Oxford University press.