Cinema:『カリガリ博士』〜映画分析の魅力と人間らしさの形成〜
日本では利己的にふるまうことが生存戦略となり、家族愛や隣人愛が崩壊の一途をたどる今、自身のリソースを共有するといった機会も少なくなっています。
このような状況下で、内田先生は「『自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す』という『パッサー』の機能がすべての人間の本務であるという人類学的『常識』」(内田樹2008:80頁)を再認識する必要があるといいます。
私は、こうした「何かを共有して次のプロセスに流す」といった体験の場の再建に寄与できればと考えています。その一環として、文化的コモンズを形成することをひとつの目的としたプロジェクトである「MIDREE」に参加することにしました。
そんな私が今回皆さまと共有したいのは、今から104年前の1920年にドイツで公開された、ロベルト・ヴィーネ監督のホラー映画『カリガリ博士』。「フランシスという男性が語るおそろしい体験(カリガリ博士が夢遊病者のチェザーレを操って犯す連続殺人)」についての物語です。
なぜ第一回目に『カリガリ博士』を扱うのかと疑問に思う読者の方もいらっしゃると思いますので、簡単にではありますが下記に記しておきます。
学生時代、私が所属していたゼミでは、自身の趣味についてブログを書くという取り組みがありました。そこで私が初めて書いた記事が『カリガリ博士』でした。
ホラー映画が好きな私は、そのジャンルの古典作品に触れてみようといった単純な好奇心から『カリガリ博士』に関する記事を書くことにしたわけです。そのなかで、『カリガリ博士』が直接的あるいは間接的に後世の作品に多くの影響を与えているということが分かりました。『ガリガリ博士』は、映画分析の面白さを初めて教えてくれた、私にとって思い入れ深い作品なのです。
そんなわけで今回は、当時私が味わった映画分析の面白さや「自身のもとに流れ込んだ情報、文化資本」を読者の皆さまに共有すべく、学生時代に書き上げたものを加筆修正し、次のプロセスに「パス」を送りたいと思います。
それでは、「おわりに」で会いましょう。本題に入ります。
Ⅰ.ドイツ表現主義
『カリガリ博士』はスタジオセット、キャラクター、ストーリーの全体構造など多くの点で様々な映像作品に影響を与えています。
おそらく、皆さんがいちばん注目するのは、歪な形をした坂や窓、極端に大きかったり小さかったりする扉、ひどく傾いたり光と影が強調されている建物などのセットでしょう。これは20世紀初頭からドイツを中心に流行していた「表現主義」という美術運動の影響が関係しています。
G・A・ヒュアコの著書『映画芸術の社会学』によると、「映画の歴史は、様式的に同質の集団ともいえる映画芸術の三つの、しかも三つだけの完璧な波が存在」(ヒュアコ1985:4頁)しています。その「三つの波」とは、1925年~1931年のドイツ表現主義映画、1925年~1930年のソヴィエト表現主義リアリスト映画、1945年~1955年のイタリアのネオリアリスト映画です。『カリガリ博士』は、この「三つの波」の1つであるドイツ表現主義映画にあたります。
「また、現在発展段階にある最近の映画技術にも三つの波がある」(ヒュアコ1985:4頁)のですが、本記事には関係がないので、今回は割愛。
さて、ドイツ表現主義(映画)の特徴について、改めて確認していきましょう。『映画芸術の社会学』の「ドイツ表現派の形質的特徴」(ヒュアコ1985:21頁)からドイツ表現主義の特徴をいくつかあげておきます。
西洋美術史において、19世紀中頃は写実主義(リアリズム)が主流でした。ところが、カメラの誕生により人々の視覚やその働きへの認識が変化し、19世紀後半には光や空間の変化を描いたモネやルノワールなどの印象派(印象主義)が台頭しました。この印象派への反応として出てきたのが、ドイツを中心に盛んであった「表現主義」です。ちなみに、表現主義の源流ともいえる象徴主義の画家には『叫び』で有名なエドヴァルド・ムンクがいます。
歪んだ背景を描いたり、建物や窓などを歪ませたりすることによって内面的な不安や恐怖を表現している部分は、ドイツ表現主義においても大きな特徴の1つといえるでしょう。『カリガリ博士』という作品からどこか怖さや不安を感じたのはドイツ表現主義の独特な表現が原因だったということです。音のないモノクロ映像のなかで、フランシスの恐ろしい妄想世界を現実世界のデフォルメによって区別し表現していたというわけです。
このような光や形状の歪みを駆使したドイツ表現主義映画である『カリガリ博士』は、ティム・バートンや丸尾末広といったクリエイターが生みだす作品に影響を与えています。
ティム・バートン原案・製作を手がけた『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)のハロウィンタウンは、建物が傾いていたり、扉や坂などが歪んでたり、独特な遠近感であったりと、『カリガリ博士』の世界観が漂っています。
さらに、『シザーハンズ』(1990)でジョニー・デップ演じるエドワードのスタイル(全身黒のタートルネック、顔は真っ白だが目元は黒)は夢遊病者の殺人鬼チェザーレのスタイルにかなり似ています。ちなみに、1980年頃から流行ってた(らしい)ゴシックロックのファッションなんかも元をたどればチェザーレのスタイルから影響を受けています。
そのほか、漫画家の丸尾末広は、『カリガリ博士復活』(1982)という漫画を描いてたくらいですから間違いなく彼も影響を受けてますね。
Ⅱ.映画あるあるの原点 ~夢オチ・妄想オチ
今度は『カリガリ博士』のストーリーの全体構造についてみていきましょう。
本作品、カリガリ博士とチェザーレによる連続殺人事件を目の当たりにしたフランシスの恐ろしい体験は、結局フランシスの妄想で、フランシス自身が最も狂気的であったという内容でした。
『オズの魔法使い』や『不思議の国のアリス』も主人公の夢オチ・妄想オチというストーリー展開。他にも、メアリー・ハロン監督の『アメリカン・サイコ』(2000)やアレクサンドル・アジャ監督の『ハイテンション』(2003)でも夢オチ・妄想オチは使われています。今では、幅広いジャンルに渡って「実は主人公の夢でした。」「実は物語は主人公の妄想で、犯人は自分自身でした。」といったストーリー構造をもつ作品が多数存在しています。今や「映画あるある」となった夢オチ・妄想オチの元祖が『カリガリ博士』だったというわけです。
しかし、ただの妄想オチだけで終わっていないのが『カリガリ博士』の評価すべきポイント。
作品のラストには、「アリアスアウト」という映像手法を用いて、少し笑みを浮かべているように見えるカリガリ博士の顔のみが映し出されて幕を閉じます。このシーンで物語を終えることで、観客に「実際のところ、フランシスあるいは全員がカリガリ博士に操られていたのではないか。」などの様々な考察をさせ、映画を終えたあとにも、観客に不安感や恐怖を残そうとしています。
「アリアスアウト」は、『キテレツ大百科』や『ドラえもん』などのアニメで使われているいわゆる「昭和オチ」というものです。もちろん、アニメでは不安感を煽るためには使われていません。
こういった点を踏まえると、『カリガリ博士』はストーリー構造と様々な映像手法をうまく利用し、最後の最後まで気が抜けない演出によって、鑑賞中さらには鑑賞後の恐怖や不安感を作り上げることに成功した抜け目のないホラー映画の名作といえます。
Ⅲ.光と影で表現される恐怖
最後に、前述した内容以外の注目すべきシーンを1つ紹介し、この記事の締めくくりに入りたいと思います。
注目すべきシーンとは、フランシスの友人アランが殺害されるシーンです。単に過激なシーンだからという理由から、とり上げているのではありません。着目すべきはその表現方法です。
『カリガリ博士』では、友人アランが殺害されるという作中においても最も過激なシーンをあえて光を利用し、影によって表現しています。流血描写などの直接的な描写はないものの、光と影によってその場の残酷さや恐怖感が最大限に表現されています。刺される前の取っ組み合いは、腕や指が影によって細長く映し出されていて、かなり生々しい。このシーンは特に、役者の演技も素晴らしく、アランの恐怖感や不安感といったものがかなり伝わってきます。
当時は白黒ですから、今のホラー映画やスプラッター映画みたいに血を映しても、観客の目には黒く映るだけ。それはそれで恐怖感や残酷さは伝わるのですが、ここでは殺害シーンを直接映さず、無駄なものをすべて取り除き、光と影のみで表現することでその場面を観客に想像させています。こうすることで、アランの殺害シーンは、直接的な描写よりも恐怖感や不安感を植え付けることに成功しています。ちなみに、影を壁に映し出すシーンは、後の様々な作品にもつながっていきました。
おわりに
本記事では、1920年のドイツ表現主義映画の代表作『カリガリ博士』をスタジオセット、キャラクター、ストーリーの全体構造、場面ごとの表現方法などの視点からみていきました。そこには歴史的背景や恐怖を生み出す様々な仕掛けが施されていること、さらには、それらの内容が後世に生み出される多くの映像作品につながっていることを発見できました。
その作品をつくった人物が直接的な影響を受けていなくとも、元をたどれば『カリガリ博士』などの古典映画があったりするわけですね。つまり、自分が知らないだけで、まったく違うジャンルの作品と作品とが、実はある点でつながっていたりするということです。
『カリガリ博士』という1本の作品を通じ、今回は様々な人物や作品に触れていきました。古典映画の鑑賞に限らず、作品の形式性に目をつけて鑑賞することは、いつもは観ないようなジャンルの映画に出会ったり、興味を持ったり、本を読んだり、美術にふれたりすることにつながります。そこには「発見」や「気づき」があり、知的探究心を満たすおもしろさがあるのです。
加えて、本記事のような芸術作品に対する探究(求)姿勢は、ヒト・モノ・カネの大量消費を前提とした資本主義社会への抵抗や人間らしさの形成において必要不可欠な姿勢であると考えます。
資本主義社会において、私たちは本来あるべき生活時間を労働時間へと強制変換させられ、あらゆる文化に触れる余暇を削り取られています。資本主義社会では、人間らしい生活は失われていき、文化的資本について考え、享受する機会も少なくなることでしょう。
こうした状況のなか、「MIDREE」は文化的な営みを取り戻す矯正装置であるといえます。そうした場に今回のような記事を残し、つないでいくことは、「人間らしさ」を取り戻すための有効なアプローチであると考えています。
今後も私は、人間の本務としての「パッサー」の役割を果たしていくつもりです。そして、いつか皆さまからの「パス」を受け取れる日が来ることを楽しみにしております。
しらはま
【参考文献】
Huaco, George A. (1965) The Sociology of Film Art, New York: Basic Books. (横川真顕訳『映画芸術の社会学』有斐閣、1985年)。
町山智浩(2020)『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』スモール出版。
山田和夫(1995)『映画100年-映画が時代を語るとき』新日本出版社。
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