友達の作り方についての悩みwith『いちばんすきな花』

↑まずサクッと私のnoteについての姿勢を読んだ上で今回の記事を読んでもらえるとありがたいです。


人生を振り返ると学生時代の大半は友達の作り方についての悩みを抱えて生きてきたという自覚がある。
何故かというと学生時代の私は"自ら話しかけて友達を作る"というプロセスを踏んで友達を作ったことがなくほとんどが声をかけられて出来た関係だったから。
本当は人一倍友達が沢山いる人気者に憧れていて誰とでもすぐに打ち解ける人を横目に見ては羨ましくてその輪に馴染んでみたくて仕方がなかった。
でも友達が沢山いなくても声をかけられなくても孤立しても別に問題はないというスタンスだった。
だから自ら人に興味を持つ→話しかけるというプロセスが友達作りの第一歩だと学べなかったのかもしれない。

当時は友達の作り方とか人付き合いで生じる違和感を上手く言語化して認識
出来なかったけれど今は説明出来る気がするので書いてみようと思った。

私が友達を作ることが苦手な理由は大きく二つある。

他人への興味の幅の狭さ

まず一つ目に他人への興味の幅が狭いことが大きい。
一言で表せばこれに尽きるのかもしれない。

話を掘り下げる前に少し余談を挟む。
・私は元々社交的な人間でもないし、今現在も友達は多くない。
・大人になった今の私の年齢では新たに友達を作るという機会は積極的に外へ出ていかない限りほとんどない。
・友人はいずれ結婚→家庭優先となるとすれば自分の人間関係は減っていく一方。(休日は常に友人と過ごさなければ気が済まないというわけでも依存心が強いわけでもないけれど何処かで孤独を感じる瞬間がぼんやりと存在する)
と考えた時、思い立ってSNSを通じて友達を増やす努力をしようと思った。
そして実際に長いことやりとりをして直接会って話すに至るまでの自分の言動を振り返った時に違和感に気がついた。

〈初手で短いラリーの雑談に意味を見出せていない〉
SNSでもリアルでも始まりは恐らく同じでその人の素性を知りたいと考えるのが一般的なんだと思う。仮名で名前を登録していたら「名前は何て呼んだらいい?」と聞かれるし、「どこに住んでる?」とか「何の仕事してる?」とか必ずそういった話題になる。そのことについてを完全に否定したいわけではないけれど、あんまりそこから話が広がらないことが多い。名前は登録している仮名で呼べばいいし、何の仕事をしているのかもさほど重要じゃない。
そんな風に一先ず素性を探るやりとりを終えると次はお互いの趣味の話が展開される。(ここまでは耐え…と思ってる)

例えばお互い共通の趣味が映画だった時。
私の中で趣味の話とは"好きな映画の話"という名目で"相手又は自分の価値観や考え方を提示"するための会話として重要な役割を担っている。具体的な作品名とその作品のどういうところに惹かれるのかを詳細に語るべきだと思っているから、要点を絞りつつ相手がその作品を知らなければあらすじも説明しつつ語る、となると当然文字の量も多くなる。私は相手から長文のメッセージが送られてきても問題はないけれど一般的にはあまり良しとされていないように感じる。

この時点で文字の多さに引かれなければ次の会話へと進むor(若干引いているかもしれないけど)相手が気を使い会話のノリを合わせてくれるor完全にフェードアウトという流れになりがち。これは相手を試しているというわけではなくて、見知らぬ人と友達になる≒長く付き合っていくためには必要なことだと私は思う。

興味の幅が狭いのは≒人に興味を持ちにくい≒そもそも自分に興味を持ってくれた人には興味があるということかもしれないと思った。(そんな言い方をすると凄く傲慢に聞こえるかもしれないけれど…)

友達の基準が高水準

二つ目に"友達"の捉え方が関係している。
結論から言うと私は良いところも悪いところもお互いに受け入れあえてこそ友達だと思っている。友達というか親友というのか、お互いが同じ量で尊敬していて尊重することができて受け入れあえているという実感が持てるような人付き合いを増やしていきたい。
「自分にそれが出来ているのか?」と聞かれたらそれなりには出来ていると答えたい。

例えば相手が自分と違う考え方をしていたとしても「それは違うんじゃない?」と一刀両断せず、「この人はそういう風に考えるんだなぁ」と心の中で思いつつ、相手の話が終わった後から自分の考え方を述べてみたりする。勿論自分が絶対正しいと言いたいわけではなく、嘘をついて相手の考え方に共感するのは違うと思っているから自分の考えを述べることも大切だと思っている。(優しい嘘というか限度があって考え方を言わない時もある)
考え方の擦り合わせというのか意見交換というのか、相手を尊重する言動は誰にでもできることじゃないことも理解はしている。相手の育った環境によってお互いに想像力が足りなかったり、許容量の違いが関係してきたりすると思う。今も私が親友だと思っている何人かの友達は恐らく、自分よりも精神年齢が高くて許容量も並大抵のものではないんだろうなと思う。(いつも仲良くしてくれて本当にありがたいよ)

「友達(親友)になれた!」と強く感じる瞬間があって、それは相手が悩みを打ち明けてきた時とか生い立ちを話してくれた時。ポロポロと涙をこぼしながら私に込み入った話をしてくれる。
ここで自分事に置き換えて考えてみると私が自分の秘密を話す時は、
①「この人は何を話しても受け止めてくれるだろうし誰かに言いふらすような人ではないだろう」と心から思えるほど相手を信頼している時
②相手を知るよりもまずは自分のことを信頼してもらうために自分のことを話そうと思う時
この2パターンで、この場合の①に該当しているから私に話してくれたんじゃないかなと思う。
これまでの人生で友達から深い話を聞く経験が多かったこともあって、涙するほどの話にならなければまだ関係性は浅いと感じているのかもしれない。


SNSを通じて友達を増やす努力をしようと思った時の気づきにはまだ続きがあって、大多数の人がタイムパフォーマンスを気にしてる現代ではここまでの間柄になるためには早い段階から自分のことをよく知ってもらって信頼してもらう必要があると思っている。(すぐに目指すのは至難の業だとも思ってはいる)
そんな時は②が当てはまる。

自分の話をする上では相手の話の受け取り方がどういうスタンスなのかを見極めることも重要だと思う。
その観点に着目しつつ、例えば「自分はこういうことをしている(こういうことが出来る)」という自己アピール的な会話をしたとすると、
・相手がポジティブ寄りな思考の場合、素直に凄いなぁと感心したりもっと話を聞いてみたいと思ったりする。
・相手がネガティブ寄りな思考の場合、マウントを取られたとか自分を(相手自身が)不甲斐なく思ったり見下されたと思ったりする。
このどちらかに分かれて若干パワーバランスが生まれるかもしれない。
(後者の場合は相手にも問題があるとも言えるけれどそう感じてしまう相手の事情を私は慮りたい)

私自身はどちらかと言えばポジティブ寄りの思考の人間と付き合っていきたいので「最近こんな挑戦をした」とか「今まではこういうことが苦手だったけれど克服してる最中」みたいな話が聞きたい。前向きな話は「この人がこれだけ頑張ってるから私も頑張ろう」と思わせる作用があるから。

ただ、私自身今は周りから中身陽キャとか根明と言われているけれど学生時代はどちらかといえばネガティブで陰キャだと思っていたから後者のような相手でもいきなりシャットアウトする気にはなれない。

何が言いたかったかというと、その結果として、自分が如何に凄いのかをアピールして話すよりも自分の失敗談や情けない話、おっちょこちょいな話を笑い話に変えて話すことがあったりする。就活で例えるところの短所をどう克服したのかみたいな感じで。
わざわざ自分の価値を下げるような話をすべきではないと思いつつも、親しみやすさや居心地の良さが生まれるならまぁ良いかなって…。
(時々舐められたり見下されたりしてると感じることもあって自分が蒔いた種のせいだなぁと反省することもある)

人の良さって自らアピールしていくものじゃなくて、相手が見つけるものだから"親しみやすさのためだ"というところまで相手が読み取れるかどうかも見極めているのかもしれない。(結局試し行動?)

本来はエネルギーを奪うよりも貰ったり与えたり、お互いが高め合い支え合い認め合う関係性がベストなはずなのにこれでは本末転倒しているという自覚もある。


好きなドラマの台詞から学ぶ

友達の作り方について常に悩んでいる私には心が救われた作品がある。
それは『いちばんすきな花』というドラマ。(心に刺さりすぎてシナリオ本もメモリアルブックも購入して擦り切れるほど読んでいる。本当に素晴らしい作品なのでみんな見てほしい)

そのドラマにはこんなセリフがある。

「綺麗なお花だなぁってうっとりしてる人に、それトゲありますよ。毒ありますよってわざわざ言わなくていいの。その人がどう見てるかでいいんだよ」

いちばんすきな花 第5話

定期的にこの言葉を思い出す。まさにその通りだなって。
まだ親友にはなっていないけれどこの先親友になるかもしれない人に対して、そして今現在親友と自分が認識している人に対しても毒になり得るような自分の素顔を晒す必要はないのかもしれない。
(だから思ったことはnoteにすることにした)

とはいえこんなセリフもある。

「お腹痛いときに、お腹痛いって言っても治んないけど、痛いのは変わんないけど、今お腹痛いんだなってわかってたい人はいて、わかってる人がいるとちょっとだけマシみたいなことはある」

いちばんすきな花 第5話

全部まるっきり共感したり理解したりできなくても良いけれど知っていてほしい、どうか慈愛の眼差しで見ていてほしいと期待してしまう。人って本来はそうあってほしくて。
「期待と信頼」「好きと執着」は紙一重だけどその良いバランスを探りながら人として好きでいたい。

最後に

2:6:2の法則があるように、人付き合いは自分のことを何をしても好いてくれる人が2割、どっちつかずな人が6割、何をしても嫌いな人が2割いる。私は最初の2割をいつも探し求めてるようなものなのだと思う。
体感的にはそんなに多くなくて1:8:1くらいだけど。

結局相性なんだろうね。どう転ぶかわからない6割(体感は8割)の人ができれば2割(体感は1割)になってくれたらそれは嬉しいことだけど、人の考えを変えることは出来ないし無理に変えさせようとは思わないから嫌いな人と合わせて合計8割(体感9割)の人は合わないものとして興味持てないままでも良いのかな…興味が持てないからと言って適当な扱いをするわけではないし。

SNSを通じて一緒に飲みに行ったある女性が凄く素敵な髪の色をしていたので私は「金髪良いですね〜お似合いです!」って褒めたらその人は「金髪は舐められないからね〜」と言ってたけど。
お洒落でやってるわけじゃないんだな…って思ったとしても考え方が違ったんだなぁって思うことにした。
"人は見かけが9割"とも言うから初見で舐められない雰囲気を醸し出さなければいけないのが世の中の常識だとするのならば、というか牽制?しなければいけないことならば私はそうはなりたくない。人を見下すとか見下されるとか気にして生きたくない。
お人好しな性格が損をするのかもしれないけれど自分が良いなと思える人との繋がりを心から大事にしたい。


ただそう思っただけ。