魚と私の類似点
「俺お前の書く文章、好きだよ。」去年の冬、産まれて初めて自分の書く文章を褒められた。
頭の中に浮かぶ考えや思いを可視化するのは小恥ずかしいけれど、口頭で誰かに喋るより、ずっと多くの時間を費やして文章を創るから、考えと思いは、より洗練されたものになると思う。実際、ここまでの短い文章を書くのにもう20分も費やしている。文章を読むのは数秒かもしれないけれど、それを書くには何倍もの時間がかかってしまう。創り出すのは困難だけど消費するのは容易い。
最早創り出した文章は自分自身の分身と言えるほど自分の心を削って書いている。私の書く文章は私自身だ。でも、大切なのは文章を読まれることだ。相手に自分の考えを少しでも理解してもらうことだ。だからどんなに書くのが大変だった文章も、その文章の価値を決めるのは書き手側では無く読み手側にある。
去年の冬、私は初めて自分の書いた文章を評価して貰えた。それは私自身を評価してもらえたことを意味した。私に価値は微塵もない。私は私のことを自分で評価できない。評価しなければいけないのだけど、自己否定ばかり繰り返し、自己破壊に陥る。
そもそも私が文章を書く必要性も、誰も私を求めてなど無いから微塵も無いのだ。でも私は文章を書き続けてしまう。つまり、文章を書くことなんて所詮、オナニーでしか無くて、性器から性液が出る代わりに、心から自意識が滲み出す。だから、実は文章を書くことに特に意味は無かったりする。オナニーに生産性など無いでしょう?でも、魚が泳ぎ続けなければ死んでしまうように、私も文章を綴り続けなければ死んでしまう。魚に泳ぐことを誰も求めていないだろう。それと同様に私に誰も文章を書けと求める人も居ない。
誰に求められた訳でも無く、私が私自身への懺悔として、私が私であるが故の行為として文章を書いていた。
それを水に流すようにインターネットへ放出していた。それをたまたま読んでくれた人が居た。去年の冬、私に価値を与えてくれた人だ。文章を書いてきて初めて意味を感じた。