かわいらしい人(小説)
世の中には、「かわいらしい人」が存在する。
えらいとかすごいとかではないけれど、
その人にしか出せない雰囲気や、安心感というものがある。
あたたかくて泣きたくなるような
そんな瞬間を提供できる人がいる。
私の行きつけのカフェにも「かわいらしい人」がいる。
「café」という店名で、小さなドアを開けるとささやかな声で「いらっしゃいませ」と声をかけられる。
「いらっしゃいませ」の言い方のもその人の個性が出ると思っていて、
元気な声の人もいれば、上品な声の人もいる。
「かわいらしい人」のいらっしゃいませは、そのどちらでもない。
歓迎はしてくれているのだが、こちらにものすごく興味があるわけではない。
居酒屋で騒ぎたいわけでも、ホテルのラウンジで贅沢に過ごしたいわけでもない気分の時にちょうどいい「いらっしゃいませ」
余計な抑揚、溜め、さらに一言、がないシンプルな「いらっしゃいませ」
その声に導かれて私はお気に入りの席に着く。
「何か飲みますか?」
席に着く直前のちょうどいいタイミングで聞かれる。
「コーヒーが飲みたいです」
「かしこまりました」
他のカフェに行くと、席についてから注文するまでに店員さんが待ってくれることがある。
私はその時々によって飲みたいものが変わるのだが、選んでいる間に見つめられている時間が辛い。
早く頼まなきゃと急かされる感覚。
この店は、向こうも向こうのペースで接客をしているので、気が楽である。気を使い過ぎない接客という絶妙なバランスが心地いい。
私にとってかわいらしい人とは、その人のペースや世界観を大事にしている人である。
マイペースであることが良しとされない世界もあるから。
構わずゆっくり歩いている人を見ると、癒される。
「かわいらしい人」
私もそんな人になりたい。
ところで、かわいらしい人と呼び続けたこのカフェの店主は、きえさん、という。
きえさんは身長150cmの小さな身体で週に3回このカフェを開く。
14時から21時まで、おやつと夜食を提供している。
きえさんは普段お客さんと会話する人ではない。黙々とキッチンで作業しているのだが、その姿が愛おしい。
その人柄はカフェの内装、メニュー、コーヒーひとつに溢れている。
とにかく全てが「かわいらしい」
きえさんがきえさんの感覚を大事にして空間を作り出していることがわかる。
きえさんはその空間以上のことを理解して欲しいとは思ってないし、向こうもこちらの詮索はしない。
常連になると、こちらの事情が店員さんに読まれるのではないかという心配もするが、きえさんには感じないし、むしろきえさんなら知られてもいいと思う。
絶対にどこかで話したりしないと信じられるし、きえさんは人のことを悪くいうということに興味がないから。
それはきえさんが聖人だからというわけではなく、ほどよい人への興味のなさなのだ。
だから、私も特別きえさんに興味を持とうとしないし、お互いちょうどいい距離感を保っていると思う。
ここにいてもいいんだ。そう思わせてくれるから私は週に3回カフェに来る。
きえさんの存在も忘れて、ただ自分の世界に入り込む。
帰り際におやすみなさいと声をかけると、眠そうな顔と笑顔を混ぜた顔で
「ありがとうございました」
とささやかに声をかけてくれる。
きえさんもきっとほどよい距離感を保ちながら、同じ空間にいてくれる私たちを必要としてくれている。
どんな人でも一人はちょっと寂しいけれど、自分のことは守りたい。
その守りたい範囲が私たちは似ているのだと思う。
週3回のペースで「ちょっと人を感じたい」と思うのかもしれない。
週3回のペースで「ちょっと人と離れたい」と思うのかもしれない。
カフェにいる時間以外のきえさんは知らない。
だけどこの時間だけは、お互いの癒しになればいいな。
きえさんのささやかな幸せを願いながら、私は今日も扉を開ける。