動物と文化
文:Rin Tsuchiya
こんにちは、今日はこの村の人々と動物との距離感の話をしたいと思います。あくまで個人的な印象を書いておりますので、そのことを踏まえて一歩引いていただけたら幸いです。
ここはとある民族誌に「農牧地域」と称されているように、市街地を出れば牧場が広がっています。飼われているのはウシ、ヒツジ、ヤギ、ウマ、それにこの地域特産のブタです。マドリード周辺の地域や南部アンダルシアでは、見渡す限りのオリーブ畑が広がっていますが、ここエストゥレマドゥーラという場所では木といえばカシの木で、この秋の季節にはドングリがたわわに実っています。このドングリはブタの餌になります。ドングリはスペイン語でベジョータ(bellota)と言いますが、ドングリだけで育てられたイベリコブタもまた「ベジョータ」というランク付けがされています。さすが雑食の代名詞ブタといったところでしょうか、ドングリもモリモリ食べます。
また家庭で飼われている動物は日本とあまり変わらないのではないでしょうか。イヌ、ネコ、インコやカナリアなどの鳥類、カメなどを飼っているようです。家禽としてニワトリもよく飼われています。私の下宿の隣家でもニワトリを飼っていて、朝目覚ましがわりに泣いてくれるのなら良いのですが、真夜中でも平気で鳴いてくるので夜はちゃんと寝てくれと願ってやみません。ただし願いは願いの域を出ず安眠は阻害されます。
村の市街地や郊外の教会を散歩していると、イヌの散歩をしている人を数多く見かけます。番犬や牧羊犬として飼っている人も多く、下手に牧場や人家の敷地に近づきある一定ラインを踏んでしまうと、お前たちいったいどこに隠れていたのかというほどに突拍子もなくワンワンワンワンと吠えられます。いかに見た目が可愛いイヌでも、噛まれては仕方がないのでここは紳士として彼らの領域を侵犯したことを受け止めて黙って退散するのが得策です。
さて、家畜とペットがたくさんいる地域ではありますが、動物を大事にしているのかというと疑問が残ります。もちろん家畜であれペットであれ、可愛がって大事にしている人は多いでしょうが、私が見かけた接し方というのはそれとはかなり距離があるように思えました。例として私の大家さんの家庭を弾いてみたいと思います。
私の大家さんの家にはベランダがあり、そこに一匹のミケネコがいます。名をパスカシアといい、毛並みも体つきもいいネコなのですが、ベランダに続くドアを境に全く家に入れてもらえません。私が確認した限りでは2、3回くらいしか家の中に入れてもらっいないし(もちろん私もその家に住み着いているわけではないので実際とは異なるのでしょうが)、まして撫でであげたり遊んであげたりするということもありません。
イヌも飼っています。この家に来た時はボールのようだというので、スペイン語でボールを意味するボラという名前です。あまり吠えない大人しい子なのですが、この子も全く撫ででもらっている様子がありません。さらにいうなら、この家のおじいさんが毎日二回、朝晩に車で10分ほどのところにある、かつて住んでいた家に行って花の世話をするのですが、朝9時ごろボラをこの家に連れて行って、電気も通じていない真っ暗な家の中に入れ、19時くらいに再び現在の家に連れて帰るという習慣があります。
この旧家の敷地にはウマが二頭いるのですが、うちビエントという名のウマは背骨やアバラが浮き出てなんとも痛ましいほど痩せこけています。別のウマの方が地位(?)が上らしく、ビエントが餌を食べようとすると追い払われたりしています。結構なおじいさんらしいのでそれもあるかもしれませんが、側から見ると何か別の接し方もありそうな気がします。
また、大型犬も一頭いるのですが、6畳くらいの柵の中に閉じ込められてばかりで、その外に出されることなく食事をして見知らぬ人が近づくと大声で吠える、ということしかしていないように見えます。
さらにほぼ野良ネコなのですが、白、黒、灰色、ミケ、サバトラ、キジトラ、などなど、いろんな猫が合計53匹います。このネコには毎日、パンを牛乳に浸して柔らかくしたものやソーセージ、キャットフードをあげています。なので食事はほぼ乱戦状態です。中にはソーセージは袋から出さないと食べられないことを理解せず、ひたすら袋をかじりまくる可愛いやつもいます。愛想のいい子は可愛がって撫でてやったりしていますが、基本的には来るもの拒まず去る者追わず。この場所を気に入って住み着いてこの場所で生まれた子たちだから、世話をしてあげているのでしょう。
そういった身の回りの動物のことを気にかける瞬間というも、もちろんあります。それは、脱走したり怪我をしたりした時です。ミケネコのパスカシアがドアの隙間を狙いすまして脱兎のごとく、いや脱猫のごとく脱走した時は必死になってみんなで探しました。「かわい子ちゃん、出ておいで」なんて、普段は使わない言葉で呼びかけていました。
気にかけるというのもケースバイケースで、先日ウマのビエントが倒れ起き上がれなくなった時は「〇そ野郎」と乱暴な言葉を使いながらも(もちろん悪意はない)、ちゃんと獣医を呼んで診察してもらいました。獣医も獣医で、立ち上がらないビエントに電気ショックを与えて無理やり立ち上がらせたり、それでも座り込む場合にはガリガリの体を蹴って立たせようとしたりしていました。
読者諸賢におかれては、動物を飼うものとして、愛情を持って接してやって当然なのではないかと思われることでしょう。私も例に漏れずそう思います。しかし、愛情がないというと少々語弊があるように思われます。
おそらく、こういった身の回りの動物の体調が悪くなったら、おじいさんやおばあさんは心底気にかけることでしょう。獣医も呼ぶし、良くなるまで見守ってやります。
おそらく、ここで流れているロジックは「そこにいてくれて当然」な存在としての動物です。ある種の受動的な態度であるとも言えるかもしれません。愛情表現の程度や方法はまばらですが、動物とともに生きている、そばに動物がいて当然で、それが欠けてしまうのは生活が潤滑に進まないこととつながります。ただ、その距離感に慣れすぎている観もあると言えるでしょう。ある見方をとるならば、人間中心主義、自己中心主義であるとも捉えられます。
この動物との距離感をもって、私は「文化」との距離感との相似を感じました。私はメイドインジャパンの日本人で、22歳まで海外にもいったことのない人間です。日本という場所、その「文化」は私にとって欠けることのないものです。いや、欠けるわけがないと思い込んでいるという表現の方が適切でしょうか。普段日本で、漫然とその「文化」の海を漂いながら生きています。その海の綺麗な部分もたくさん知っているし、それを愛してやまない自分もいます。しかし、ひとたびその海が汚れたり、水が減ったりしたらどうでしょう。おそらく私は海を汚さないよう、水が減らないよう、何かしらの行動をとるはずです。安寧の海を失わないためなら、多少の荒療治もやむなし、と考えるかもしれません。その態度は、この村の人々の動物に対する態度と似通っているのではないか、と感じます。この村人たちも、私がここで例えた海のように、「文化」のように、動物と接しているのでしょう。
ちなみにウマが死んでから、もう一頭のウマやイヌもよく撫でてやったり呼んでやったりするようになりました。近くになくなったからこその気づきがあるというのも、文化と似ているような気がします。