エデン条約編の(おそらくは激しく間違えた)読み解き方(2)
前回のおさらい。
・アズサよかったね。
・ハナコお前大概にせえよ。
・ヒフミさんパネェっす。
というわけで、つづき。
次はどの女の子の話かなと、期待しながら下にスクロールしてください。
■ベアトリーチェの物語
さて、ベアトリーチェの物語の話をする。
ブルアカプレイヤーの99.9999%は若い女の子が大好きなはず(当社調べ)なので、なんでだよあんな赤いおばさん興味ねえよもっと若い子の話をしろよと思われるかもしれない。
が、そもそも『エデン条約編』で起きたことの基本図面を引いたのが彼女なので、他の子たちの話を進めるうえでも、早めに触れておかなければいけないのだ。
先に出てくるあの子やこの子の物語を知るための準備と思い、しばしお付き合いいただきたい。
……長くなりそうな予感がする。
・ベアトリーチェという名前の話
ベアトリーチェは生徒ではない。
ゲマトリアである。
生徒たちとは違い、ヘイローを持たない。つまり、原型を持たない。
ヒフミやモブたちですら、有名どころではないというだけで、原型を持ってはいるはずだ。キヴォトスの正規の市民ではない、外側からの来訪者であるゲマトリアたちには、それすらない。
代わりに、彼らはそれぞれ、己を表現する名前をつけることで、アバターとしての自分自身を定義づけた。
というわけで、あのゲマトリアが名乗る「ベアトリーチェという名前」という記号にも、解釈されるべきテクストが内在している。
第一に上がってくるのは、もちろん、ダンテにより綴られた叙事詩『神曲』第二部のヒロイン(?)である。
『新曲』は、著者ダンテ氏自身を主人公にした地獄~天国の観光物語である。
そしてその案内役として、幼少時に死別した自分の初恋の女性を、めちゃくちゃ美化&神格化して登場させている。
これだけ見ると、少々こじらせす……いや、えーと、コメントに困る感じのアレに思えるかもしれないが、そこは「自分の体験を語る」と「物語を創造する」との境目がはっきりした近代以降の視点で見ているからで、当時はおかしなことではなかったはずだとは留意しておきたい。
ともあれ、『新曲』のベアトリーチェとはそういう立ち位置のキャラクターであるということである。
そして、ゲマトリアのベアトリーチェは、自らに課したその名に関して、確実に自覚している。
元ネタではダンテ個人の案内人だったのに、ここでは「すべての巡礼者の」と、なかなか大きく出ている。
このベアトリーチェの名前には、少なくとも、「新約聖書をベースにした後世の二次創作作品のキャラクターの名を名乗ることで、自分は新約聖書の展開に支配されないまま、一方的に影響力を発揮する」くらいの狙いはあったと思われる。
実際にこの名前にそういう機能があったかどうかはわからない。
言葉遊びレベルのものに留まっていた可能性はもちろん高い。
が、実際に狙い通りの機能が発揮されていたのではという推測も、同じかあるいはそれ以上の確度で、成り立つ。
なぜなら我々は、(時系列的には逆だが)前例をひとつ知っている。
「新約聖書をベースにした後世の二次創作作品のキャラクターの名を名乗ることで、自分は新約聖書の展開に支配されないまま、一方的に影響力を発揮する」を実際にやってのけていたかもしれない、容疑者を一人知っている。
ファウストの名を振りかざした彼女が、あそこまでの大暴れを成し遂げていた以上は。
ベアトリーチェの名を振りかざした彼女も、物語から同質の後押しを受けていたのかもしれない。そう考えることは、できる。
・ベアトリーチェが目的のために積み重ねてきたことの話
彼女が具体的に何をしてきたのかの過程は、あまり描写も説明もされていないので、わかりにくい。
なんか色々やってたんだなー、くらいの印象だけ抱いて読み進めた人も多かったのではないだろうか。というかほとんどみんなそうじゃない?
最重要キーワードは、やはりこの、「儀式」だろう。
最終局面以前に関して
「アリウスの子供たちを騙して搾取しましたー」
的なことは言っていたが、これも「儀式」のための下準備の意味合いが強く、搾取することそれ自体が目的ではない。
さて、この儀式。
具体的には、「ゴルゴダの丘におけるキリストの処刑」の再演だ。
新約聖書における最重要の一幕をまるっと私物化する。
「父たる神の身元へと神の子が帰る」という一文を、「神の領域へのチャンネルが開く」というところだけ切り取って、利用しようとする。
そういうことだ。
とんでもねえ話である。
さらにとんでもねえ話として、彼女は実際にこれを成功する寸前まで行って、神の領域としての「キヴォトスの外」へのチャンネルを開くところまでやってしまったのである。
「キリストの処刑」は、言わずと知れた、あの黙示録をもはるかに上回る、新約聖書の超有名最重要エピソードである。
旧約の時代と新約の時代の境である。
キリストが人類の罪を背負って処刑されたことで、神と人との関係は、それ以前とそれ以後で明確に線引きされた。そういうやつである。
これを再演するうえで、どうしても用意しなければいけないものがあった。
処刑する用のキリストである。
……いや、あのさあ。
「処刑用のキリスト」って何なのよ。不信心が限界突破して、無神論者が見てもビビる字面だわ。
いや問題は字面だけじゃない、そもそも用意しようと思ってできるものじゃない。少なくともドンキには売ってないぞわかってんのかベアト。
でもまあ、そういうことなのである。
どんなに難しいことであれ、やらなきゃ目的達成できないのだから、やらなりゃいけないのである。
高いハードルを越えた向こうにはきれいな空が見えるぞきっと。
ちなみに、私はブルアカを始めてからそれほど経っておらず、実はすべてのストーリーを追えてはいない。なので、もしかしたら別のところで言及されているかもしれないので、あまり自信がないのだが、
・イエス・キリストを原型とするアバターの生徒は、いる。
・が、『エデン条約編』の間はずっと欠場している。
……と読んでいる。
間違ってたら笑ってください、そしてこっそり教えてください。
この推測の正誤はまあさておき、ベアトリーチェは、自分の目的のためには正攻法以外の形で「キリスト」を調達しなければならなくなったはずだ。
そんなわけで、彼女は、がんばった。
いやもう、本当にがんばったのである。
・アリウス学派の話
以前の記事で少し触れた、ニカイア会談の話を思い返していただきたい。
今回のベアトリーチェがんばった物語は、まず、あの場所から始まる。
「父と子と聖霊の御名に於いて(Pater, Filius, et Spiritus Sancti)」
というフレーズを、まあだいたい誰でも一度は聞いたことがあるだろう。
これはだいたい、「神の名に於いて」と同義だ。
祈りの言葉の中で「父と子と聖霊」という言葉が使われた時、この三つの言葉で、神そのものを表現しているものとされる。三位一体というやつだ。
「父」とは父なる神、「子」とは神の子キリストを指す。
「聖霊」に関しては神学上めちゃくちゃ多様な解釈と議論があって、どれかひとつを採択して挙げるのもアレだし本筋から外れるので、そういうものがあるとだけ触れておく。
このすべてが等しく神の側面を示していて、すなわちすべてが等しいものだ……と、現代においては説かれている。
つまり、そこに優劣はない。あってはならない。
以前にも少し触れたが、遠い過去においては、違う解釈をした者たちがいた。
「神の子であるキリストは、父である神の被造物だ」
「だから三位一体の中には明確な優劣がある」
彼らはそう提唱し、めちゃくちゃ周囲の怒りを買った。
キリスト教を割れさせたくない、ひとつに統一しておきたい、という当時のローマの政治事情も状況を後押しした。
彼らアリウス学派は、ニカイアの街で開かれた前述の会議にて公的に、そりゃもうド直球ド真ん中の、異端認定を受けた。
この時、聖書に、それまではなかったはずの「神と子は同質だよ!」という記述が追加されすらした。
あまりにそのまんまなので、推論というのも憚られるやつになるが。
この一連のくだりは、「第一回公会議」によるアリウス学園のトリニティ追放として、キヴォトスの歴史にも、ほぼほぼ同じものが刻まれている。
そしてこの、史実からキヴォトスに持ち込まれた「アリウス」という記号が内包するテクスト。
それは、ベアトリーチェが抱えていた難題への、一筋の光となるものだった。
「(神の子である)キリストは、(父である神の)被造物だ」
先に出た、アリウス学派が掲げた主張である。
異端として彼らが追放され、否定する文章を原典に書き加えられたことで、少なくとも表の世界では、完全に消滅したはずだったものだ。
だが、消滅したはずのアリウスの残党は、秘匿されたアリウス自治区に残っていた。アリウスの教えを伝える地が、生き延びていた。
そして、この教えをねじまげて拡大して歪曲してから運用すれば、「キリストは造れる」という主張が生成できてしまうのである。
もちろん簡単な話ではないが、不可能と可能の間の境界が、アリウス自治区においてはわずかなりと薄れて可能性はある。
そしてそれが、ただの無茶であったはずのベアトリーチェの挑戦を、成功一歩手前まで推し進めてくれた奇跡のひとかけらだったかも。
ちなみにベアトリーチェ当人は、そもそもアリウス自治区を支配したのは、秘匿された場所だから以上の理由がないと言っている。
なので(彼女の弁をそのまま信じるなら)ベアトリーチェは意識しないまま、結果として、アリウス自治区が内蔵していたであろうテクストを利用したということなのだろう。
なかなかもってるな、あいつ。
・アンチ・キリストの話
新約聖書には、アンチ・キリストというものの記述もある。
ようは、キリストの偽者である。
この記述自体は「ヨハネの第一の手紙」にあり、「ヨハネの黙示録」には含まれてはいない。
が、同じくキリストがヨハネに伝えたものであるということと、引用の通り「終わりの時」のこととして言及しているということで、繋げて考える者も多い。
「終わりの時を告げるもの」としては、前の記事で触れた「黙示録の四騎士」なる者たちもいる。
アンチ・キリストの記述を黙示録に連携して考えるなら、役割の似通った者たちは、同じように出現して同じように振る舞ってもおかしくないだろう。
そして、黙示録の記述に沿うように展開していた『エデン条約編』の中において、
・黙示録にいう「白い馬の乗り手」を背負ったアズサと、
・黙示録にいう「赤い馬の乗り手」を背負ったヒヨリと、
・黙示録にいう「黒い馬の乗り手」を背負ったミサキと、
・黙示録にいう「青白い馬の乗り手」を背負ったサオリと、
・第一の手紙にいう「アンチ・キリスト」を背負った誰かが、
「終わりの戦いの鐘を鳴らす」ためにともに行動していてもおかしくない。そういう話になる。
誰かって。
その枠に当てはまる子、一人しかいないじゃん。
・アツコの物語の話
というわけで、アツコである。
本物を用意できないなら、偽物を使えばいいじゃない!
大丈夫、祭壇が信じてくれれば本物と機能は変わらないはずだから!
そこまでお気楽なことを考えていたかどうかはわからないが。
アツコが、ベアトリーチェによって調整された、「アンチ・キリストの原型を背負ったアバター」として機能するようにさせられたことは、おそらく間違いない。
少なくとも、彼女が「処刑する用のキリスト」の役を望まれ、遂行させられていたことに関しては、疑いの余地がない。
なぜなら、最終局面においてベアトリーチェがアツコを指して呼んだ名は「Agnus dei」。「神に捧げられた子羊」を意味するラテン語で、まさに、処刑されるキリストをピンポイントで指して使われる言葉だからだ。
「アンチ・キリストの原型を背負ったアバター」を人造する。
これも、言うほど簡単なことではなかっただろう。
なにせ、そのための手段は、ベアトリーチェいわく「教育」である。
教えてどうにかなるものなのかそれ。
いや、どうにかしたんだろうけど。
「教育」という単語をどれだけ拡大解釈したらできるのかはともかく。
ロイヤル・ブラッドという最高級の素材を用意し、丁寧に専用の教育を施し育てて、さらには特別なマスクによって保護まで施して。
ベアトリーチェ自身に自覚はなかったようだが、「神の子は造れる」可能性を示すアリウス自治区の特異性にもたぶん後押しを受けて。
そこまでやって、積み上げて、準備してきた。
うん。
なんていうかこう、やったことは初めから終わりまで間違っていたけれど、この時にベアトリーチェが口にした「丹精込めた」という部分だけは、事実であり真実なんだろうなとは思える。ご苦労様。
(なお深くは触れないが、ユスティナ派の複製の制御に必要であったりもともと「胸を貫かれて処刑される」に儀式的な意味を持っていたりで、アツコの本来の原型はアリウス学派の動乱の中で斃れた聖女ユスティナその人ではないかと推測できる)
・ベアトリーチェの目的の話
そこまでして奮戦していたベアトリーチェだが、エデン条約編における彼女の最終目的は何だったのか。
これに関しては一通り、劇中で語られている。それを読み進めれば、少なくとも表面的なところまではわかる。
「崇高」を求めて、高位の存在になることを求めて、支配することを求めて、そうやって世界を救う者になることを求めた。
そのための手段として、キヴォトスの外側にある力を求めた。
キヴォトスがサイバースペースであるという前提の上で考えると、彼女の目的はよりわかりやすいものになる。
サイバースペース外へのアクセス権限を手に入れたかったのだろう、彼女は。それを「高位の存在になる」と認識、および表現していた。
さっくりまとめてしまえば、彼女は神になりたかった。
そして彼女にとって神とは、審判者であり救済者であり絶対者だった。だから彼女は、審判者や救済者や絶対者になろうとした。
彼女の目には、先生こそが、〝それ〟であるように見えていた。だから、その座を奪おうとして、アンタゴニストであることを宣言した。
(この宣言をしたせいで先生がプロタゴニストとしての行動権を得てしまったのではという解釈もできそうだが話が逸れそうなので割愛)
先生本人にこう言われ、「なにすっとぼけてやがんだこの野郎」とキレたのは、ベアトリーチェ自身の目的がまさにそこにあったからであろう。
先生が「審判者で救済者で絶対者である超存在」でないと、困るのだ。
なにせ彼女は、「審判者で救済者で絶対者である超存在」になりたかったのだから。
そして彼女にとっての「審判者で救済者で絶対者である超存在」とは、すなわち先生のことだったのだから。
すぐにお前の立場を奪い取ってやるぞ。その立場にはお前じゃなくて自分のほうがふさわしいんだぞ。そう思っていたからこそ、何度も冷たくあしらわれながらも、懲りずに教育論争などを仕掛けていたのだから。
よくいるだろう、最期の最期に「私は、あなたみたいになりたかったんだ」と言い残して死んでいく系の悪役。
ベアトリーチェは、あの手合いだったのだ。
問題は、彼女の目に見えていた先生が、彼女の抱いた幻想でしかなかったこと。これは、彼女が「巡礼者の幻想」ベアトリーチェを名乗ったことと、きっちり呼応している。
幻想を名乗って、幻想を追った。
だからまあ、現実には何者にもなれないまま、舞台装置に堕ちてから消えていくことになるんだねと。
それが彼女の物語の必然であり、オチであった、と。
敵の姿が見えていなかったがゆえに、最初から負けていた系のヴィランである。
(あ、ちなみにここで言及しているのはあくまで『エデン条約編』でのベアトリーチェについてであり、その後、『最終話』における彼女については触れていない。あそこでの彼女はなんというか、文化背景としての〝キヴォトスの外〟に溺れてしまっているので)
・ベアトリーチェの敗因と先生の勝因の話
『エデン条約編』クライマックスにおけるベアトリーチェの敗北は、なんというか、ふわっとした流れで決定づけられている。
アリウス・スクワッドと先生が儀式の場に到着した時の彼女は、順調に儀式が進んでいる最中だったので、勝ち誇っていた。
自分の勝利を確信していたし、実際、あそこからの負けにつながるような要素は(少なくとも彼女の視界内には)なかった。
彼女はあの時、キヴォトス外とのチャンネルを開くことに成功し、そこから力を得ることもして、より高位の存在、超越者になったはずだった。
そして、化け物の姿へと変身し、先生らに戦いを挑んで、
ふつうに負けた。
敗因にはまったく触れられていない。
先生は大人のカードを出してすらいない(プレイヤーが所持する生徒ではなく固定レベルのイベント生徒たちだけでの戦闘だった)。アリウス・スクワッドのメンバーに特殊な力が授けられていたりもしない。
あらゆる劣勢を覆す「先生の指揮」はかなり無茶苦茶なバフではあるだろうが、それは対ベアトリーチェ以外のほとんどすべての戦闘でも使われ続けている。あの一戦でだけ特別な効果を発揮したなどとは考えにくい。
ベアトリーチェは超越者になった、はずだった。
審判者で裁定者で救済者だ。なんでもできる万能存在だ。少なくともベアトリーチェはそういうものになろうとしていたし、なれたという確信を一度は抱いていたはずだった。
なのに、そういったことに一切触れず、ふっつーにバトルで負けた。
いやまあ、ゲームではよくあることだというのは、確かだ。
「おれは神の力を手にいれたぞ!」
からバトルに入り、数字のやりとりの果てにふつうに討ち取られていくボスなど、いくらでもいるだろう。
ベアトリーチェもそのパターンだ、と考えてしまうのは易い。
しかし、ここでもうひとつ、小さな違和感を取り上げてみたい。
バトルに臨んでベアトリーチェが変身した際、アリウス・スクワッドのメンバーは、「あれがマダムの本当の姿」だとか「あんなものに私たちはずっと」だとか、そういう反応をしていた。
神の力を手に入れたことでマダムが変化した、とは誰ひとりとして考えていなかったのである。
まさしく、そういうシーンの真っ最中であるはずなのにだ。
このあたりについて、仮説はいくつか立てられる。
その中でも、もちろん「脚本のひと、そこまで考えていないと思うよ」あたりが最有力だ。そう思えてしまうくらい、このベアトリーチェ敗走のあたりのシーンは、展開の裏付けを感じさせてくれる描写が少ない。
だがここでは、もちろんその説を採らない。
「儀式は失敗している」
「先生はそのことを予め知っていて、アリウス・スクワッドのメンバーに共有している」
このふたつが成立すれば、変身時にメンバーが「あれが本来のマダム」と秒で納得したことも、ふつうのバトルでベアトリーチェが敗れたことも、説明がつくだろう。と提唱してみる。
だが、そんなことはありうるのだろうか?
先生はプレイヤーキャラクターである。我々プレイヤーは先生の行いをあますところなく観測している。プレイヤーの見ていないところで先生が行動することはない。
この制限下で、「儀式の失敗を知る」……いや、「儀式を失敗させる」ことが、彼(or彼女)に可能なのだろうか。
というところで。
またずいぶんと記事が長くなってきたので、以下は次号ってことで。
以下次回ってことで。