エデン条約編の(おそらくは激しく間違えた)読み解き方(0)

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話をしよう。
エデン条約編の話だ。

・まえがきと、大量の予防線

エデン条約編は、名作だ。
前提知識なしで読んでも充分に楽しめるし、それは否定されるものではない。

しかし同時に、難解でもある。
ふわふわとした賢人の語り。
突然出てくる登場人物の心情や信条。
なぜそうなったのかが説明されない、ご都合主義の奇跡ともとれる急展開。

「気にしなくても楽しめるからいいじゃん」

まったくもってその通りである。
しかし、逆にこう考えることもできる。あれらをちゃんと読み解くことができれば、そうでなくても美味しい名作であるエデン条約編から、さらに別の味を見出すことができて二度おいしいのだと。

大抵のスポーツ漫画は、そのスポーツのルールを知らずに読んでも、充分に面白い。
しかし、そのルールを覚えたうえで読むと、展開の機微や登場人物たちの細かい葛藤まで解像度高く読み取ることができて、同じ作品から違う楽しみを引き出すことができる。
それとだいたい同じだと思ってもらっていい。

その試みに必要なのは、主にキリスト教についての、それほど専門的ではない(だが意外と知られていない)ほんのちょっとの知識だけだ。
ここの記事ではそういうものを、ついでに考察厨の様々な超解釈を添えて、いくつか並べて紹介しようと思う。

とはいえ、丁寧な解説はしない。
やったほうがいいかなと一度は思い、そのように書き始めもしたけれど、どう考えても馬鹿げた文章量になるからだ。

かっとばして書く。
わかりにくすぎるかな、と思ったところは後日書き加えるなどをするかもしれない。しないかもしれない。たぶんしない。

題材が題材なのだから当たり前ながら、特定の信教およびその経典や歴史などについて色々と触れる。さらにはそこに対する個人的な解釈などをふんだんに行うこともご了承いただきたい。

追加で断っておくと、ここから書くことには私個人の勝手な解釈と、私が『エデン条約編』周辺から読み取った気になって並べる妄言が大量に含まれる。
それらは私にとっての「すごいエデン条約編」の解説であり、別の誰かのそれと競合も対立もするつもりはない。あらゆる物語は、読み取った者それぞれの心の中にあるものこそが真実であり、否定されるものではないがゆえに。
つまりはまあ、解釈違いだと思った人は笑い飛ばしてやってください。

あと、専門家でもなんでもない人がろくに調べもせずに書くものなので、主に聖書の解釈などで間違えまくる予定です。あまり真に受けず、眉に唾をぬりたくりながらご覧ください。

誤脱上等。見つけたらこっそり教えてね。
あと当然だけどネタバレ全開なのでそのへんもよろしく。

よし、こんくらい予防線貼っておけば、あとは何書いても大丈夫だな。
暴れるぞ。




■『エデン条約編』と新約聖書


・「新約聖書」は何度も書き換えられているという話

まずは前提知識の話から。
非推奨ながら、読み飛ばし可。

新約聖書というものがある。
まあ、これはたぶん誰でも知っているだろう。

『エデン条約編』の元ネタとして新約聖書が使われている。
まあ、このへんも、ほぼ誰でも気づいていることだろう。

では、いま我々の知るその新約聖書がいつどこでどのように出来上がったものなのかという話になると、どうだろうか。
「キリストの死後に弟子たちとかが書いたんだよね?」
こう答える人は多いだろう、そしてこれはいちおう正解だ。
いちおう、というのはつまり、この先の話にはそれでは不足だということだ。

キリストの死後に、彼に縁のあった者たちが「あのお方はこんなことを仰っていました」「あのお方はこんな行いを成していました」という話をいろいろ書いて、それをアンソロジー化したものが新約聖書。
その認識は正しい。少なくとも、間違ってはいない。
ただし、そうやって生まれていたのは、ギリシャ語で書かれた原典中の原典だ。当時のそれと、現在において新約聖書と呼ばれている教典とでは、様々なところが異なっている。

だからなんだよ、と思われるかもしれない。
何語で書かれてようと聖書は聖書でキリスト教はキリスト教だろ、そこに何の違いもありゃしないだろうが、と。

違うのだ。

宗教に限らずどこの世界でもいえることだが、すべての文章は、読んだ人によっていかようにも解釈されうる。そして、解釈されたその内容がすべてだとして運用もされがちである。
要は、元はひとつのキリストエピソードアンソロジーというひとつの書であったとしても、断片的にしか読めなかったり超解釈したり間違った伝聞を信じてしまったりタイパ重視のファスト経典に頼って聞きかじりしかしなかったり自説を補強するために恣意的な解釈をしたりすれば、「聖書の内容」とされた事柄は簡単に歪むのである。
そこまで極端でなくても、読解者の持つ知識や経験が各々でずれてしまえば、内容の理解もずれる。長い歴史の中、そのずれは蓄積し、致命的な断絶を数多く生んだ。

そもそもここの文章を読むような人間なら、「解釈違いによる戦争」なるものがいかに人類の根幹に根差したどうしようもないものなのかを、誰に言われることもなく深く理解しているものと思う。
ようするにそういうことなのだ。人類は昔から人類なのだ。

……というような理由で、「これが聖書の内容だよ」とされた事柄は、歴史上何度も書き換わっている。
我々が「新約聖書」でググって出てくるやつは、幾度も幾度も改訂を重ね、時代に合わせた変遷を乗り越えて、ついでにいくつもの言語を経由して翻訳されて、できあがったものだ。

と、ここまでは、ただの史実の知識。
そしてここからは、考察勢特有の飛躍を含んだ話になる。

・『エデン条約編』のメインテーマの話

前段で、新約聖書は何度も内容を書き換えられてきたと触れた。
そしてここからは、この「教典の書き換え」というものが、『エデン条約編』における核のようなものだという話をする。

いや、それではぬるいか。
『エデン条約編』は「新約聖書改竄の物語」である、とここで言い切ってしまおう。

これだけだとわけがわからないだろうから、サンプルをひとつ挙げる。

ヨハネの黙示録というものがある。
新約聖書の最終章、世界のクライマックス、オタク大好きセカイノオワリ、のあの黙示録である。

小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得えようとして出かけた。

新共同訳・ヨハネの黙示録 6章1~2節

エデン条約編中盤に展開する「陰鬱な物語」は、おおむねこの黙示録の流れに沿っている。
登場人物が一対一で対応し、ひとつひとつのイベントを丁寧にこなし、わかりやすい「世界の終わり」へと全てが突き進んでいた。
これは逃れられないものだ、定められたものだ、と劇中の智者たちが繰り返し述べた。

「ユスティナ聖徒会、エデン条約、あの襲撃……」
「アリウススクワッド、第一回公会議、古聖堂、発射地点とタイミング……」
「カタコンベ、アミューズメントパークの怪談、アリウス自治区の位置……」
「戒律の守護者………エデン条約……『エデン』………」
「……」
「は、ハナコさん……!?大丈夫ですか!?」
「……」
「……仮定に過ぎません」
「数十にも渡る飛躍を前提としていますが、しかし、万が一これが本当なら……」
「これを解決できる方法は、存在しない……?」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編・第3章12話

誰が何をどうしようと、黙示録に書かれた通りのことが必ず起こって、黙示録に書かれた通りのオチに行きつくんだよと。

物語の強制力に、物語の登場人物は抗えない。
あのあたりの「賢い連中が自分たちの中だけで納得している感」を出して語られていたことの多くは、そんな感じのことを言っていた。
そして、誰一人として、それを否定することはできなかった。

そこに飛び出してきたのが、あの、ヒフミの大演説である。

「アズサちゃんが人殺しになるのは嫌です……」
「そんな暗くて陰鬱なお話、私は嫌なんです」
「それが真実だって、この世界の本質だって言われても、私は好きじゃないんです!」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編・第3章19話

この時点で彼女は、メタな視点からの「自分たちの物語」と、それがどうあるべきとされているのかについてはっきりと言及している。
黙示録(という名は知らずとも)をなぞる形で自分たちの物語が展開している、ということを認識している。そのうえで、

「終わりになんてさせません、まだまだ続けていくんです!」
「私たちの物語……」
「私たちの、青春の物語を!」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編・第3章19話

これである。
これは、「黙示録の記述をなぞる物語を歩かされている自分たち」を、「自分たちの青春を送っている自分たち」で塗り替えてやるという宣戦布告だった。
少なくともあのとき、ヒフミは、「自分たちの運命を支配しているっぽい『世界の本質』なる得体の知れない何か」の存在を確信し、敵視し、そして、

「物語」の書き換えを宣言した、のである。

そして、(裏で先生が色々やっていたこともあり)実際にそれをやってのけもしたのである。

物語の登場人物が物語の強制力に勝てないなら、物語そのものを書き換えてしまえばいいじゃない。
そういう理屈である。

……いやまあ、うん。
いきなりこんなことを言われても、「はあそうですか」であろうというのはわかる。考察勢が暴走すると行間どころかわけのわからないところに屁理屈を引っ張ってくから困るよなー、という反応になるのもわかる。

そのあたりについて、もちろん否定できたものではない。暴走する考察勢の屁理屈であることは事実だ。
そのうえでだが、暴走中の考察勢はこう主張する。

「この推論が正しいかどうかは知らんし、興味もない」
「だが、このへんの仮定を踏まえたうえで読んだ『エデン条約編』は、踏まえずに読むのとは違う味が追加で楽しめてお得だぞ」

このnoteは、まあそういう意図で、そういうようなことをつらつら書いていくものになる予定である。

予定通りにいかなかったらごめんなさい(先に謝罪しておく)




■『エデン条約編』の主だった「元ネタ」たち


いくつか羅列する。どれもガチで有名なものばかりなので、聞いたことすらないという人は少ないと思われる。

ここでは個々については解説せず、のちのちこういったものを扱うよという顔見せ程度にとどめる。

便宜上こういう形でWikipediaへのリンクを貼ったが、ここで特に重要になるのは「ゴルゴダの丘での処刑」あたりのエピソード。新約聖書の最初のクライマックスである。
ちなみに「マリアの七つの嘆き」で調べると、このゴルゴダの丘での一連のエピソードだけで、シッテムの箱のロックが半分くらい外れるということがわかる。

さっきも出た。

オタク大好き、新約聖書の最後のクライマックス、世界の終わり。
色々な作品にて扱われているので、まあ、今更説明はいらないだろう。

新約聖書の二次創作の大先輩その1。
エデン条約編の中盤になっていきなり登場し、とんでもねえ存在感を発揮して暴れまわることとなる「元ネタ」である。ある意味でベアトリーチェの敗因そのもの。

新約聖書の二次創作の大先輩その2。
言わずと知れた、ヴェアトリーチェの出典元。やはりエデン条約編の中盤になっていきなり登場し、大暴れして、やはりある意味ではベアトリーチェの敗因のひとつとなった。

意外と知っている人が少ないらしい、けれどキリスト教史上では最大規模の大事件のひとつ。

「キリストって神の子なんだから、神のほうがキリストより偉くない?」
こういう解釈を掲げていた学派ひとつを、
「解釈違いだ!! ●せ!!」
と界隈総力をあげて徹底的に追放してやる。そういう宣言であり、そういう宣言がされたイベントである。
怖ぁ。

ここでぼろくそに言われて追放された学派の名は、アリウス学派。
おや? どこかで聞いたような固有名詞が出てきたな?

【時械神】に入らない時械神。
新約聖書は、5世紀になってギリシャ語からラテン語に翻訳された。このラテン語版の新しい新約聖書の呼称が、このウルガタである。

翻訳! おお、翻訳!!
海外小説を読む方なら、その言葉の重みをわかってくれるだろう。そして読まない方も、なんかこう大変なんだなと察してほしい。
言葉だけ変えて内容をそのまま書き写せばいいんじゃないの、というのはあまりに浅はかな考えだ。ある言語にあって別の言語にない概念。同じ物体を指してはいるけれど、文化的な意味合いが変わってくる言葉。言い回しの変化。ついでに、その時の政治的事情や、翻訳者自身によるバイアスなども。
かように、翻訳というイベントは、その書物のそのあとを論じるにおいて、どうしようもなく大きなウェイトを占めるのだ。

ちなみにこの時の編纂者として、一般的には「ヒエロニムス」の名が挙がる。おっと、またどこかで見たような固有名詞が出てきたぞ?

※ヒエロニムスの攻撃名に「ウルガータ」があると教えていただきました。知らなかった……そして総力戦サボってるのがバレた……



■『ブルーアーカイブ』という作品における「元ネタ」というものの果たす役割


前段で、『エデン条約編』にどういう元ネタが使われているかについていくつか並べた。

次は、そもそもその元ネタというものが、『ブルーアーカイブ』においてどういうものでありどういう役割を果たすのかという話をする。

・元ネタがあるソシャゲのキャラたちは多いよねという話

多くのエンターテイメント作品は、元ネタというものを据えて作られる。
パロディやらオマージュやらパステーシュやら原案やら本歌取りやらといったレベルの話だけではない。発想というものは、種と遼肥沃な土壌がなくては芽吹くことはない。

大勢のキャラクターをそろえて当たり前となった近年のソシャゲにおいては、この元ネタというものはまた別の意味合いを抱く。
近年のソシャゲあるあるで、みんな「そういうものだよね」と片付けていて、特に深い意味を見出していなさそうな要素。
つまり、「現実世界のどの集団を擬人化して大勢のキャラクターたちを生み出しているか」である。

偉人だったり、神や天使や悪魔だったり、軍艦だったり、刀だったり、城だったり、まあなんていうか並べようと思えば延々できるけどキリがないよねというほど、色々なモデルが擬人化されキャラクターを生んできた。

多くのソシャゲは、このモデルとキャラとの関係性を、「同じもの」として定義づけている。
つまり、本当に元ネタとなるモノと同一存在であるか、もしくは、それらがひととして存在するようなパラレルワールドにおける同位存在というような位置づけだ。

また、「モデルと同一ではないが色々なものを引きずっている存在」という解釈をしているシリーズもある。
こちらのカテゴリの代表である『Fate/Grand Order』あたりを見てみる。
あの宇宙におけるサーヴァントとは、英雄そのものではなく、英雄をモデルとして世界に落ちた影法師である。英雄の生き方、死に方、生前の愛憎やら因縁やら、といったものを全て引きずったまま、自分の本来の物語の外側に放り出された泡沫。
長いことシリーズが続いたので、このへんの設定の機微は薄れてきたというかすっ飛ばされがちではあるけど、元々そういうものだったよねというのは時々思い出しておきたい。

この二例のどちらに属しているのかを隠しているゲームもある。
『艦これ』あたりがわかりやすい。過去に同名の艦船がオリジナルとして存在していたのか、それともそれは別世界のものであり目の前の艦娘こそがこの世界のオリジナルなのか、個々のメディアにおいて触れることはあってもタイトルを通した回答はされていない。
そして、『ブルーアーカイブ』も、ここのカテゴリに所属している。

・ブルアカの生徒たちの元ネタの特殊性の話

ブルアカの生徒たちは、主に天使や悪魔や神霊を元ネタとしている。
これだけだと、「そういうソシャゲ多いよね」「ありふれてるよね」で終わる話ではあるのだが。

が、この「キャラクターの元ネタ」は劇中で、ほとんど言及されない。
出典元によって学園が分けられてすらいるのだ、どう考えても、プレイヤーに対して隠すつもりはないはずだ。にも関わらず、天使や悪魔や神霊が実際に物語に登場することは非常に少ない。
なにせ少女たちは日本人名を名乗る。神々やらの名前は出てこない。
出てきたのもホルスとかアヌビスとかくらいである。

さらに、生徒たちのほとんどは、天使や悪魔や神霊といった概念自体に知見がない。
自分たちの元ネタの背景にある神話なども知らない。
知っていたとしても、知っているという顔では振る舞わない。
自分たちに元ネタがあるとしても、劇中人物がメタなネタに触れるのは禁忌だよとでも言わんばかりに沈黙する。

例外はヒマリとハナコくらいのものだ。
特にヒマリは空気を読まず、他の面々が黙っているような聖書の内容についても、「禁忌の知識ですけど全知の称号を持つ超天才清楚系病弱美少女ハッカーだから知ってます」とサクサク言及する。お前ええかげんにせえよ。
だがまあ、これについては、「まあヒマリだし」ということでおいておく。おいておこう。

さて。
ここから一気に、推論と解釈が飛躍する。
振り落とされるなよ?

・キヴォトスとブルーアーカイブに関する3つの仮説の話

【仮説】
キヴォトスはサイバースペース内に作られた仮想都市である。

まあこれについては、わりと多くの人がすぐに行き着いた推論なのではないかと思う。
なんせキヴォトス(Κιβωτός:箱舟)だし。あちこちの箱舟伝説伝承(ナピシュテムとか)を片っ端から内包しているし。「都市」と言いながらその外に広がる世界についてはいっさい言及されないし。隠す気がない。

「いや、都市の外に宇宙が広がってるけど?」
それはあれだ。サイバースペース的にはなんら不自然じゃないというか、都市演算に使っている場所の外側の未定義空間を宇宙として描写しているんじゃないのくらいの話に落ち着く。落ち着け。

【仮説2】
キヴォトス人の大半は、箱舟にアーカイブされた因子を原型として形作られたアバターである。
アーカイブとの情報連携はヘイローを介して行われ、ゆえにアバターの肉体をいくら攻撃されても彼女らが死ぬことはなく、逆にヘイローが破壊されれば命を繋いでいられない。

つまり。
遺伝子を運ぶ船たるキヴォトスには、天使やら悪魔やら神々やらの因子が大量に「アーカイブ」されている。そして、その因子を「ブル―」プリントとして仮想空間に投影されているアバターこそが、プレイヤーたる「先生」が学生として認識する少女たちである。
という解釈である。

まあ、イデア理論ですな。
ここの世界に見えている物質は影に過ぎず、本体は手の触れられない高次の世界にあるのだというアレ。

転生のように生まれつきのものばかりではなく、ある程度は後天的にチャンネルがつながるという例もあるのではないかと思われるが、本題から逸れるのでそれはさておく。

ちなみにこの「元ネタ」「原型」の考え方は、『神秘』『崇高』『恐怖』『テラー』、または「本質」「運命」のような言葉で劇中に登場する概念によって繰り返し答え合わせがされているので、ほぼ公式設定である。
だが、それらを包括して表現できる単語は(おそらくは意図的に)用意されていないため、ここ以降この記事の中ではそれらの用語をあまり用いず、できるだけ「原型」という表現に一本化して進める。ということでひとつよろしく。

ここのあたりの話を掘っていく際に特に面白いところは
「眠っている時にヘイローが消える」
「夢渡りが非常にレアかつ危険な所業である」
「夢渡りでアクセス可能な領域をゲマトリアたちが溜まり場にしている」
あたりなのだけど、脱線するので割愛する。

【仮説3】
アバターであるキヴォトス人たちは、アーカイブされた自分自身の原型の支配を大なり小なり受けている。

エデン条約編の話をするにあたって一番重要なのは、これ。

で。
この解釈の上だと、それぞれの生徒たちが「キャラクター設定」として抱えていた様々な悩みや苦しみの、理由や輪郭が見えてくる。

・ミカは聖書にあったミカエルの苦悩を引き継がれされている。
・ナギサは聖書にあったラファエルの気苦労を引き継がされている。
・セイアは聖書にあったガブリエルの苦痛を引き継がされている。
・ハナコは聖書にあったウリエルの使命を引き継がされて……いた(わりと景気よく投げ捨てたので過去形)。

こんなふうに仮定していくと、劇中でわりと突然出てきた色々な「キャラクター設定」の発生源の説明がつくのだ。
このへんは、たぶん『エデン条約編』内でセイアが繰り返し嘆いていた「既に定められたことだ」という言葉に通じている。
つまり自分たちの存在が最初から新約聖書に支配されてるから、新約聖書に書かれている通りのオチに向かってまっしぐらなのは既定路線だよね、という話である。

それでもまあ、この、ティパーティの面々はまだましである。
『エデン条約編』の黒幕であるベアトリーチェは、おそらくこの「元ネタ→生徒」の支配力が利用できることを知っていた。だから、

・アズサは聖書にあったホワイトライダーの役割を無理やり遂行させられた。
・アツコは聖書にあった「神の子羊(Agnus Dei)」の役どころを無理やり再現させられた。

ということになったのだ。

で、この「元ネタに支配されている自分たちの現実」こそが、『エデン条約編』という物語において、少女たちが戦った「敵」の正体であった。
敵とはいえ、弾丸をブチ込む先としてのヴィランとは違う。形のある相手ですらない。
物語の筋書きを相手に、物語の登場人物が、どうやって立ち向かえばいいというのか。

・つまりどういうことなの

先ほど『Fate/Grand Order』をたとえに挙げたが、あの作品は、とても巧妙なドラマの基礎フレームを持っている。
サーヴァント(英霊)が、英雄そのものではなく、その影法師である。そのため、生前と同じような能力を振るうことができる。そのいっぽうで、生前に抱えていた感情には支配されるし、生前に抱えていた運命には振り回される。
その状況で、それでも、「サーヴァントは英雄そのものではない」ことが救いの道となる。だいたいにおいて、マスターとの絆がその突破口になる。かつての英雄にはマスターがいなかったが、現代の英霊はマスターがいるから、かつての愛憎を乗り越えられるし、運命だって打ち砕ける。
これが、『Fate/Grand Order』において何十回、いや何百回と繰り返されてきた、超強力なドラマの基礎フレームだ。

『ブルーアーカイブ』において、実は同じものが動いている。
元ネタとなった天使や悪魔の感情やら運命やらが生徒たちに強い影響力を持っているというのは、つまりそういうことだ。あれは、サーヴァントにとっての生前の自分自身に等しい。

ただし、めちゃくちゃ重要な違いがふたつある。

ひとつめは、FGOのサーヴァントが過去の英霊と「基本的に同一人格だと自覚している」のに対し、ブルアカの生徒たちは「元ネタのことなど知ったこっちゃない」点だ。
つまり、ブルアカにおいて、生徒たちは、外側の領域からの干渉に影響を受けているなどとは、想像もしない。自分自身の感情やら環境であるとしてそれらに向き合わなければならない。
ミカのように、自分の中に湧き上がるその感情の不自然さに気づいている者もいるようではある。が、そんな彼女にしても、だからといってその原因にまで思い至れていうわけではない。自分の感情の責任は自分でとらされる。魔女として石を投げられなければならない。

もうひとつは、こういった構造で紡がれるドラマを、そもそもプレイヤーの目前に出していない点である。
……うん。まあ、何言ってんだって感じではある。
が、事実だからしょうがない。

FGOなら必ず、ドラマを始める前に「こういう英雄がいてこういうエピソードがあって、それを下敷きに英霊の話をします」という説明をする。それをしておかないと、肝心の話がわからなくなるからだ。
ブルアカはこれをしない。

ブルアカのストーリーには間違いなく、上質なドラマがある。しかしそれは、「読み解けた人のみがそこにあると認識できるドラマ」なのだ。
商業作劇的には、そんなものは本来、当然アウトだ。三回でチェンジだ。さらにそれが九回でゲームセットだ。
さらに言えば、プレイヤー人数の多いビッグタイトルでそれをやるということは、輪をかけて無茶だ。人数が多いということは、察しの良いプレイヤーばかりではなくなるということだからだ。

「結局よくわかんない話だったな」
こう言われることは、本来、エンターテイメントのストーリーにとっては最悪の結果なのだ。

ブルアカはこの問題を、とんでもない力業で解決した。
膨大で使いどころをわきまえたスチル。どれだけ状況が入り組もうと解決すべき事件そのものはシンプルにまとまるストーリーライン。それらに加え音楽なども合わせた総合的な演出。
それらを通して、「何が起きてるかよくわかんないけど面白い」を作り上げたのだ。

「認識する人が限られるドラマ」という問題を、普通は、わかりにくいネタを削ることで「認識する人を増やす」という形で解決しようとする。
ブルアカは、逆に考えた。
「気づいてもらえなくてもいいや」と考えたのだ。
結果は大成功。そのストーリーは高い評価を得ている。
そして同時に、それだけ多くの人に楽しまれているにも関わらず、「そこに隠れているドラマ」については、あまり認識されていない。

それを引きずり出して、衆目にさらしたい。
この記事の狙いをまとめると、そういうことになるのだと思う。


と。

このへんまでを前置きとして、次回本編から、具体的な話について引用分析妄想ひっくるめて書きなぐっていこうと思う。




ていうかこの時点で7000字越えちゃったし疲れたので、このページはここでいったん区切って、後日また元気と時間のあるときに続きを書きます。たぶん。
※後日の修正などで現在は10000字を軽く超えています。

前提知識の羅列はだいたい終わったので、次はまず、アズサとヒフミの物語あたりについて触れるかもです。
たぶん。


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