エデン条約編の(おそらくは激しく間違えた)読み解き方(3)
前回のおさらい。
・ベアトリーチェはがんばった。
・アツコは生け贄用キリストの代用物として育てられた。
・先生はベアトリーチェの計画の失敗を知っていた?
というわけで、つづき。
ところで、先日ようやく最終編をプレイした。
そう、実は私は、これまで最終編未プレイだったのだ。
前回までの記事は、エデン条約編までしか読んでいないプレイヤーによって書かれていたのだ。
さすが最終編、出し惜しみはなしだぜとばかりにゲマトリアおよび司祭たちがヒントをしゃべりまくるので、
「ここまで推測の形で書いてきたアレとかコレとか明言されちゃってるじゃないのヨォー!!!」
「少し調べればわかるようなことを推測として書いてる私がただのイタい人じゃないのヨォー!!!」
こんな感じの悲鳴をひとしきり叫ばされた。
推測とした書いてきたものが推測でなく公式公開済みの設定だと判明した、つまりは(0)からすべて書き直したほうがよさそうな状況ではあるのだが……。
ここはあくまでも『エデン条約編』の記事なので、最終編の情報は参考までにとどめるほうが妥当なのではないだろうか。という理屈を掲げて、過去記事には微修正のみ施して、今は先へ進むこととする。
(そうしておかないと、最終編以降の話を読んだときにまた最初から書き直すはめになりかねないので)(ぐだぐだ言う前に現在公開分のストーリー全部読んでこいって話)
なお、参考資料が多少増えたところで、上がるのは各解釈の解像度だけであり、記事そのものの信頼度が上がるわけでない。信じすぎちゃ駄目だゾ。
そのあたりは引き続きご了承いただきたい。
■先生の物語
というわけで、先生の話である。
そもそも、シャーレの先生とは何者なのか。
「まだ読んでない本編で明かされてたらやだなー」とネットをちょっとだけ見回してみたのだが、いろいろなプレイヤーのいろいろな仮説が散らばっているのが見えるのみだった。
なので引き続き、これは公式未出の情報です、個人的な推測を並べているあけです、という形で進める。
いや待てよそこで先生なのかよ、ブルアカのストーリーは生徒たちの物語だろ、ベアトリーチェとか先生とか舞台装置を深堀りしてどうすんだよ、と思う向きもあるかもしれない。
しかし、ここは敢えて、こう言い切ってしまおう。
先生が何者であるかについて思索を巡らせることは、ブルアカのストーリーがそもそも何であるかを追求するに等しい。のだ。
・手掛かりその1:メタの存在である
さて、とりあえず、手掛かりの羅列と確認から始めよう。
ブルアカの先生は、「大人」である。
プレイヤーの年齢を無視して、その分身であるはずの先生は、「大人」であることを前提にされている。
(ちなみに直接関係ない話だが、日本国内のAndroidマーケットではレーティング7+、海外だと一部の国で18+に設定されているらしい。ただまあ、もちろんこれらの規制はストーリーの内容とは関係ないもの、のはずだ)
そして「大人」は、キヴォトスにおいて、本来は異物である。
なにせあの世界、キヴォトス純正の住人として、子供と動物(とメカ)しか描写されていないのだ。
そこから外れるのは、先生とゲマトリアの面々だけなのだ。
そして、そのことについてわざわざ言及されもしない。言及するという発想が当事者たちにない。「それが当たり前」であり、「当たり前以外のことには考えが及びもしない」し、ゆえに言及などするはずもない。
大人という概念はある。みんなそれについての知識を持っている。
が、それはキヴォトスに帰属するものとして認識されていない。
キヴォトスは、ネバーランドなのだ。
子供たちだけの楽園なのだ。
夢の国なのだ。
大人など、いるはずがないのだ。
前のほうの記事で議論の前提として挙げたキヴォトス=サイバースペース説の(そこで説明しなかった)論拠のひとつが、それだ。
あそこは明確に、夢の国として作られている。
意図的にリアリティレベルを下げている。
現実的に存在するべきさまざまなインフラについて、露骨に隠してもいる。「生徒たちは銃で撃たれてもケガをしないので銃撃戦が日常です」を成立させるために、ヘイローを持たず無力なのになぜか死傷しないどうぶつ市民や、壊れても「建て直した」で元通りになる市街地が配置されている。
ネバーランドの内側に大人はいない。
しかし、大人はネバーランドの物語である『ピーターパン』を外側から読むことができる。
これと同じことが、キヴォトスにも言える。
大人である先生は、ネバーランドの物語を、外側から眺める、もしくはこねくり回すことができる。
メタの、つまりは神の視点の持ち主として。
・手掛かりその2:ゲマトリアの証言の話
さて、ゲマトリアたちの言動および先生への語り掛けは、一人を除き徹頭徹尾、物語を俯瞰する同志に向けてのそれである。
(ここで除かれた一人はもちろん、物語を俯瞰する立場を捨てて舞台装置に堕ちたアイツである)
先生自身は基本的に、それを受け入れようとしない。何を言われても、「私は生徒たちの先生だよ」という言葉しか返さない。が、それは、先生がメタの領域に根差した力の持ち主であることを否定するものではない。
黒服のこのあたりの言葉などは、
「外部の者たちの間で当然のように共有されているルールがある」
「出身領域が違う先生もそれを共有している」
あたりの事実を示している。
ついでに、その「ルール」の内容も推測はできる。
・「悪事を行う」ことはルールの範疇である。
・「天変地異を起こす」ことはルール違反である。
この違いとして、「自分たちにしかできないわけでも、自分たちがやらなければ消えるものでもない」という説明が使われている。
要は、「物語のいち登場人物」としての振る舞いの範疇であれば、どんな悪事であれ問題ないというわけだ。
まとめれば、禁じられているのは、「メタの立場から物語を直接改竄する行為」であり、「物語の内側で話を動かすならばすべて合法」ということになるだろうか。
だからこそ、先生とゲマトリアとのやり取りは、「自分たちがいまどんな物語の中にいるのか」の確認作業が主軸になりがちだ。
ゲマトリア会議におけるベアトリーチェの発言である。
他のゲマトリアたちがさんざん先生の話をしているのを聞き流してきた彼女が、実物を見てようやく「あれ危険だわ」と気づいたくだりである。
「生徒たちの青春物語」というルールを押し付けてくる先生は、それ以外の物語を完成させようとする者にとって非常に危険である、彼女から見た先生はそういう存在だった、と。
あれだけ他のゲマトリアが話題にしていた時には全スルーしておいて、今さら何を言っているのか。しかもあれだけ稀有な存在を前にしておいて出せる結論が「排除するべき」なのか。
そりゃまあ黒服さんが「……」しか言えなかったわけである。
・手掛かりその3:大人のカードの話
次に、黒服の話のついでに、「大人のカード」についても推測しておく……
そのつもりで、いったんここの記事をけっこう長めに書いた。
しかし、最終編にて具体的な情報が追加されてしまった以上は、いくらここがエデン条約編の記事だからといっても、今さら推測の話をしても仕方がないと判断した。
日本国内のレーティングだとクレカ作れないプレイヤーもそれなりにいそうだなーとかも思ったけど本筋と関係なさすぎるし。
というわけで削除。さよなら私の3000字。
・手掛かりその4:ヘイローを持っていない話
何を当たり前の話を、と思われるかもしれないが、先生の正体を考えるうえでもっとも重要な手がかりはここである。
ヘイローがないということは、「原型を持っていない」「アバターではない」ということである。だから銃弾で撃たれたら重傷を負うし、腕力では生徒たちの誰にも勝てない。
ここでいう「原型を持っていない」は、そのまま同時に「生徒たちと同じ階層でのメタ的な元ネタがない」を意味する。
少なくとも、生徒たち同様の、物語への直接の支配力を持つような背景はないはずだ。
(少しだけ最終編から情報を持ってくると、無名の祭祀により「先生は『神秘』も『崇高』も『恐怖』も持ち合わせていない」「普通の人間の肉体」という内容のことがダイレクトに言及されている。具体的に説明しすぎなのよー妄想推測してるプレイヤーの身にもなってー!)
では、ファウストやベアトリーチェがやったような、別の物語をキヴォトスに引き込む窓口になるという役割を持っているのだろうか?
いや、もちろんそんなもの、先生に限っては絶対にありえない。
なにせ、我々プレイヤーが名付ける多様な名前が、そのまますなわち先生の名前なのだ。加えて、「アロナが先生の名を呼んでくれる」ことも、「先生はあらゆる名を名乗りうる可能性を内包している」「それをシステム側が計算に入れている」ことの証となっている。
先生の名前は、決して、特定のひとつの物語に結びつくことはない。
ただし、ヘイローの代わりになるものがまったくないというわけではない。
プロローグを思い返せば、先生という個体がキヴォトスに出現したのは、「シッテムの箱のユーザー認証の後」であるとはっきり表現されているのがわかる。
また、先生が先生として能力を発揮する際、常にシッテムの箱が必要とされている(あのタブレットがないと戦闘指揮もできない)。
ちなみにここの答え合わせも最終編でされてしまっている。
自由意志も命も失いながら、それでも、先生としての矜持を守り大人のカードの力も振るい続けた「あの人物」は、シッテムの箱が破壊されることによってようやく眠りについた。
先生が先生であるために最後まで必要なパーツとして、あの一枚タブレットが最大の役割を持っているということは疑いようのないことと言ってもいいだろう。
・手掛かりその5:「先生」が持つパワーの話
先生の言う「私は先生だよ」は、ただの肩書でも、超常者ではないという謙遜の言葉でも、かくありたいという目標の話でもない。
実際にキヴィトスにおいて力を発揮する概念である。
この時先生が使ったのは、客観的に見れば、ただの屁理屈だ。
この時の黒服は、やろうと思えばいくらでも書類改竄だのなんだのをできるはずだった。武力的にも政治的にも財力的にも、ひねりつぶす手段はいくらでもあるはずだった。なのに、そのどの手段をとることもなく、ただ「厄介」と評して引き下がらなければならなかった。
屁理屈にやりこめられて「一本とられました」というような様子ではなかった。
フェアなストーリーテリングが行われているという前提下では、あの時の黒服が蛮行を選べなかった理由は、ただひとつしかない。
寸前に彼自身が口にした「ルール」に抵触するから、である。
先ほどゲマトリアがらみの話で出した、
・「悪事を行う」ことはルールの範疇である。
・「天変地異を起こす」ことは、可能でってもルール違反である。
および
・「メタの立場から物語を直接改竄する行為は違法」であり、
・「物語の内側で話を動かすならばすべて合法」
このあたりの話だ。
学園物語の中において、「先生」が「生徒」を守るために使った力は、ルール上、学園物語の中でそれを否定できる力をもってしなければ、阻めないのだ。
であれば「先生」は、「原型」を持たないばかりか、それをまるごと否定する側の存在だ。
アバターとして出現している「生徒」の部分に対してのみ強い干渉力を持つ。「原型」側については基本的に関知しない。「原型」によってどれだけ苛烈な状況に追いやられた生徒がいても、その生徒がいかに行動したのかだけを見て、嗜めたり誉めたり支えたり足を舐めたりする。
ヘイローがない、だけではない。
生徒たちみなが当たり前のもように持っている、ヘイローの向こう側のものを、視界に入れないようにしている。目の前の生徒たちの姿だけを見ているのだ。
(分身である先生がそういう視点を堅守しているせいで、プレイヤーたちが直接「原型」のことを認識できないという状況にもなっている)
・ここまでまとめるとの話
先生は、一般的な成人の人間の肉体を持つ。人種や性別などには言及されていない。特殊能力などは持ち合わせていない。
一般的な成人の人間というものが、本来キヴォトスにおいては異物である。「招かれる」形で顕現しなければ存在しえないはずである。
「先生」という肩書には、「生徒たちの青春物語」を守護することにのみ使える、非常に強力な物語強制力がある。
ただしこれは、場を「生徒たちの青春物語」にキープしている間しか効力を発揮しない。ゲマトリアたちの一部はこれを正しく把握し、先生攻略のためにまず物語ジャンルを変えようとした。(一部というのはベアトリーチェのことである、ほんとにあいつはもう)
「先生」は、シッテムの箱のユーザー認証により、「先生」としての存在および一連の能力を得ている。
で、ここ以降で、じゃあ先生って結局何なのという話をちょろちょろひねっていきたいのだが……
最終編! おい最終編!
そのまんまの答えをぶつけてくるんじゃないよ!!!
いや、最終編を名乗る以上はそれまでの伏線をまとめて回収するのは筋だけど!!! エデンまでだけの情報で楽しく推測していたプレイヤーの立場にもなってくれよ!!! 最終編を読まなかったやつが悪いと言われればそれまでだけど!!! というかそれがすべてだけど!!!
……まあ。
それはそれとして、始めてみよう。
・仮説1:ノアだよ説の話
「先生の元ネタはノアだよ、箱舟の話の主人公だし」
まずこの説を取り上げてみよう。
言わんとすることは、わかる。
だが、色々な理由で、さすがに無理筋かなあと思える。
「手がかりその4」の「特定の原型を持ってるはずがない」に抵触しているというのはもちろんなのだが、それを抜きにしてもだ。
そもそもノア本人がいるだろというごもっともな話もあるし、それをも抜きにしてもだ。
世界に複数ある洪水伝説の中で、キヴォトスの現状と最も遠いと言ってもよさそうのが、その「ノアの箱舟」のエピソードだからだ。
これは問題のノアの箱舟の記述だが、わりと重要な、見逃してはいけない一文が書かれている。
それらは雄と雌でなければならない。
……あまりにブルーアーカイブから縁遠い概念だから、脳に届くのに時間がかかっている人もいるかもしれない。念のためもう一度、大声で繰り返しておこう。
それらは雄と雌でなければならないッッ!!!!
うむ。
当たり前といえば当たり前だが、ノアの箱舟は「種だけ最低限保存しろ」というものであり、繁殖の最低単位だけは最低限乗せなければならないし、それを超えた数を乗せることもできない。
例外はノアの家族だけである。
これはノアの箱舟のエピソードにおいて、スルーしてはいけない最大級の特徴だ。というか、これを守らないならそれはノアの箱舟である必要がないと言ってしまってもいいほどだ。
というわけで、仮に根拠がこの一点だけしかなかったとしても、先生はノアではないだろうと思う。
・仮説2:モーセだよ説の話
箱舟伝説とは直結しないが、同じく旧約聖書の聖人、モーセの名を挙げることもできるだろう。
モーセといったらもちろん、十戒を刻んだ石板である。
それは神との最初の契約。旧約聖書の「旧約」の部分を示す、古き約定。それを交わした聖人の中の聖人。
新約の時代の者たちから見れば、「先代の契約者」である。そういう意味でも、「先生」の称号にふさわしいように思える。
というか、シッテムの箱は契約の石板ほぼそのものである。正確に言えばその役割を丸ごと持っている。
最終編で二枚目が出てきて一枚が割れたとか、あたりとかあまりにも露骨すぎませんか感がすごいが、とにかく、メインストーリーが隠すつもりがないというか、ぼかすつもりもない。
もうひとつ、先生モーセ説を支える有力な材料がある。
モーセには兄がいた。
エジプトでの日々も、エクソダスの時も、その後の旅路においても、この兄はずっとモーセをすぐそばで支え続けてきた。
モーセは、兄に支えられて聖人の道を歩み続けてきた。
この兄の名をアロンという。
……アロン?
…………アロナ?
こんなの確定じゃん、と言いたくなる。
なにせブルアカのプレイヤーは誰一人として例外なく、アロナに支えられて先生の道を歩み続けてきたのだ。先生はモーセ! はい終了! 閉廷! そう言いたくなる。
が、少し待ってほしい。
初対面の時に、アロナは先生に対して、「はじめまして」を言っていない。
自己紹介はするし、初対面でこそあれど、「私は『先生』をよく知っている」という態度をとっている。
「ずっと、ずーっと待っていました」は、これまでずっと、ずーっと、初対面すらできなかったということだ。
アロンは常にモーセとともにあり、支え続けたと語られている。
一応、一度だけ道を別ったことがあるが、その時期は短い。
かの有名な十戒の石板が刻まれるシナイ山のエピソードにおいて、同行を許されなかった。それによって直後のエピソードである偶像事件を起こしたりもするが、すぐにモーセに解決してもらっている。
「ずっと、ずーっと、待っていました!」
『先生』が実の弟(を原型に持つ)、これほどずっと一緒に語られているような存在であるなら、こういう態度になるだろうか?
というわけで、『先生』はモーセではないだろう。と。
エデン条約編までだけの情報だと、こう言えてしまう。
実際、つい先日までここの記事の下書きでは、そういうふうに書いてあったりした。
だが、最終編の存在により、少し事情が変わった。
我々の知る『先生』はモーセではない。それはほぼ確かだ。しかし、『先生』がモーセではないのかというと、たぶん、それはあまり正確な表現ではないということになる。
そのあたりの詳細については、また後日。
・仮説3:キリストだよ説の話
たぶんこれが世間的に最大手の予測なんじゃないかなとは思う。
連邦生徒会のメンバーはどう見ても十二高弟モチーフだし。
加えて、新約聖書において最重要人物の極みである。新約聖書をモチーフとしたこの物語の最重要人物である先生にふさわしい、ように見える。
そして何よりも、先生がキリストであるなら、前記事で持ち上げたひとつの仮説、
「アツコを生贄にする儀式は失敗している」
「先生はそのことを予め知っていて、アリウス・スクワッドのメンバーに共有している」
これを成立させられる。先生自身が本物のキリストの役割を背負っていて、その自覚があったなら、その目前で「キリストの処刑」など成立するはずがない。そういう理屈だ。
しかし、それでも、この説はありえないだろうとここでは予想する。
ヘイローがないから。
それはもちろん、理由のひとつになる。
しかしそれよりも大きな理由がある。キリストは「人の子」、つまり世界の諸問題に向き合う当事者であり、同時に「導く者」なのだ。迷える者を前にして、すぱっと答えを教えてしまうタイプの導き方をする存在なのだ。自分の後ろについてこいと言えてしまうタイプの指導者なのだ。
ついでに言えば、普通に悪魔を敵視している。対立とまでいかずとも、ゲヘナを警戒しない理由がない。
我々の知る先生は、そうではない。
迷える者たちを前にしても、答えは教えない。
安心して迷える環境を用意して、答えに向かって本人がもがき続けられるように見守るタイプの導き方をしている。
だから、たとえば犯罪者の生徒たちを前にしても、「やめろ」とは言わない。しょうがないなあと見守り続ける。そしてイオリに「なんでそいつらの味方なんて」と嘆かれる。生徒たちに対して、ついてこいとは言わない。いつでも、生徒たちの力で問題が解決されることを望み、それを支えようとする。
もちろん、悪魔を原型に持つゲヘナの子たちに対しても、天使を原型とするトリニティの子たちと変わらないように愛情を注いでいる。
ここでは先生のこの生きざまを、キリストの立ち位置にはほど遠いものだ、と読む。
ついでに言うとだが。
エデン条約編の物語は、そもそも「キリストという存在の不在」を前提にしている。
これは、エデン条約機構(ETO)が持ち上がった事実、つまり「新約がこれから行われようとしていた」という大前提の時点でほのめかされている。
このあたりについては、例によって次回以降の記事で触れる予定なので、いまは「なんかそんな感じ」と流しておく。ごめんね!
さて、その上で。
「先生の正体は、確かに、キリストにきわめて近いものではあるだろう」とも読んでおく。
・つまりどういうことだってばよの話
先生は、原型(派生して『神秘』『崇高』『恐怖』の類)を持たない。
しかし、先生という立場は権限(これも『神秘』『崇高』『恐怖』の類に属さない完全にメタな力)を持っている。
その権限は本来、非常に大きなものだ。なにせメタだ。シナリオライター寄りの力だ。全能者に近いものだ。やろうと思えば、審判者も裁定者も救済者も務まるようなものだ。
先生はその権限を、そのように使おうとは思わなかった。
そのような使い方をしては、「原型」たちにしか向き合えない。「生徒たち」に向き合うことができない。だから、先生という立場の中に、自らを封入した。
先ほどのモーセ説について触れる中で引用した、「モーセがシナイ山で神に会った」エピソードをもう一度見てみる。
この直後の主激おこエピソードにおいても、アロンは直接神に𠮟責を受けたわけではない。主はモーセにのみ語り掛け、事件はモーセを経由して解決している。
「アロンは最後まで主に会うことができなかった」のだ。
先生は、アロナがずっと、ずーっと会いたかった誰かだ。
ずっと、ずーっと会うことが叶わなかった何者かだ。
それは、神と人との間の契約の更新に、立ち会う資格のある誰かだ。
それは、天使や人間だけでなく、悪魔たちですら同じように愛を注ぐことのできる誰かだ。
それは、偽のキリストが神に捧げられる儀式を前に、それが成立しないものだと事前に判断できる誰かだ。
それは、神の視点をあたりまえのように持つ、誰かだ。
はい。
そういうことだ。
天使や聖人を「原型」に持たされ生まれた生徒たちとは、根本から違う。
我々の先生は、「自身の契約によってその役割を得たもの」である。
もちろん、我々が知るキリスト教の説くその「主」と同一ではないだろう。
キヴォトスにおいての主そのもの、「万物を愛する唯一たる者」という概念を象徴する機能のインターフェースが先生である、くらいに考えるのがわかりやすいのではないかと思う。
いやわかりやすくはないな。まあ神学的なややこしい話なので、「なんかそういうもの」として流すも可。
この世界のシッテムの箱のユーザーとして登録するということは、「十戒の石板を刻み旧約を結ぶ」ということであった。
それは旧約聖書において主が行っていた御業であり、ゆえに、その立場を受け入れるということとなった。
「原型」たちにとっての絶対の存在は。
「生徒」たちの先生であることを選んで。
「原型」に踊らされる世界の上に、そもそも「原型」など最初から存在しないかのような学園青春物語を、あの瞬間は人の子の代表であったヒフミとの間の約定として、重ねた。
え、さっきからなんか変な太字が混じっているって?
まあ気にしないでほしい。少なくともエデン条約編の記事としてはそこを説明する必要がなく、仮にこれが最終編の記事だったとしても言及するには微妙、というものなので流している場所だ。
先の記事で説明することがあるかもしれないし、ないかもしれない。
・数々の状況証拠の話
先生が着任した直後、リンは「いつどういう経緯で着任したのかは知らない」と言いながら、何ら違和感を抱くことなく受け入れた。
主はそもそも、いつでも信心深き者の隣に在るものだからだ。
旧約聖書のアロンは、試練の山でモーセが主に会ったときに、ついていくことを許されなかった。
アロナは、初めて先生の姿を見た時に、「ようやく会うことができた」と言及した。「お久しぶりです」ではなく、「はじめまして」でもなく。相手の存在を大昔から知っていながら、ずっと会うことだけができなかった、そういう反応をした。
生徒たちの多くは、初期状態から先生に対して敬意を抱く。
特に天使と悪魔、主の被造物として語られるものを「原型」とするトリニティとゲヘナの生徒たちにその傾向が強い。
性別や年齢などと関係のない愛情を抱いている者たちも多い。
それらに対し、先生は惚けたりはせず、当たり前のことであるとして自然体で受け止めている。そのうえで、初期状態の敬意や好意を横においておいて、生徒としての彼女たちとの関係をゼロから構築している(システム的にも所属直後の生徒の好感度はゼロである)。
一方、アビドスの生徒たちの原型はエジプトの神話にあり、かつてのキリスト教とエジプトはあまり良い関係にない。
アビドスの物語の始まりにおいて、先生は生徒たちの信頼をすぐには得られなかった。超存在としてではなく、子供を支える大人としての信頼をゼロから重ねねばならなかった。
また、アビドスの生徒たちはそもそもそれぞれが現地の神々を原型としているためか、先生を目上の存在というよりもどちらかというと友人や仲間として扱っているようにも見える。
『ファウスト』冒頭においての三大天使歌唱のシーンには、歌を捧げられる先として、主もまた登場する。その場に現れたメフィストフェレス、および彼が持ち出したサタンの話などに対しても、主は不快になった様子を見せず、ファウストが堕落するか否かの賭けの話に乗りさえした。
一方、補習部の顧問となった先生は、賭けそれ自体の是非についてナギサに問うたりすることはなく、ヒフミたちがそれを乗り越える手助けに徹した。
ゲマトリアたちは、先生と共にであればキヴォトスの謎が解けるだろうと確信している。
そりゃあ、先生を見ているということがそのまま神学の研究が進むこととイコールなんだから、そういう気にもなるよねという話である。
ついでに最終編から引っ張った話になるが、プロト・アロナがもうひとつの主として金の牛を連れてきて石板が一枚割れるのは、あんまりにも隠す気がなさすぎるというか、ぼかす気すらないだろこれ、である。
ここはエデン条約編の記事なので詳しく説明はしないが、そのへん気になるひとは出エジプト記の33~34章を読もう。
まあ、なんていうか、挙げていくときりがないくらい、いくらでも状況証拠が拾えてしまう。
そんなやつに、
こんなことを言われれば、そりゃベアトリーチェも「なに寝ぼけたこと言ってやがんだ審判者やら救済者やら絶対者やらといったらお前の代名詞じゃねえか」と言いたくなるだろうというものだ。
キレてすっぴんで殴り掛かりもしようというものだ。
先生が主として振る舞ってくれないと、彼女は主の座を奪うどころか、「敵対者(アンタゴニスト)」としてのサタン役にすらなれないのだから。
・ブルアカのストーリーについての話
ヒフミ語で「青春の物語(ルビ:ブルーアーカイブ)」とされたそれは、『崇高』『恐怖』ではない、人の手で紡がれる人の物語、である。
他ならない神話の代表者が、先生という「人」の立場から、「人」であろうとする生徒たちを支え、彼女たちのストーリーが紡がれていくのを見守る。
そういう話である。
だから先生は、時に正義の側に立たない。
子供たちは人として振る舞い、時に迷い、時に間違え、時に立ち止まり、時に傷つけあう。先生はそれらを止めはしない。
これは、主人公にヒーロー性を求めるプレイヤーにとっては、多少ならずもどかしい話だろう。先生はたのもしい存在で、あらゆる問題への切り札であるはずなのに、自ら先頭に立って解決へと動こうとしない。
だが、それこそが先生の目的であり、どんな問題の解決よりも優先される勝利条件なのだ。
『ブルーアーカイブ』の物語を、単に生徒たちの物語として読み進めることは易い。そこに充分な感動はあるし、それは決して間違った読み方ではない。
が、この、持ちえたはずのすべての特権を捨ててただ「先生」であろうとした者の決意と覚悟を知ったうえで同じ物語を追うと、また別の感動が生まれうる。
親の心子知らずとはよく言ったもので。それは、子供たる生徒たちの目線からではうまく読み取れない、まさに「大人の戦いの物語」である。
あなたがその物語に触れる一助として、この記事が役立っていれば幸いである。
■ 改めて作中用語解説
ここまでまとめて、先生が何者なのかに目鼻をつけてようやく、輪郭が見えてくる作中用語がかなりある。
この記事の中で「原型」という言葉でまとめてきた、あれやこれやだ。
・『崇高』『恐怖』とは
『崇高』として語られる概念は、生徒たち(あるいはそれ以外も)が持つ、「原型」としての神話存在そのものに近い。
シロコにとって、「エジプト神」アヌビスがそれにあたる。
このようにマエストロが語った通りだ。
『神秘』は、『崇高』の、最も概念的な部分を示す。というか、たいていの場合、そちらが『崇高』の本体であるかのような扱いで会話の中に出てくる(その解釈で問題がないタイプの概念だということだろう)。
『恐怖』とは、おそらく、この『崇高』が伝承による歪曲や後付けの定義づけされた後の姿だ。大勢の人間の再解釈を経由したそれは、本来のあり方とは異なるものであり、しかし同一のものであり、さらにはもともとの『崇高』よりも圧倒的に具体的である。
シロコにとって、「古い死の神で、墓地の主で、死者を裁いて、ウプ・ウアトとしてすべてをオシリスの前に導く存在で……」といったエピソードと、おそらくはキヴォトスにアーカイブされた時点で別の意味合いも付与され造形された偶像がそれにあたる。
このふたつがひっくるめて扱われることが多いが(ここまでの記事で「原型」として言及したものはこのひっくるめに近い)、アクセスしようとする者にとっては明確に別物である。
まあ、アクセスしようとするのがゲマトリアくらいなので、そのへんを熱く語るのもゲマトリアだけであり、プレイヤーは「つまりそのふたつはどう違うのよ……」という顔をするしかなくなっている。
自分の専門分野で熱くなったオタクってやつはすぐに聞き手を置いてけぼりにして語るから困る(直球ブーメラン)
ゲマトリアらが『崇高』を呼び出そうとしても失敗し、『恐怖』にしかアクセスできないのは、『崇高』があまりに抽象的で、それに比して『恐怖』があまりに具体的であるからだろう。そして『崇高』『恐怖』ともに情報であるがゆえに、それを設計図として『複製(ミメシス)』を製造することは比較的易いとされる。
・『神秘』『先生』『ブルーアーカイブ』とは
これら『崇高』『神秘』『恐怖』は、本来、キヴォトスの表面には出てこない。少なくともキヴォトスはそういう設計になっている。
しかし、人為的だったり偶発的だったりで表に出てきたとき、その影響は『神秘』という名前のカテゴリに放り込まれて語られる。
これは、先に出た本来の意味の『神秘』とは少なからず意味合いが異なるもので、なんだかオカルト的なものとか超科学的なものとか全てを現す大雑把な言葉として使われることが多い。つまり、コラボでもし上条さんがキヴォトスに来てたら全滅していたであろうもの全部ということだ。
ゲーム用語、攻撃タイプとしての「神秘」も、こちらに近い意味で使われているであろうと思われる。
キヴォトスは、『崇高』『恐怖』を押し込めて、表面上の世界を演算し続ける場所として機能している。
本来『崇高』『恐怖』である存在も、そこでは、『生徒』という別の在り方ができた。暮らせた。ちょっぴり表に漏れてきてはいたけれど、それらは制御可能なレベルに落ち着いていた。
その過程を、青春物語と書いてブルーアーカイブと読む物語として、綴ることができた。
そして、『先生』は、『生徒』たちのその在り方を守護し、ブルーアーカイブを存続させる存在としてあろうとしている。
そのために、使おうと思えば無限に近い力になるであろう『崇高』『神秘』『恐怖』に通じる権限を、自らすべて封じている。
(メインストーリー以外での振る舞いを見るに、すべてが完全に自覚的というわけではないようではあるが)(シナリオライター全員で設定共有されていないだけじゃないのとは言っちゃいけない)
・『色彩』とは
『色彩』は、『先生』の在り方と真逆だ。
あれは、先生が守ろうとしているものを虚飾として剝ぎ取り、『崇高』『恐怖』を剝き出しにさせるモノだ。たぶん『神秘』は無理。
そしておそらくは、ただそれだけのモノだ。
どうして存在しているのか、については論ずる必要のないものだろう。もともとキヴォトスの生徒の在り方のほうが不自然であり、すべては『崇高』の姿であるほうが自然なのだから。
むしろキヴォトスのほうが、『色彩』を否定するために生まれた、不自然なものだと考えたほうがいい。そしてその幸せな不自然を守るために、先生は今日もがんばっているのだ。
ちなみに『色彩』は英語版で『The Iridescence』であり、虹の色、玉虫色を意味する。見方によって色合いが変わるという概念であり、同時に、可視光線で見えないものをすべて否定する概念だ。
つまるところ、『透き通る物語』を否定するモノだ。
まったくよく名付けたものである。
だいぶ長くなってきたし、きりもいいので今回はこのへんで。
以下次回。いつの日か。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?