エデン条約編の(おそらくは激しく間違えた)読み解き方(4)

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前回までのあらすじ。

・先生は、聖書を素材に作られたこの世界における「主」の役割を持つ。
・先生本人は聖書からの影響を拒絶し、意図的に無視している。
・先生は生徒たちに、天使やら何やらといった背景に縛られない、生徒としての生を求めている。

というわけで、つづき。



(0)の時点で少し触れたが、エデン条約編は「改竄」という行為と概念を大きく扱っている。
この「改竄」は、複数の人物により、複数の目的をもって、複数の現象を通して行われてきた。

今回は、これまで散発的に情報を並べてきた「改竄」と「改竄者」の、具体的なところを整理しながら挙げていく。


■ 最初の改竄者「生徒会長」の話


エデン条約編の時点で推測できる範囲で一度記事を書いていたのだが、最終編にて完璧な裏付けと追加情報が出てきたので、そちらを中心に書く。

なので、ここだけは完っっっ璧に、エデン条約編ではなく、最終編の話である。すごく今さらだが、ネタバレには気をつけられたし。

・生徒会長は何者かの話

「先生」がキヴォトスに来るよりも、前の話である。

キヴォトスには生徒会長がいた。
生徒会長を補佐するメンバーが連邦生徒会に揃っていた。
シッテムの箱は、まだ起動していなかった。

生徒会長にはヘイローがあった。
じゃあなにを「崇高」として背負っていたのと言われると、「まあキリストだよね」である。
生徒会のメンバーがヨハネやらペトロやらイスカリオテのユダやらをあからさまに背負っているのだから、そりゃそうだよねである。
それらをもって先生=キリスト説も持ち上がっていると前の記事で書いたが、そもそもあのメンバーは生徒会長の周りに集まっていたのだから、同じ理屈をそのまま生徒会長=キリスト説に適用したほうが自然だろう。

キヴォトスは新約の世界である。
そして新約の世界はキリストの存在を前提とする。
ゆえに生徒会長がいる時代、キヴォトスは安定していた。

・本来の先生の話

「先生」という役割は、本来、モーセに充てられていた。

前記事で出てきた先生=モーセ説である。
あの時点では太字で強調しておいたが、この説は、我々の知るキヴォトスにおいては誤りだ。
しかし、あくまでも、我々のキヴォトスにおいては、の話だ。
他の、いや正確には本来のキヴォトスにおいては、正しかったはずなのだ。

「旧約」を主と結んだ当人であり、シッテムの箱こと十戒の石板を持ち、兄アロンに繋がったOSのサポートを受ける。アロンとモーセの二人で聖人としての役割を果たす。
そういう役どころに、本来ならば、「先生」はいたはずだ。

もちろん、ここでいう「アロンに繋がったOS」は、A.R.O.N.A.である。
後に後にプラナと呼ばれる彼女が、本来のアロナのとるべき形であり、モーセのパートナーを務めている者の姿だったはずだ。

先生とA.R.O.N.A.が出会った時の反応も、「ずっと、ずーっと、待っていました」ではなかったはずだ。

・生徒会長消失の狙いの話

生徒会長は、キヴォトスはこのままではいけないと結論した。
具体的な理由は、現時点では確定できない……と思う(最終編までしか読んでいないが故の弱気)。
ともあれ、

「このまま新約聖書の世界でいちゃいけない」

こう結論した。
しかし、このキヴォトスの「新約聖書」は完成してしまっている。
手を加える余地がない。
しかしそれでも、どうにかして書き直さなければならない。
生徒会長はそう考えた。

そうか、最初から書き直せばいいんだ。
そう結論した。

そこで計画されたのが、エデン条約機構(ETO)である。
キヴォトスの歴史書、これから辿ることになるだろう道行としての物語を、「旧い契約を上書きする新たな契約」たるETOの締結をもって、丸ごと書き換えてやればいい。そう思った。

ETOは、「最新版の『わたしたち版』新約聖書」である。
『神秘』のキリストが交わした神との約定ではなく、生徒たちが自分たちに対して結ぶ約定である。
そして同時に、それはちゃんと新約聖書としてのテクストを発揮する。キヴォトスを導く力になる。

しかし、それをやるには、邪魔なものがひとつある。
「新約」がもう既に行われてしまっているという、動かぬ証拠だ。
具体的には、「キリスト」の『崇高』を背負う生徒会長自身だ。
おそらく生徒会長がキヴォトスに存在している限り、新約聖書は書き直せない。ETOはただの、文面通りの不戦条約に終わる。
それでは意味が薄い。
平和への一歩としては価値があるだろうが、根本的な問題が解決しない。

ああそうか、と生徒会長は気づいた。
この問題、自分が消えれば解決できるかも、と。

そうすることのメリットは、もうひとつある。
神との契約者たる「キリスト」がいなくなれば、契約者のOBを呼べる。
具体的には、シッテムの箱が起動し、「アロンを伴ったモーセ」、すなわち先生を呼ぶことができる。
モーセがキリストの役割を代行するとなれば、世の中は旧約聖書にまで逆行する。新約聖書以降を書き直す舞台としては最善だ。

もちろん、新約の制約から解き放たれたキヴォトスをそのまま放置するわけにもいかない。新しく、もっとキヴォトスに見合った感じの新約を結ぶ必要がある。
だから、エデン条約機構(ETO)を計画した。
自分がいなくなった後にみんながうまく良い方向にまとめてくれるようにと、下準備を終わらせておいた。

どのくらい成功を信じていたかとか、そもそもどういう気持ちでいたかなどは、推しはかることはできない。
ともあれ彼女は、この計画を実行した。
生徒会長は、消えた。
正確には、契約の証たるシッテムの箱の中へと、自分自身を消した。

結果、どうなったか。
あらゆる(推定)可能性の世界から生徒会長が消滅した。

そして、それら全ての世界にて、ETO締結に向けた動きが始まった。
また、ほぼ全ての世界にて、シッテムの箱が起動し「モーセ」の役割を持った先生が出現した。

世界は、新約聖書の再編に向けて動き出した。

ちなみに、「モーセ」として喚ばれた世界においても、「先生」であることを貫いた。聖書の物語をなぞる定めを拒絶し、生徒たち自身の青春物語を歩ませようとした、はずだ。

「生徒たちを、よろしくお願いします」

『ブルーアーカイブ』最終編3章?話より

その顛末が、どういうものであったとしても。
先生は最後まで、生徒たちを守る先生であった、はずだ。

・例外世界の話

さて、さきほどモーセとして先生が呼ばれたという話について、「ほぼ全ての世界において」という書き方をした。
例外となる世界が、おそらくひとつだけあったからだ。

事故なのか、生徒会長の狙い通りかはわからないが。
「シッテムの箱のOSであるA.R.O.N.Aと生徒会長が融合した可能性の世界」が生まれていたのだ。

本来アロンの役割を背負っていたはずのA.R.O.N.Aがキリストのそれを被せられた(あるいは置き換えられた?)。
これにより、もうひとつのとんでもないバグが起きた。

三位一体の原理により、父と子は同一存在、同質存在である。これらがふたつ同時に存在することはできない。
また同じく三位一体の原理により、父と子は同一存在、同質存在であり、これはシッテムの箱が持つ機能「先生とOSをあわせて一人の神聖存在として機能させる」と合致した。

シッテムの箱は、十戒の石板である。
モーセと主の間に交わされた定の証である。
ゆえにそれは、モーセを呼ぶための触媒たりえたわけだが。

この世界では、アロナがキリストを内蔵してしまった。
おかげで、契約のもうひとつの主体、「主」のほうを喚んでしまったのだ。

それが、みなさんご存知、我々の知る「先生」であり、「アロナ」であり、「キヴォトス」であり、『ブルーアーカイブ』の世界だ。

我々が見ていたのは最初から、本来の形ではない、歪められた特殊なキヴォトスなのである。

この召喚触媒あたりのロジックは完璧にFateシリーズそのままなのだが、そのFateではその存在だけは絶対に呼ばれないぞってところ(主)をピンポイントで撃ち抜きやがった。

これが、『ブルーアーカイブ』というゲームのプロローグ、およびその前に起きていたこと(だと最終編までの情報で推測できる範囲の物語)である。

・それが最初の改竄だという話

(0)にて、エデン条約編は改竄の物語だと述べた。エデン条約編において、「新約聖書」を対象に、複数の改竄が行われていると。
その中の、最初の二つが、これだ。

「自ら消滅することで新約聖書を改竄可能な状態にしてしまった」
「エデン条約機構(ETO)を計画した」

双方ともに主体は生徒会長なので、ここはひとまとめにして「最初の改竄者は生徒会長」という言い方をしておく。

そして、結果を確認する当人が不在のまま、事態は色々な人物の思惑をはらんで転がっていく。



■二番目の改竄者「ベアトリーチェ」の話

 
二人目は、もちろん、こいつである。

新たに新約を結びなおそうという『エデン条約』を私物化し、それによって生贄の儀式の準備を進める(当人は「太古の威厳を確保」と表現していた)という一手を進め、それを成功させていた。

本人がメタの視点を持つことを放棄し、物語の中で力を得ることを望んだ(アンタゴニストであることを選んだ)たかか自覚することはなかったが、その戦い方はおそろしく合理的にメタを活かしたものだった。

前のほうの記事でも流すように触れた。
「先生」が何者なのかについて確認したいま、彼女がいかに周到に準備し、自覚ないまま強力な武器を手にし、いろいろ勘違いしたまま先生を追い詰めていったのか、改めてもう少し詳しく掘っていこう。

彼女が、いかに、ちょっぴり抜けたところのある悪役であったのかを浮き彫りにしていこう。

・「アリウス学派」のテクストについて(1)

アリウス学園のモデルとして現実のギリシャにアリウス学派というものがあって、色々あって殲滅されたという話に、以前の記事で触れた。

アリウス学派の騒動は、ギリシャの歴史の一部であり、「新約聖書にまつわる史実」だ。キヴォトスにそれを再現する強制力が働いていたとして、しかしそれは、過去のキヴォトスの第一回公会議の時点で終わっている。
現代のキヴォトスに影響を及ぼすテクストなど、残っていなかったはずだ。

「私がアリウス自治区をターゲットにしたのは、純粋にそこが秘匿された場所であるからで、それ以上の意味はありませんでした」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第4章5話

ベアトリーチェは、アリウスの名に何も期待せずにこの地を拠点として選んだ。これはまあ、ここまでなら、納得できる話だ。

ところで、アリウス学派の掲げた理念とは、以前に紹介した通り、「三位一体の否定」である。

「父と子と聖霊」の三位一体の否定。
つまり、「父(Pater)と子(Filius)と聖霊(Spiritus Sancti)」がすべて同格ではない、「父(Pater)」が一番えらい、という考え方である。

「父(Pater)」。
カタカナに直せば、「パテル」である。
キヴォトスにおいてこの名は、ミカが代表を務めるトリニティ内の派閥、パテル派閥に通じる。ナギサとセイアがそれぞれフィリウス(Filius)とサンクトゥス(Sanctiの名詞形)の派閥の代表をしているのだから、ここに関して疑いの余地はない。

そして、「パテル派閥がティーパーティーの主権を握ろうとする」は、そのままかつてアリウス学派が起こした騒乱を再現することに繋がる。

ベアトリーチェの陰謀は、動きだす初手としてミカを取り込むことを選んだ。これによって、終わっていたはずのアリウスのテクストをもう一度掘り起こすことができているのである。

アリウスの騒乱とは、長いキリスト教史の中でも「学派を根絶やしにしなければ収まらなかった」「新約聖書の解釈に直接『三位一体は同格』と記述を追加しなければ収められなかった」という、かなりどうしようもないものだった。
そのテクストを現代に持ち込めれば、それこそ「新約聖書の改竄」を用いなければ収集できないレベルのテロリズムが可能となる。
そして実際、これは正しかった。ミカを取り込んだアリウスは、そこまでのことをやってのけたのだ。

すげえよベアトリーチェ、初手でパテル代表のミカを取り込んでアリウス自治区のテクストを超強化するという、まさに頭脳派黒幕にふさわしい超ファインプレーだよ。

「そう……いわば聖園ミカは私にインスピレーションを与えてくれる……ミューズとでも言いましょうか」
「『エデン条約』を利用して太古の威厳を確保するというアイデアも、予知夢の大天使を真っ先に処分すべきだという判断も、彼女のおかげで実現できたのです」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第4章5話

ベアトリーチェ本人が最初からその価値に気づいていたかは怪しいけど。
とりあえず手駒として引き込んで、その後に自覚なくミカの『崇高』が持つ物語に引きずられていって、結果的にうまくいっただけ感がとても強い(ミカの物語については後日扱う)。

ちなみに三位一体論を脅かす学派学説についてはアリウスが唯一というわけではないけれど、おそらく同レベルに有名なグノーシス主義あたりは、おそらく非常に深刻な理由によりテクストを使用できなかっただろうと思われる。
その話を追求すると前記事の結論がまるごとひっくり返りかねないので詳しくは割愛する。

・『アリウス学派』のテクストについて(2)

ベアトリーチェの武器はアリウス学派だった。
ミカを取り込み本来のテクストを取り戻したそれは、キヴォトスを恐怖のどん底に陥れるほどの強みを発揮した。
が、それだけではない。それは実のところ、ベアトリーチェ自身が思っていたよりもはるかに有効な新約聖書改竄手段であり、同時に、対先生特攻兵器でもあったのだ。

アリウス学派の掲げた理念とは、以前に紹介した通り、「三位一体の否定」である。

少し上で挙げた通り、先生が「主」の役割とともにキヴォトスに降り立った経緯は、三位一体の考え方に大きく支えられている。
三位一体の考え方そのもののほうが揺らがされると、先生に「主」の権限がまるごと弱体化させられる。
つまりこの理念は、テクストとしてキヴォトスへの影響力を持った時点で、先生に対する超絶強力なデバフとしても働くのだ。下手をしたらそのまま消失してもおかしくなかったのではないか。そういうレベルの一手だ。

実際、アリウスの影響力が頂点に達した瞬間には、先生は(肉体の死という形で)舞台から退場させられかけもしたのだ。

すげえよベアトリーチェ、武器として「アリウス」のテクストを選ぶなんて、対先生戦略的には完璧に理にかなったチョイスだ!

「私がアリウス自治区をターゲットにしたのは、純粋にそこが秘匿された場所であるからで、それ以上の意味はありませんでした」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第4章5話

ベアトリーチェ本人が最初からその価値に気づいていたかは怪しいけど。
そもそも先生を障害として認識したのがごく最近の話だし、スクワッドを差し向ければ仕留められるくらいにしか考えてなかったし。

あと、当の先生に最初から超越者として動くつもりがないから、テクストを奪ったところで、決定打になるほどの意味はないんだけどね(でも一度死にかけるくらいの効果はあった)

・『アリウス学派』の記号について

ベアトリーチェは、ものすごくゲマトリアのみんなに助けられていたという話。

エデン条約編後半戦において、生徒たちはちょくちょく「複製(ミメシス)」のエネミーと対峙する。
ユスティナ信徒の複製だったり。
アンブロシウスの名を持つ複製だったり。
ヒエロニムスの名を持つ複製だったり。

では、もともとのそれとは、何だったのか。
すべて、アリウス学派の騒乱にまつわる人名である。

聖女ユスティナは当時のローマ皇帝の妻であり、アリウス学派の代表的な信奉者であり、指導者であった。

アンブロシウスは、当人の思惑はさておき結果的にアリウス学派を駆逐し、ラテン教父の一人と認められるまでなった司教であった。

ヒエロニムスは、第一回ニカイア公会議の後に新約聖書の翻訳を行い、その後1500年もの間新約聖書の決定版として流通するバージョン(ウルガタ)を完成させ、やはり後にラテン教父と認められた聖人である。
あの「vanitus vanitatum, et ominia vanitus」を聖書に書き加えたとされる張本人でもある。ばにたす。

つまり、いずれもアリウス学派のエピソードにおける超!重要人物だ。
だが、アリウス学派のエピソードは「新約聖書にまつわる歴史」であり、「新約聖書に書かれた物語」ではない。つまり彼ら彼女らは、キヴォトスにおいて『崇高』として扱われる存在ではない。

「そこで私たちは、トリニティの地下に封印されし太古の教義に目を向けた。『崇高』とは違うものの、そこに秘められた『神秘』、そして『恐怖』はまた別の意味で似ているような部分があり、つまり概念としては――」
「……失礼」
「退屈な話をしてしまったかもしれないな。すまない、先生」

『ブルーアーカイブ』総力戦(ヒエロニムス)「太古の教義」より

マエストロはこれらを「戒律を守護する者たち」と呼び、複製に成功した。それを「人工の天使」「神性の怪物」などと呼称し、成功作として先生に(うれしそうに)披露した。
この時、ヒエロニムスの名も、「『聖徒の交わり』を率いる受肉せし教義に関わる名」から借りていると発言している……が、そもそもアリウスの史実をなぞった封印から引っ張り出されたそれが、名前だけのものではない(本質はさておき記号としてテクストの再現にまでは至っている)のは言うまでもない。

余談だが、この時のマエストロは、総力戦の前口上という体裁で「見てみて先生こんなの作ったんだけど他のみんなは興味なさそうなんだ先生はこのすごさわかってくれるかな」と非常にうれしそうであり、全力で尻尾を振る犬のような可愛らしさがあったと主張したい。

さて、経緯はともかく。
アリウス自治区に「ユスティナの信徒」「アンブロシウス」「ヒエロニムス」らの名を冠する者が揃っていた。これは、どういうことか。

特にヒエロニムスは、史実上で「新約聖書の書き換え」を行った中で、最大の実績を持つ者の名である。
「新約聖書の文面への影響力」というテクストで言えば、下手をしたら先生やキリストをも上回りかねない、超絶重要人物である。

そして、彼らを擁していたからこそ、アリウス自治区は「アリウス学派」の複製としての「記号」を保持できた。
それは、上のほうで挙げた、「アリウス学派のテクスト」という恩恵を得ることができた直接の理由でもある。

エデン条約を奪った後に顕現したユスティナ教徒の複製はともかく、アンブロシウスやヒエロニムスの複製はマエストロの作品であるはずだ。
それら自身のテクスト、およびそれらが導いたアリウス学派のテクストの存在が、ベアトリーチェのエデン条約奪取作戦においていかにプラスの働きをしていたか。想像に難くない、のだが。

「――つまり、私がマエストロの武器を勝手に奪ったことが気に食わない、ということですよね?」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第4章5話

ベアトリーチェ本人は最後までその価値に気づいてなかったっぽいけど。

マエストロもそういうテクストを引っ張り出すことを目的に複製していたわけではなく、先生に対して直接ぶつけてきたりしているので、本当に最後まで誰もヒエロニムスらの水面下の活躍について気づいていなかった説がありうる。
ゲマトリアには天然やらかし勢しかおらんのか。

・『ゴルゴダの丘の改竄』について

ベアトリーチェの最終目的は「キヴォトスの外の力(キヴォトスの外の『色彩』に対抗する力)を手に入れて守護者になる」であった。

そのための「儀式を行う」であり、さらにそのための「太古の威厳を確保」するために「エデン条約を奪う」という手段をとった。

改めて見ると、言っていることの何もかもが抽象的で、つまりお前は何がしたくて何をしてたんだよという感じである。
ファンタジー世界の魔王たちだって部下にはもうちょっと具体的なプランを提示するぞ。

前のほうの記事で述べたが、彼女の計画の要点は、「ゴルゴダの丘の処刑」を再演することだった。
これに成功すれば、外へのチャンネルを開いて、守護者の力を得ることができた。
これを成功させるために、それ以外のすべての計画があった。アリウス自治区を支配し子供たちを洗脳し生贄を育て先生を暗殺しようとしエデン条約を奪い複製を放った、すべては「処刑の儀式の再演」のためだけにあった。

よくわからないのは、「なんでそんなことする必要があったのか」だ。

大前提として。
新約聖書のテクストに支配されているキヴォトスにおいて、本来なら、「ゴルゴダの丘の処刑」の再演そのものにまったく意味がない。
なぜなら、本物の「ゴルゴダの丘の処刑」にまつわる記録が(おそらく『神秘』の形で)キヴォトスに刻まれているからだ。

ここから、ベアトリーチェはふたつの好条件を揃えなければならなかった。

ひとつめの条件は、「キリストの消滅」。
これは生徒会長が自らキヴォトスから消え去ることで、勝手に達成されてしまった。やったぜ。

ふたつめの条件は、「新約聖書の改竄権利」。
キリストが消滅すると、キリストにまつわるエピソードで構成されている新約聖書のテクストは大きく揺らぐ。
生徒会長はそれを利用し、「前のやつは私と一緒に消しちゃうから、新しい新約聖書をみんなでまとめてね」とエデン条約機構(ETO)を残した。
このETOは生徒会長が生徒たちに残したキヴォトス大改造のチャンスであり、「最新版の『わたしたち版』新約聖書をまとめるイベント」である。
ETOを横取りしてしまえば、新約聖書の改竄権が手に入る。つまりは、「新約聖書」を自分勝手に書き直そうとするベアトリーチェのような者にとっては、未曾有の大チャンスが訪れていたのである。

キリストがいなくなって、「新約成立にまつわる一連のエピソード」がキヴォトスの新約聖書から消滅した。
キヴォトスが「うちの歴史にこういうエピソードあったはずなのに、なんか白紙になっとんねん、どういうこと?」という状態になっていたETO調印時こそ、横から「はいはーい、これがホンモノの正史です、イイネ?」と言える唯一のタイミングだった。

だからベアトリーチェは、黙示録の乗り手にアンチ・キリストを加えた『神秘』の持ち主でアリウス・スクワッドを構成し、最終戦争の引き金を引かせた。
自ら「新約聖書」の最終局面たる黙示録を引き起こすことで、状況のイニシアチブをとった。
史上最大級の聖書編纂エピソードの経験者であるラテン教父、アンブロシウスやヒエロニムスといった顔ぶれの複製を揃えた。

ベアトリーチェ自身はそこまで深く考えてなかったぽいけど。

とまあ、あんだけ気持ちよさそうに黒幕ムーブかましながら、勝ち筋のほとんどは当人の自覚なく周りに整えてもらったものであるというのが、なんともベアトリーチェである。
さすがはただの舞台装置、周りが見えていない。

しかしそれでも、勝ち筋自体はまっとうで、強力なものだった。
彼女は勝ちの寸前まで行けていた。
あのまま行けば、彼女の「改竄」は最後まで貫き通せたはずだった。



■三番目の改竄者「先生」の話

 
さて、「先生」である。

超越者としての力を振るえなくされた超越権限者である。
超越者としての力を振るう気が最初からない超越権限者でもある。

「青春物語」の中でのみ生徒たちを守る力を振るえる、しかしそれ以外の物語の中ではありふれた一人の成人でしかない、無力な大人である。
(キヴォトスじゃその成人がありふれてねえんだよ、という話はキヴォトス人の全員がそうしているように全力でスルーする)

・補習授業部の話

さて、エデン条約編における先生の物語は、もちろん、第1章、補習授業部のエピソードから始まる。

あれは、先生からしてみれば、ひとつの理想を体現した日々である。
なにせ、生徒たらんとする生徒たちを、先生たらんとする先生として見守れるのである。完璧だ。
ついでに先生として授業もできて、なんというか先生っぽいのである。
ふだん書類仕事ばかりやらされていて「もしかして事務員なのでは?」な毎日を過ごしていたはずだから、喜びもひとしおだ。

「それに、『先生』なんでしょ?」
「今はみんなBDで学習する時代だし、学校の職員とか、教授とかならまだしも、『先生』って概念は珍しいんだよね」
「先の道を生きると書いて『先生』……つまり『導いてくれる役割』ってことだよね?」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第1章3話より

さてこの補習授業部、バラバラなメンバーが集められているようでいて、実際バラバラである。
しかしそこには、ちゃんと意味がある。それも特大のものが。
ナギサの疑心暗鬼が選んだ顔ぶれだ、というのは表向き。実はあのメンバーは、「先生」の目線から見ても、特別な意味合いを見出せるものだった。

というのも、補習授業部のメンバーはそれぞれが、自分の『崇高』『恐怖』との間に、独特な関係性を築いていたのだ。

・ヒフミの話

ヒフミは、前のほうの記事で挙げた通りだ。
わりと最初っから自然体で、一人の生徒として振る舞っていた。

初登場時は、自分が何者であるかについて、何の変哲もないモブのような生徒であると語っていた。しかし、犯罪者集団に染められて自分の経験と選択を通して、唯一無二の自分自身を獲得しつつあった、その過程をプレイヤーと「先生」は共に見てきていた。

『崇高』だの『恐怖』だのと関係なく『生徒』の自分自身を確立した生徒の、最高にして究極のサンプルである。
先生にとって、『生徒』たちにこうあってほしいと願う姿のひとつだ。

・ハナコの話

ハナコも、前のほうの記事で挙げた通りだ。

「私ウリエルみたいなんですけど、ウリエルなんだから堕天してもいいですよね?」
そんなやり方で『崇高』『恐怖』の影響から逃れるやつがいるかよ。
これだから頭のいい馬鹿は手に負えない、の見本である。

ちなみに実際の歴史上で堕天使として扱われていたときのウリエルは、主に捧げられるべき信仰を横取りする存在だった。
要は、名誉欲とか支配欲とかが暴走して堕天したということになっていた。
民間伝承とか関係なく、教皇が直接「今後ウリエルはそういう堕天使だから」と宣言したと記録があるのだから、これはもうこじつけで超解釈する余地すら残されていない。
なのに、はっちゃけ後のハナコの方向性は真逆である。
このことから、ハナコはただ詭弁で『崇高』『恐怖』の解釈をねじまげただけではなく、その際にきちんと『崇高』『恐怖』の影響そのものを抑え込むところまでやらかしていたのだと思える。

まじめな天使の影響を断ち切るためには、相応に、「まじめな天使らしからぬ自分」を装わなければいけなかったのだろう。
どんなに無理をしてでも、想像の及ぶ限りで最も「まじめな天使の行いとしてありえない」ことを実行しなければならなかったのだろう。
そう考えれば、ハナコが過去の一連の奇行に及んだ経緯も、どれだけの覚悟と決意を込めてそれらを行ってきたのかも、わかる。
途中からは素でやってるだろうけど。

ハナコは、良くも悪くも、『崇高』『恐怖』の影響に抗いひとりの『生徒』としての青春を謳歌している最先鋒である。

そして、それでは終わらない。

大切な友人たちの、あるいはキヴォトス全体の危機に際して、ハナコは元の優等生としての振る舞いを取り戻すことがある。
それは、(たぶん)苦労して抑え込んだはずの熾天使としての振る舞い、ふたたび『崇高』『恐怖』の影響下に自分を戻すということだ。
すべてを捨てて手に入れた、何より大切なはずのものを、また投げ捨ててしまうということだ。
彼女は、それをやった。
『生徒』としての自分が持つ友人たちを、友人たちとともに歩める「青春物語」を、自分自身の保持よりも優先した。それができた。

ハナコは、良くも悪くも、『崇高』『恐怖』の影響に抗いひとりの『生徒』としての青春を謳歌している最先鋒であり。
同時に、そのことだけに固執せず、本来の目的は「青春」であると忘れないだけの賢さも持ち合わせている。
先生にとっては、生徒のありかたとして理想に近いもののひとつではあるけれど、同じことを他の子たちに真似してほしくはないから複雑な感じのアレである。

・コハルの話

彼女がことあるごとに口にする「エリートである」、というのは、トリニティにおいては「より位の高い『神秘』を背負っている」に近い。
ようは、天使としてのレベルの高さである。

正義実現委員会の面々は、ティーパーティーのメンバーのようにユニークネームを持っているわけではない、「神の戦力」としての天使たちを背負っているようだ。「回転する炎の剣」とか「神の戦車」とか、そういう連中だ。ケルビムクラスからプリンシパリティクラスまでがぞろりと揃っているような、そんな世界だ。
そこに所属するコハルは実際に、天使の『神秘』を背負っているだろう。そのことを誇りに思ってもいるのだろう。それはあまり位の高い天使ではないのだろうが、コハルは胸を張って、「私はエリートなんだから!」と生きている。

あれだ。超下級貴族の家に生まれた子が、それでも「私は貴族だ!」とプライドを持ったまま振る舞う姿に近い。
そんな余裕などないはずなのに、ノブリスオブリージュだけは一丁前。身の程知らずの偉ぶりもするけれど、ちゃんと自分に厳しいので嫌われないし、愛される。そういうやつだ。

実際にコハルが背負っている天使がどれなのかについては、結論を出すのは早いというか、無理に出さないほうが面白く物語を読めると思っている。
候補になりそうな天使は多いが、コハルには「名無しの第九階梯天使」であってもらったほうが、『生徒』としての彼女の強さが際立つ。大切なのは偉さそれ自体ではなく、どれだけ誇り高くあれるのか、どれだけ誇り高くあろうとできるのか、である。みたいな。
(それはそれとしてコハル=キューピッド説も物語の潜在ポテンシャルには面白い。キューピッドはキリスト教ではなくローマ神話の神性で、キヴォトスにおいてローマ神話は「外の概念」なので、今後物語がとんでもない方向に広がった際のキーキャラクターになってしまう)

つまりコハルは、『崇高』『恐怖』を否定せず、それに支配されるわけでもなく、今の自分の一部分として大切にしている『生徒』である。
先生にとって、『生徒』たちにこうあってほしいと願う姿のひとつだ。

・アズサの話

補習授業部に集められたメンバーの中で、唯一、『恐怖』との関係性が良くないものであったのがアズサだ。

前のほうの記事で扱ったように、アズサが背負っているのは白の乗り手、黙示録において最終戦争の引き金を引く存在である。
白の乗り手という『神秘』は、この「最終戦争の引き金を引く」という役割を持つ『恐怖』として機能する。
『恐怖』への抵抗力を持たない、というか持たされていなかった最初期のアズサは、自分がその役割を遂行する未来を定められたものだとして振る舞った。

しかし、彼女が身を置いた補習授業部には、上記のような、『神秘』との付き合い方においてわけのわからないスペシャリストが揃っていたのである。
特にヒフミは、『神秘』ガン無視の『生徒』の自分自身だけで生きていて、周りにもそのように接する不思議な生き物だったのである。

朱に交わればなんとやら。
アズサは、『恐怖』からの影響(=最終戦争の引き金を引くという役割)に抵抗を始めてしまう。

先生にしてみれば、誰よりも強く『恐怖』の支配を受けながら、「青春物語」の中でそれに抗えることに気づき、戦い、そして勝ち取るにまで至った、素晴らしき一人である。
キヴォトスの生徒の誰もに同じことは望めないだろうが、アズサという例が一人いるというだけで、青春物語の守護者たる「先生」にとってはこの上ない誇りであるはずだ。

・「楽園(エデン)」を求める物語

補習授業部には、そんな感じのメンバーがそろっていた。
つまり、先生にとっては、「キヴォトスの生徒たちに望むものすべて」が最小単位で揃った、ミニチュアサイズの楽園だったわけである。

ここでいう楽園には、もちろん「エデン」というルビが振られる。
エデン条約編において、固有名詞としてはやたらと登場し、しかし何ら劇中のギミックに繋がることのなかった、あのエデンである。

もともとは、旧約聖書の創世記3章にて、主が最初に人間(アダムとイブ)を置いた、最小規模の「世界」であった。
そこには人間が幸せに暮らしていける衣食住が揃って……はいないな、食住が揃っていた。が、サタンの囁きに耳を傾けて堕落した人間は、ここにとどまる権利を失い追放された。
この時の人間の罪がいわゆる「原罪」であり、この一連のエピソード(とそれをモチーフに後世書かれた小説)が失楽園である。

ウリエルがその門番であるともされているらしいんだけど、なんかその仕事をナギサがやってるように見えるんだ、どういうことだろうねえハナコ?

このエピソード自体は、この際、あまり重要ではない。
肝要なのは、「人間にはもう住む資格のない理想郷」という概念に、エデンという名前がついていてるということだ。

エデンを探しているだとか。
見つかるはずがないだとか。
これらは、ことあるごとにセイアが口にしていた言葉である。それは、旧約聖書の記述を彼女が(部分的にでも)知っていることを意味する。

多くのプレイヤーは、これを「セイアの言うことは難しくてよくわからないなあ」と聞き流す。
そして劇中の先生は、「そんなこと言われても先生エデンの実在を知ってるしなあ」と聞き流す。
結果は同じである。というか、難しいことをいう生徒たち一般に対してだいたい先生はこんな感じである。まあ、先生まで難しいことを言い始めたら、置き去りにされたと感じるプレイヤーが多く出るだろうし仕方のないことではあるけれど。
しかし、「先生」が「プレイヤー」に隠れてこそこそと動き始めているのは、まさにこの辺りからなのだ。

そもそも、エデン条約編において、「先生」が何を目的として動いているのかは、プレイヤーに明示されていない。
補習授業部の勉強を手伝ったり、テストを受けに行くのを引率したり、戦闘の場所に飛び込んだり、暗殺されかけたり、生徒を迎えにいったり。プレイヤーたる我々に見えるのは、先生がそういうことを行っている姿だけである。全体的に、「起きていることに対応しているだけ」の、受け身の姿を徹しているともとれる。

実際には、そうではない。
プレイヤーに意識させないところで、先生はひとつの目的に向かって動き続けている。
それが、「エデンの証明」だった。
つまり、5番目の古則の解決だった。

「……先に行っておこう、白洲アズサ。私は君の考えには首肯しない」
「なにせ私は、5番目の古則……つまり『楽園の証明』なんて不可能だということを、誰よりもよく知っているからさ」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第3章2話

「君は以前、五つ目の古則に対してこう言っていたね」
「『ただ楽園があると信じるしかない』、と」
「然して、信じた結果がこれだ」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第3章15話

違うんだよセイア。
エデンを、本来の新約聖書の記述から見つけようとするからそういう結論になってしまうんだ。
楽園は、君たちで、図面引きから手順を踏んで作るものなんだ。
まだ実現していないものの図面を作るのだから、最初は夢を描くしかない。その段階では、それが完成することを信じるしかない。このクソ長い記事だってプロット書いてたころの私は「書き終われるのかこれ」と首をひねっていたけど完成を信じて書き始めたんだよ。
だから「楽園の捜索」とか「楽園の発見」とかじゃなく、「楽園の証明」なんだよ。

エデンの設計図はヒフミが持ってる。
あとはそれを、キヴォトス全土に広げるだけなんだ。

ETO締結の理念は「最新版の『わたしたち版』新約聖書をまとめるイベント」である。
新約聖書を「キヴォトスは楽園なんじゃーい!」と書き直すことができる、唯一のチャンスである。
エデン条約編(3章まで)における先生は、そのチャンスをつかむ方向へと、常に動いていた。

補習授業部を支えることで、「楽園」のひな型を完成させた。
ETOが横取りされ、わりと万事休すとなった時に、自分の生徒たちが想定よりもずっと育っていたことに気づいた。
「楽園」を体験し、その設計図と建築工程を知るにまで至ったそのやべぇ生徒を、ETO締結の現場へと導いた。
なんかこうETO自体は横取りされていていたけれど、ちょちょいのちょいと、さらに横取りする準備を整えた。
そして、前述の生徒を建設主任に据えて、エデン建築の宣誓をさせた。

「終わりになんてさせません、まだまだ続けていくんです!」
「私たちの物語……」
「私たちの、青春の物語を!」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編・第3章19話

この瞬間のヒフミさんは、そりゃもう文句なしにかっこいい。
誰も口をはさめない、エデン条約編最大の見せ場のひとつである。

しかし、それはヒフミ一人で成し遂げたことではない。
補習授業部の仲間たちや、その周りの人々のおかげというのはもちろんのことだが、ヒフミをそういう道へとこっそり導いてくれていた人物が一人いた、ということである。

そもそもあのシーン、なぜヒフミが雄弁に宣言を始めたのか、プレイヤーへの説明がされていない。

「……」
“頷く”

『ブルーアーカイブ』エデン条約編第3章19話

アズサを見つけたヒフミが先生に振り返り、先生が頷いた。宣言のきっかけは、これだけだ。そのやりとりがどういう約束の上に成り立っていたのかも、プレイヤーにはわからない。

状況から逆算してかろうじてわかるのは、先生が「君がこれからのキヴォトスに求めるものを思いっきり語っておいで」的なことを言ってヒフミの背中を押したのだろうくらいのものだ。
しかしそのシーンは語られていない。プレイヤーには見えない。
ヒフミの宣言を始めさせたのは先生の計画通りだということだけが提示されていて、それ以外は「アズサを見つけるまでの移動中に打合せが済んでいたんだな」と察することしかできないように語られている。
ついでに、本来調印式に必要だった条件のいくつかもこっそり達成してきているはずでもある。劇中では誰一人として触れてないけど、結果から見れば誰かがそれを終わらせているはずであり、その誰かというのは先生以外ありえなかったりする。

先生が何をしていたのか、プレイヤーはすべて見てきていた。
しかし、先生が具体的に何を組み上げてきたのかの要点は、プレイヤーからはあまりよく見えないように書かれている。

それは、おそらく『ブルーアーカイブ』の主人公は生徒たちだからである。先生は、自分が主人公にならないようにと、プレイヤーに対して自分自身の活躍をごまかすことまでしているのだ。
物語を俯瞰して分析し、物語の裏側にあるパーツを掘り起こして吟味し、そうしてようやく見えるくらいのレベルで巧妙に隠蔽しているのだ。

エデン条約編は、改竄の物語である。
そして先生は、三人目の改竄者である。
ベアトリーチェが行った改竄を、こっそりと、さらに上から改竄しなおした。
それは、最初の改竄者である生徒会長の望んだ「キヴォトスを変えたい」に完璧に応えるものだった。

もっと簡単なやり方はあったはずだ。
ETOに直接口を出し、「こういうキヴォトスにしよう」と、大人が決めてしまうことができた。そうすれば、諸々の悲惨な事件のほとんどは未然に防がれ、ベアトリーチェがハンカチを嚙んだだけで幕が下りただろう。
しかし、先生はそうしなかった。
キヴォトスのあるべき姿を、大人の口出しで決まることを良しとしなかった。子供たちが自分で探し求めて、見つけて、宣言することこそが必要だと判断した。
ETOの本来の形、単なる学園間不戦条約の形で締結されていれば、それはそれで実に結構なことだったのだろうが。ベアトリーチェが動いたせいで、マジモンのエデン案をぶつける必要ができてしまったというのは皮肉な話である。



■最後の改竄者「ヒフミ」の話

 
ここについては、改めて述べることもあんまりない。
(0)から語ってきた通りのアレである。

先生が導いてくれた、などといったところで、決して楽な道ではなかった。というかぶっちゃけ、無茶ぶりされ通しだった。
その中で、ヒフミはきっちり最後まで走り切った。

「エデン条約の再宣言ができるようにする」改竄を先生が行い、そこを引き継ぐ形で、ヒフミが「キヴォトスエデン化宣言」を行った。
それが、「新約聖書改竄の物語」としてのエデン条約編の流れである!

……と。
ここまで延々と続いてきたこの記事、「エデン条約編のおそらくは激しく間違った読み解き方」は、この結論がひとまずの着地点となる。

ただまあ、これだけではこのヒフミの段が少し寂しいので、おまけとしてもうひとつ、彼女が関わったとおぼしき改竄について解説してみる。

・『ばにたす』の改竄について

「vanitus vanitatus, et ominia vanitus」
(直訳:虚ろな虚ろ、そして虚ろなる万物)

アズサが繰り返し口にした、最初から最後まで彼女の行動原理であり続けた、「真理」とされる一文である。
(最終的にアズサは後ろに自分自身の言葉を付け加えるが、ここではその前段階の話をする)

これは、新約聖書の一番最初のバージョンには無かった言葉だとされる。
まず、ヒエロニムスが『ウルガタ』編纂時に追加した言葉のひとつだ、という説が有力だ。それも違う、長い歴史の中で新約聖書が微修正と変化を繰り返してきた中で入った言葉だよ、という説もあるらしい。

このあたりについては自分でもちょっと調べてみたのだけど、

この記事ひとつで調べたことがすべて吹き飛んだ。
いやもう、ホンモノの知識人ってやつは恐ろしい。

ともあれ、リンク先記事でも触れられているが、「vanitus vanitatus, et ominia vanitus」(以下「ばにたす」と記述)は歴史上ずっと大人気の言葉であり、色々な文脈と解釈で色々な人に使われてきた。

「あーなんか全部むなしくなってきたわー」くらいの意味で使っている人たちもいれば、「色即是空」と解釈する哲学勢もいて、アズサが使ったように「全部最終的には無」というニヒリズム直球の言葉にしてしまう人もいた。

そんないろいろの解釈の中で、ちょっとピックアップしてみたいものがひとつある。
『Vanitas! vanitatum vanitas!』という詩である。

酔っぱらった老人が自分の人生を長々と謡う、という体裁の詩だ。
商売をしたり女性に熱をあげたり旅に出たり出世したり戦争にいったりして、そのたびに、成功はしたが大事なものを失った。
最終的に、世界に何かを求めること自体を止めたら、ようやく自分の世界を手に入れることができた。

と、超おおざっぱに要約すると、そんな感じの詩である。
(よさそうな引用元が見つからなかったので私訳で申し訳ない)

で、この詩を書いたのが誰かというと、ゲーテさんである。
そう。『ファウスト』の著者である、あのゲーテさんである。

ゲーテはこの、ばにたすの言葉を、「世界に求めることを失敗し続けた男が、最終的に自分自身を見つけることができた」という詩の形に解釈し、世に残した。

アズサは、生徒である。子供である。
「最終的に」を論じることのできる老境にいない。
だから、この詩と同じ境地には至れない。
が、その道の途中、「いろいろなものを求めるのを止めない」を続けることはできるし、それが劇中のアズサの結論になっている。

ゲーテが著した「ばにたす」への解釈が、アズサが立ち上がる時の言葉そのものになっている。

「……たとえ虚しくても、足搔くと決めた」
(中略)
「……たと虚しくても、私はそこからまた足搔いてみせる」
「サオリ……私は、もう負けない」

『ブルーアーカイブ』エデン条約編3章22-23話

このことと、ヒフミが『ファウスト』の役柄を得ていることとは、直接の関係はないだろう。
ヒフミが「新約聖書の記述の一部の意味合いを変えさせた」一例に、またゲーテさんの名前が絡んできたよという意味で、ここで紹介させてもらった。



とまあ、こんな感じで。
「ぼくのよんだブルーアーカイブはこんなすごいおはなしです」の記事はひと段落となる。
今回のこれで、「エデン条約編についてざっくり語る」の目的は大枠において達成できたと言っていい。
(0)の時点からの一連の流れは、ここでゴールである。

でも、実はまだ少しだけ、語ることがある。
というかこの一連の記事を書き始めたそもそもの理由となる話にまだ触れられていないので、もう少しだけ続くんじゃ。

というわけで以下次回。
たぶん短く終わる。はず。


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