“自分が迎えたい最期”を考える事のススメ ~死を意識する事で当たり前を尊ぶ~
積極的に話題には上がらない状態にある死は、
身近なものとして向き合う必要があるのではないか。
縁起でもないと遠ざけるべき事ではないのではないか?
遠ざける事で出てくる弊害もあるだろう。
それは、例えば『緩和ケア』への認識違いなど。
「緩和ケア=治療を諦める、生きるのを諦める」といった、マイナスなイメージが強くあり、実際医者の中にもそのような間違った認識をしている人もいるようだけど、実際はそうではない。
緩和ケアでは、患者とその家族の気持ちに寄り添い、サポートをしてくれる。
生きるのを諦めるのではなく、
『最期まで自分らしく生きる為のサポート』をしてくれるのが緩和ケアで、
病気になり、そう遠くない延長線上に死を意識する状況になったとしたら、私は初期から緩和ケアを希望したい。
私が死を迎えるまでの家族をサポートして欲しい。
死を遠ざけたい気持ちは私にもある。
脳腫瘍で一時は死を意識し、
まだこの世に居たいと願った。
願い叶って死を回避出来たものの、
障害を負って生き地獄のような日々となってしまった。
それでも、おかげさまで子供の成長をこの目で見る事が出来ている。
せめて子供の成人までは…と願う。
いつかは必ず迎える死。
それを考えずに人生の終着駅に向かう事に不安はないのか?と思う。
年を取れば、体の機能低下などもあって、死に近くはなるだろうけど、
高齢であろうと、若者であろうと、
いつ死を迎えるかわからないという事は大差がないと思う。
“まさか”が身に起こった私は、そう思うようになった。
年齢順ではない。
いつ死ぬかわからないのは、誰でも同じ。
もし死が年齢順なのだとしたら、
生まれてすぐ旅立つ子供は居ない事になる。
実際はそうではない。
年齢に関係なく、死を迎える時は様々だ。1分後に人生を終えるかもしれない。年齢に関係なく訪れる時は訪れるもの。
そんな、いつ訪れるのかがわからない事だけど、成人したら考えた方がいいように思う。
成人すると銀行口座を持ったり、成人前とは違って、手続きが必要になる事が多くなるから。
何より、生を大いに活かす為にも、
大人としてきちんと死を考えていって欲しいと思う。
私は介護や医療現場で働いた事があるから、そう考えられるのかもしれない。
だとしたら、考えられるように正しい情報を与える事も必要なのかもしれない。
わからないから、コワイ。
わからないから、他人の闘病の話に反応する。
わからないから、他人が死んだ話に反応する。のかもしれない。
『知らなかったから』じゃなくて、
医療も、どこまでを希望するのか。
延命や経管栄養等を希望するか、病状を隠さず伝えて欲しい…等、自分の希望を示しておく必要があると思う。
自分が受け答えが出来なくなった時も想定して、遺される家族に判断を委ねないようにした方が、お互いに良いと思う。
患者にとっては、「自分の希望通り」
家族にとっては、「家族の希望通り」
その希望を叶えられたのだと思えるには、患者に話せる体力のあるうちに、しっかり話し合っておく必要はあるけど、
これで、家族が“たら·れば”と思い悔やむ事を避けられると思う。
死について話し合う事を避けず、
『自分は最期はこうしたい』と伝えあう事が、ひいてはお互いの為になると思う。
ちなみに私は、まだ充分ではないけど、子供に色々伝えている。
*私の死亡届けを出す前に私の口座から出金せよ(届けを出すと出金が容易ではなくなるから)
*私が決めた所で散骨をせよ
*遺影はこれがいい
*これを棺に入れよ 等々。
“私が死んだらこの袋を見よ”と、
身内が死んだら読む本みたいなのと共に色々入れて、その袋の場所を繰り返し伝えている。医療の事について、私の希望を書き足さなければ。
家族に判断を委ねて苦しませたくないから。
一瞬でも死を意識したからこそ、
当たり前の尊さに気づけた。
これは大きな収穫だった。
体の自由は失ったけど、心は豊かになった気がする。
これまでに刷り込まれた、
下らなく薄っぺらい価値観を塗り替える事が出来たから。