秘境の国ラオスへと向かう、女ひとり24時間バス紀行。
こんにちは、あゆみ(@ayumiueda_)です。
最近あった出来事を新しい順に振り返っています。
ここからは、先月行っていたラオスのルアンパバーン篇。
今回は、バスの中で暇すぎて書いていた旅行記?をそのまま載せておきます。
(タイを出る前に読んだ、村上春樹の紀行文集「ラオスにいったい何があるというのですか?」に気持ちが引っ張られていたみたいで、なぜだか小説風になってしまった)
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ラオス・ルアンパバーン行きのミニバスは、ちょうど9時頃にタイ・チェンマイの私の安宿へ迎えにきた。車内にはまだ誰もおらず、私が一番乗りのようだ。
その後、チェンマイ市内を回って、欧米人達ーー男女ともみんな巨大なバックパックを背負っているーーを彼らの泊まる各ホステルで拾い、車内はいっぱいになった。
チェンマイでスパスクールの仲間と訪れた思い出の場所をいくつか横目に通り過ぎながら、10人ほどを乗せたミニバスはチェンマイを出た。
うとうとしていると、田舎道の途中にあるお洒落なレストランの前でバスが止まった。ここで40分のランチ休憩らしい。私は70バーツのタイフードのメニューの中からーーパッタイと迷った末にーーオムライスに似たタイ料理とペットボトルの水を注文した。
朝の9時にチェンマイを出発したバスがラオスのルアンパバーンへ到着予定するのは、明日の朝5時の予定。実に丸一日のバス旅となり、今夜は車中泊である。
そのため私はとにかく着心地を重視した寝間着のような服、そしてスッピンで宿を出てしまったのだが、それが欧米人の中で完全に浮いていたーーように私は感じていたーー。そもそも一人アジア人が混ざってる時点で浮いているのかもしれないが。
私は特に気にもせず、引きずる足を労ってーー私はタイで怪我をして松葉杖をついていたーー1人でカウンターから一番近い席でお昼を食べようとしていた。するとそんな私を気遣ってか、バスで隣に座っていたドイツ人の私と同年代くらいの男性がやってきて、"隣に座っていい?"と声をかけてきた。私は"どうぞ"と反応した。彼はITコンサルティングの仕事を辞めて旅をしていて、ドイツに帰った後は自分でビジネス立ち上げる予定らしい。
奇妙な事に、彼や私を含めた、車内の実に3分の1の人が足だか手だかに怪我を負っていた。みんな私と同じくタイのパーイという街でやられたと言うので、パーイは少し呪われているのかもしれない。
パーイの名誉のために念のため付け加えておくと、パーイは欧米人バックパッカーに大人気の、お洒落なカフェの多いタイの穏やかな田舎町である。
また、ドイツ人の彼がチェンマイの外国人の集まりで会ったという、オーストラリア人の恰幅の良い男性が偶然同じバスに乗っており、ランチ中に再会を果たしているのを私は横で見ていた。日本語を話す彼は、ケアンズの高校で日本語を教えていたらしいが、"オーストラリアの学生はマナーが悪いからもう戻らない"と言っていた。彼はゆったりとした長旅を終えたら、地元のゴールドコーストへ戻るという。
ランチが終わりミニバスが出発し、また少しうとうとしていると、すぐにチェンライの有名な白い寺、ワットロンクンへと到着した。遠目で見ると美しいが、近くへ行くと、下から生えている無数の腕を初めとした、なかなか趣味の悪いデザインで有名な寺だ。
実は私は2週間前に訪れたばかりだったし、松葉杖をついて歩いて行くのもしんどいので、目の前のコンビニでスイカバーを買い、遠くから眺めていた。
チェンライを通過するバスがこの白いお寺で休憩時間をとるのはお決まりコースだが、停車時間が20分のみという事もあり、50バーツの入場料を払って中へまで観に行っている欧米人は少なかった。私は夕飯用にバナナチップスも購入し、車内で出発を待った。
バスが白い寺を出発して、再びうとうとしつつ目を覚ますと、私達を乗せたバスは何だかものすごい田舎道の集落の中へ入って行くところだった。
気付けばもう夕方16時半頃。バスが止まり、"やたら休憩が多いなぁ"とか考えていると、今回は休憩ではなく、ラオスへの国境を越える手続きをする場所のようだ。
私以外の欧米人は全員並んでビザ代を払っていたが、日本人はフリービザで、ちょっとした優越感を味わった。それからその受付で"25バーツを残し全てのタイバーツを出して"と言われ、そのまま取られるのかと一瞬訝しんだが、ここでは勝手にラオスの通貨へ両替してくれるようだ。
私はバスで国境を越えるが、スローボート組はここに宿泊し、明日出発。隣のドイツ人青年も、オーストラリア人男性もスローボートでルアンパバーンへ向かうので、ここでお別れ。スローボートでは、3日ほどかけてのんびりと行くらしい。
"楽しそうだね"と私が言うと、"退屈だと思うよ"とドイツ人の彼は言った。
それからまたバスは出発し、タイの国境のイミグレーションへ向かった。
私の怪我と大荷物を見て、気さくで親切なスタッフのお兄さん方がわらわらと寄ってきた。
欧米人は1日に60~80人も来るが、日本人は1日3~4人しか来ないらしく、珍しいからかマナーか何かの問題かは分からないが、彼らにとって日本人は優先的に手助けしたい対象のようだ。
スタッフの人にラオスの言葉で"ありがとう"や"こんにちは"を教えてもらったりしていると、日本人の様な韓国人のおじ様がやってきて、少しの間お話ししていた。彼はリタイアして現在はチェンライに家を借りて住んでおり、よくこうして近くの国へ旅行しているそうだ。
そこからは、フィリピンのジプニーをもっと簡素にしたような粗末なバスにぎゅうぎゅうになって乗り、"まさかこれで夜通しルアンパバーンまで行くのか…"と覚悟したものの、流石にそうではなく、それでバス乗り場へ向かい、そこからは寝台バスでルアンパバーンへ向かうようだ。
ラオス側の国境近くのバス乗り場を、夕方6時半頃に出発した。
寝台バスの名の通り、中には当然ベッドがあるのだが、仕切りもないシングルベットの1台を2人で使うシステムだ。ベッドは番号で決まっており、私の隣には欧米人が寝ていた。
私は偶然隣人が女性だったからよかったものの、このサイズのベッドに男性2人で寝ている人々は果たして眠りに付けるのだろうか、と、私は人ごとながら若干気の毒に思った。
酔い止めを飲んだがしばらく気持ちが悪く、ようやく落ち着いてからは気持ちよく眠りについた。
夜の9時頃、バスは山道の途中の、周りには自然しかないローカルな屋台の前で停車した。
少しの期待を持ち空を見上げると、やはり、信じられないほど密度濃くひしめき合う星達が、各々に強い光を放っていた。
お寺での瞑想修行が終わってからしばらくはこのまま夕飯はあまり食べないスタンスで行こうと思っていたが、他の人達が温かいカップヌードルを食べているのを見ていると食べたくなってしまい、結局私もカップヌードルを食べてしまった。
お腹が満たされた私はその後よく眠り、眼が覚めると朝の5時頃。外は少しずつ明るくなってきていた。
予定では5時着なのだが、GPSで現在地を確認すると、目的地の街ルアンパバーンはまだまだ遠い。いつからか隣には川が流れていて、その悠々とした流れに沿って、バスは進んで行く。
曇っていて天気は良くはないが、雲のかかった山々がラオスという国の秘境的なイメージを増長させる。
満足に眠れたので、ルアンパバーン市内に入ってからは、寝台バスのベッドの中で体を半分起こし、タイで昨日買ったバナナチップスを食べながら車窓の景色を眺めていた。
山々の間に時折現れるオレンジの屋根、そして隣でゆっくり流れ続ける広大な川。
横目に見ていた川がメコン川と合流し、バスがルアンパバーンへ到着したのは、予定より4時間遅れの朝9時だった。
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バスを降りてからはこんなに詳細に記録してないので、小説ごっこはこれでお終い。
24時間かけて到着した世界遺産の街ルアンパバーンは、バックパッカー達がついつい長居してしまうのも頷ける、ゆったりとした素敵な街でした。
その街の風景も、別のノートでアップします。
ではでは。
あゆみ