ゴルフの歴史【Ep6】ついにゴルフはアメリカへ
このシリーズではゴルフ史を紹介しています。
ただの趣味翻訳ですがお楽しみいただけたら嬉しいです。
画像の出典は画像下に、
参考資料は最下部にまとめています。
前回までのお話はこちらのマガジンからどうぞ
↓ ↓ ↓ ↓
そしてゴルフはアメリカへ
1887年の夏、ある訪問者が出張のためスコットランドへやってきました。その男性の名前はロバート・ロックハートといい、彼はダンファームリンの出身でした。彼はスコットランドで生まれその後アメリカに移住しているのですが、リネン(織物)商人であるため、仕事で頻繁に故郷を訪れていました。
幼少期からマッセルバラのリンクスでゴルフをプレーしながら育った彼は、1886年、アメリカの友人たちにゴルフを紹介しようと決めます。
そこで、トム・モリスの店で6本のクラブとガタパーチャボールを2ダース購入しました。(ドライバー・ブラッシー・スプーン・クリーク(ロングアイアン)・サンドアイアン・パター)
ロックハートは、ニューヨークの自宅へ購入したクラブを発送しました。1887年の冬、届いたクラブを試すため、ロックハートは2人の息子を連れセントラルパークへ向かいました。
この時、見慣れない道具を持ち歩いていたロックハートは、警察に怪しまれ、職務質問を受けました。このときの記録が実際に残っています。クラブが無事に使えることを確認できた彼は、友人でダンファームリン出身のジョン・レイドの自宅があるニューヨーク州ヨンカーズにクラブを発送しました。
Sentandrew‘s Golf Club
それから6ヶ月後……1888年2月22日、ジョージ・ワシントンの誕生日の朝、レイドはゴルフを試してみるため、ヨンカースの牧場に友人5人を呼び集めます。
レイドを含めた6人全員がすぐにゴルフの虜となりますが、この年の大吹雪によりゴルフの中断を余儀なくされます。この年の秋、再びレイドの家に集結した彼らは、「Sentandrew‘s Golf Club」としてクラブを創設しました。
1888年11月14日、歴史上この日アメリカで正式にゴルフが始まったとされています。
とは言え、これがアメリカで初めてゴルフがプレーされた日というわけではないはずです。1650年まで遡ると、当時はオランダの植民地であったニューヨークの法廷記録に「colf」という言葉が出てきます。
おそらくオランダから伝わったのでは?と考えられていますが、アメリカ独立戦争前の13植民地時代は「そこに英語があればゴルフもある」と言われていたほど、ゴルフは世界的に流行していたと考えられています。
また、1740年、スコットランドからサウスカロライナへゴルフクラブとボールが運ばれたと航海日誌に記録が残っていたり、1780年にジョージア州のサバンナにゴルフクラブが創設された証拠もあります。ですが、このような組織の痕跡は全て南北戦争により消滅してしまいました。
北のカナダでは、ロイヤル・モントリオール・ゴルフクラブが1873年に創設され、その後、キュービッククラブが1875年に、トロントのクラブが1876年に創設されました。
しかし、現在も存続するアメリカ最古のクラブはセントアンドリュースズクラブとして一般的に認識されてます。
リンゴの木
こうして、ジョン・レイドは「アメリカゴルフの父」と呼ばれるようになり、レイドを含む一団は大きなリンゴの木を仮のクラブハウスとしてその周りに集まっていたことから、彼の元へ巡礼する者達は「アップルツリーギャング(The Apple Tree Gang)」として知られるようになりました。
広い木製ベンチがリンゴの木の幹を取り囲み、メンバーたちは上着やお昼のランチ、そしてスコットランドから届けられたビールが入ったウィッカーバスケットをりんごの木の枝に吊るし楽しみました。
この頃「リンゴの木」は、セントアンドリュースズコースの代名詞的な存在になります。このコースは、ハドソン川を見下ろす0.14平方キロメートルに及ぶ果樹園に位置していました。セントアンドリュースズを訪れた経験のあるゴルファーは「リンゴの木のないゴルフ場はもはやゴルフ場でない」と言うほど。
セントアンドリュースズコースの誕生を皮切りに、リンゴの木の有無に関わらず、スコットランドからのプロゴルファーの流入もあり、アメリカでは多数のゴルフ場が次々に誕生していきます。
スコットランドでゴルフを学んだアメリカ人
スコットランドからアメリカへプロゴルファーが続々と派遣される中、逆に、アメリカからスコットランドへ渡ったアメリカ人がいます。
チャールズ・ブレア・マクドナルドという、シカゴの裕福な家庭で育った青年です。1872年、16歳のこの青年は祖父の世話のもと、大学で学ぶためにセントアンドリュースに船で渡りました。
到着した翌日、マクドナルドは祖父に連れられ、オールド・トム・モリスの店を訪れクラブセットを購入し、店のロッカーに買ったばかりのクラブを預けました。当時、ジュニアゴルファーはロイヤル・アンド・エイシェントのクラブハウスに入ることができなかったためです。
マクドナルドは、全ての空き時間をオールドコースでのプレーに費やしました。偉大な選手であるオールド・トムやヤング・トムをはじめとする、多くの名だたるプレーヤーから、よく聞きよく学びました。
アマチュア選手権
そして2年後の1874年、マクドナルドは、ゲームに対する情熱と強い信念を持ってアメリカへと戻ってきました。当時のゴルフマガジンは、彼について「彼はアメリカでゴルフのゴスペル(福音)を広める任務を任されたかのような存在だ」と記しています。
当時、アメリカにはゴルフコースがなかったため、彼は15年もの間、仕事で英国へ出張したときしかゴルフを楽しめませんでした。
しかし、アメリカ全土がゴルフの虜になる頃には、マクドナルドはゴルファーとして最高峰の舞台で戦うための準備が完全に整っていました。1894年、ロードアイランド州のニューポートゴルフクラブには、全米アマチュアチャンピオンを決定するため国内の屈指のアマチュア選手たちが集まっていました。
……しかしながら、マクドナルドはこの大会で優勝することができませんでした。36ホール189打とし、ニューポートの会員であるウィリアム・ローレンスに1ストローク差で敗れ準優勝となったのです。
正しい人物へ伝える力
マクドナルドは後に、第2ラウンドで2打を失う羽目になった石壁は、ゴルフのルールにおいて正当な障害物ではないと運営に抗議しました。
(彼はルールに厳格で、ルールをよく知らない人々に対してその知識を誇示してました。しかし、当時はほとんどの人がゴルフのルールを知りませんでした。)
さらには、正式な選手権というものは、誰が最も少ないストロークを打ったかではなく、対戦方式で決定されるべきだと主張。
そして翌月、セントアンドリュースズゴルフクラブがマッチプレー形式の第2回アマチュア選手権大会を開催し、彼は対戦形式で勝負できる機会を得ました。
マクドナルドは、ニューポートの仇であるウィリアム・ローレンスを準決勝で破りましたが、18ホールの決勝戦で引き分けた後、プレーオフの最初のホールでティーショットをスライスし田畑に打ち込み、ローレンス・ストッダードに敗れました。
すると、今度は、1つのクラブが全国選手権を主催することはできないという理由で、この試合の結果は無効であると主張しました。
マクドナルドの不平不満は主に自己中心的なものでしたが、彼には指導力があり、話し上手でした。ユーモアの分からない人ではありましたが、正しい人々に自分の主張を伝えることに長けていました。
USGAのはじまり
マサチューセッツ州ブルックラインのカントリークラブでゴルフを始めた男、ローレンス・カーティスは、セントアンドリュースズの創設者の1人であるヘンリー・トールマッジに話を持ちかけます。
「様々なクラブの代表者を招待して全国選手権を主催できる権限があり、ルールの統括を行うことができて、ゴルフの繁栄を促進できる中央機関のようなものを設立しないか?」と。これにヘンリーは即合意しました。
そして、1894年12月ニューヨーク市のカルメットクラブで開かれた、著名なクラブの代表者が集まる夕食会で、米国ゴルフ協会(USGA)が設立されました。
CBマクドナルドは間違いなくUSGAの初代会長になりたかったに違いありません。しかし、彼は争いごとを好む性格で適任ではなかったため、会長にはニューポートの大物実業家セオドラ・ハブメイヤーが就任し、マクドナルドは副会長に就任しました。
マクドナルドは役員として長年にわたりUSGAに貢献し、アメリカでもスコットランドのようにゴルフが親しまれるよう尽力しました。また、彼はUSGAとR&Aが統一したルールを作成するように働きかけた重要な人物でもあります。
ついに念願の…
USGAの設立から1年、ついにマクドナルドは彼が本当に欲しくてたまらなかったものを手に入れました。全米アマチュア選手権のタイトルです。
参加者は、彼の他に29名。ゴルフ歴たった3か月のテニス好きの若者、チャールズ・サンズを12-11で下しての優勝となりました。
そして、翌日には全米オープン選手権が開催され、21歳の英国人ホレス・ローリンズが、9人のプロゴルファーと1人のアマチュアを破り、91-82-173のスコアで初代チャンピオンとなりました。
全米オープンは、今でこそ誰もが欲しがるタイトルの1つですが、当時はおまけの試合のような扱いで、初代優勝者には50ドル程度の金メダルと150ドルの賞金が贈られたといいます。
このC.B.マクドナルドの全米アマチュア選手権のタイトルは彼にとって生涯最後の栄冠となり、その後、彼が勝つことは二度とありませんでした。
しかしながら、彼はUSGAの役員としてだけでなく、アメリカ初の偉大なゴルフコース設計者として、ゴルフ界に多大な影響を与え続けました。彼こそが「ゴルフアーキテクト(Golf Architect)」という用語を作り出した人物といわれています。
コース設計家のエゴ
1892年、マクドナルはイリノイ州のジョン・B・ファーウェル上院議員の地所にいくつかの短いホールを設計して欲しいと招かれました。
その後さらに追加で数ホールを設計し、自身が創設者および主要出資者となり、友人らと共に新しい9ホールのゴルフ場「シカゴゴルフクラブ」をベルモントの町に設計しました。
そして1895年には、アメリカで最初の18ホールのコースとなる、海沿いのゴルフ場を発表しました。
その後30年間、彼はバミューダのミッドオーシャンクラブ、イェール大学コース、グリーンブライヤリゾートのオリジナルコースであるOld Whiteを含む、数多くのコースを設計しました。
マクドナルドの真の傑作は、ロングアイランドの東端に設計された「The National Golf Links of America」と言われてます。
計算されたボールがよく転がるフェアウェイや、創意に富んだグリーン、ゴルファーを深く考えさせるコース戦略に、セントアンドリュースで培った全てを注ぎ込みました。1911年に開場した「ザ・ナショナル」は、アメリカのゴルフ場設計の新たな基準となり、約100年たった今日でも、世界トップ20のゴルフコースにランクインするほどの人気を誇っています。
クラブハウスの中にはC.B.マクドナルドの等身大のブロンズ像があり、逸話によるとマクドナルド自身が銅像を発注したにも関わらず、その費用をクラブ会員等に請求したと言われています。(面白すぎます。)
C.B.マクドナルドという人物のエゴは本当に強烈で、コース設計でも自分のエゴを満たすことを厭いませんでした。彼は有名なスライサーであったため、シカゴゴルフクラブを、左から右へ曲がるショットが有利になるよう設計しました。右にボールを飛ばせば、最悪のケースでも軽いラフで済むが、左に飛ばすとトウモロコシ畑に突っ込むといったコースでした。
このあまりにも理不尽な設計により、1899年のルールブックに「アウト・オブ・バウンズ(OB)」という言葉が登場したと言われています。以降、ボールがコースから大きく離れて飛んだ場合は、1打加算して再度ティーショットを打てるルールになりました。
続く…
参考資料
・THE STROY OF GOLF written by GEORGE PEPER
・Apple Tree Gang
・History of Golf - Part Five America and Golf
・Charles Blair Macdonald Enters World Golf Hall of Fame
▶︎次の記事はこちら