日本が生きづらい世の中なのは、細かい区切りやグルーピングがあり、そして各々に暗黙のルールがあるからだと、かつてから思っている。違ってもいいものは取り入れたらいいし、明らかに合わないものは取り入れなければいい、という話をよくする。おかしい ではなく 違う のだが、自分と違うものを全部 おかしい としてしまうのはちょっとね。
日本企業と外資系企業で働いてみるとこの差は明らかに感じる。そして、違う意見のいいとこ取りをしている外資系企業は、風通しが良く、いい距離感もあり。悪いところを集めたような企業は、カオス。外国の治安の悪い知らない街に迷い込んだように感じる。日本企業は…いうまでもない独自路線。
XXにしては珍しいですね。
のXXに入る言葉は、
9月 とか 体重100kg とか シャネル とか 元陸上選手 とか、誰でも絶対に知っていて、共通の情報、それが不動なもの以外にしか使わない方がいいと思った。
海外に住んでいると英語ができると思われるのも、海外=英語 というその人のバイアスだし、世界は広く違う言語がたくさんある。実際私は英語はほぼできない。そしてどんどんできなくなっている。
ペルーにしては珍しいですね にいたっては、住んでいる人以外の発言は、ほぼその人のバイアス。
クラブハウスで、血液型A型にしては珍しいですね という発言を、今日何十年かぶりに聞いた。これは 乙女座にしては珍しいですね とかにも当てはまる。一理あるが、日本人的発言で、めっちゃ古いし、バイアスがかかりすぎって気がする。
右脳左脳テスト何とか型、なんちゃらテスト何とか型とか、見つければやってみるし面白いが、ゲームとしてで、人をカテゴライズするための尺度ではないはず。
XXにしては珍しいですね を逆にとって、その職業のステレオタイプと想像される見かけから一番遠い印象を持たれるように努力している…という先輩がいる。私もどちらかというとそう。ギャップが楽しい。
よく 歌手ですか とか もう歌手と決めつけられて どんなジャンル歌ってるんですか とか聞かれる。これは日本でも現地でも。何か私の見かけに歌手に見える要素があるのだろう。そんなことを話すと、いっそ歌手になっちゃえば?と言われる。それも面白い。
音声アプリのクラブハウスが気に入っている点は、見かけや所属するグループの枠が元々はずされているので、バイアスが発生せず、その人の声や、話し方、選ぶ言葉の感性が同じ感覚の人に、ハプニング的な確率で出会え、その方の話を心地よく聞け、わりに会話的な印象では相思相愛になれるという点である。海外に住む私にとっての日本語でのこの環境は、醍醐味というか、もう天国とも言える。
それなのに、まず自分も他人もグルーピング、カテゴリー化しないと話せない人も結構いるということがわかり残念。
フェイスブックでも、公開設定の人のコメント欄に出没する輩に多い。
そういう人は自分からの発信は一切なく、他人の土俵で相撲を取る。あまり人に絡まず、共感も求めず、ツイッターで一日中呟き続けてみてはどうだろうか。
世界にはカテゴリーを超えた素敵な人がたくさんいる。何歳になっても。
そういえば動物占いっていうのもあったね。なんだったかなあ…私。