小説サンプル(ライトノベル)
序
その夜、五丈原に風はなかった。
澄みきった夜空に氷のような月が浮かび、地上に無数の夜露が煌めいている。
夜営地は軍勢がいるとは思えない静けさに支配され、時折弾ける篝火の音、馬の嘶きが驚くほど響く夜だった。
今夜、諸葛孔明は、まさにその最期の一息を終えようとしていたのである。
混沌とした意識のもと、孔明は心中で問い続けていた。
心の根底にある騒乱の火種
争いのない世を民が求めても、国主は火種に焼かれて我を忘れる
天よ、騒乱の火種を消し給え
平穏な日々を求める民を守り給え……
薫風
暖かな春風が頬をなでる。
辺りには、満開の白梅が放つ春の香りが漂っていた。
「兄上、お目覚めですか?」
懐かしい声が聞こえる。
孔明は、ゆっくりと身を起こした。
見覚えのある壁、粗末な窓、自分に笑顔を向ける弟の姿。
そこは、青年時代の大半を過ごした隆中の草蘆だった。
これは夢か、幻か……
呆然とする孔明に、均は小首を傾げていたが、すぐに気を取り直して孔明の布団を取り上げた。
「先ほどから元直さんが、お待ちですよ」
「元直?」
「早く出てきて下さい。僕、もうお相手するのに疲れてしまいました」
そう言って困ったような顔をする。
それは、確かに記憶に残っている均の姿だった。
「ああ。わかったよ。すぐ行くから先に戻っていなさい」
孔明は、しばらく忘れていた穏やかな心持ちで、そう答えた。
酒杯
部屋には珍しく上機嫌な徐庶の姿があった。
「やっとお出ましか、孔明」
悪戯っぽく微笑みながら、杯を上げて言う。
「行儀の悪い客人だな、ここは酒屋ではないぞ」
「まあ、そう言うな。祝いの酒だ」
徐庶は均が持ってきた杯に酒を注ぎ、孔明に差し出した。
「仕官することになった。劉玄徳にだ。」
孔明は黙って杯を受け取った。
劉玄徳と、その名を聞いた時、彼は全身に衝撃が走るのを感じた。
孔明は杯を口にせず、卓の上に置くと目を伏せた。
「そんな顔をするな、今度ばかりは止めても無駄だ」
孔明は徐庶の真剣な眼差しを見た。
記憶と寸分違わぬ、若き徐庶の鋭い瞳。
「止めはしない。ただ……」
「ただ?ただなんだ」
「君の才は群を抜いている。いつか戦場で、その才を発揮すれば、必ず敵は君の弱点を探すだろう」
徐庶は眉をひそめた。
「弱点?そんなものはない」
「ある。……例えば、君の母上だ。」
徐庶の顔色が変わった。
「忠を取るか、孝を取るか、そんな苦しい選択をしたくはあるまい」
しばしの沈黙の後、徐庶は大きなため息をついた。
「全くだ。目が覚めたよ。早速、母の元へ行くとしよう」
徐庶は、そう言って立ち上がると振り返り、均を呼んだ。
「孔明、また来る。次に会うときを楽しみにしていてくれ」
孔明は微笑し、徐庶を見送った。
桃花
窓外には桃の花が静かに散り落ちていた。
うららかな日差しのなか、白い蝶が二匹戯れながら飛んで行く。
孔明は、平和な田園風景を窓越しに眺めていた。
夢か……いや、夢ではない
今、私は確かにここにいる
そうだ、たとえ夢でも今を生きよ。
再び、諸葛亮として
徐庶と別れて二十日と経たないうちに、孔明は劉備の訪問を受けた。
劉備は、壮年らしい威厳と落ち着きをもって、天下の動乱を悲しみ、切々と民の苦しみを説くのだった。
孔明は簡潔な返答に終始した。
彼にはそれが、精一杯のことだったのだ。
怒涛の如く押し寄せる過去の記憶と激情は冷たいまでに、孔明を寡黙にしていた。
孔明はじっと劉備の声に耳を澄ました。
その声は、変わらぬ温かさと穏やかな響きを持っていた。
多くの民や兵士、武将が慕った劉備の人徳。
その人徳が声に凝縮されているかのようだった。
暫くすると、戸外で張飛と関羽が言い争う声が聞こえてきた。
すると劉備は話をやめ、孔明をじっとみつめた。
孔明もまた、視線を上げ劉備を見た。
劉備は笑みを含んで、また後日参ります、とだけ言うと孔明の見送りすら止めて、草蘆を後にした。
沈思
孔明は劉備が残していった徐庶の書簡を開いた。
徐庶らしい力強い筆跡で書かれた、僅か数行の書簡だ。
そこには、劉備に問い詰められ、やむなく紹介することになったが、これは好機だから熟慮し給え、というようなことが書き記されていた。
孔明自身は、劉備以外に仕官する意思は毛頭なかったが、関羽や張飛の気性を考えると、そう簡単に仕官することもできない。
劉備の三顧が、二人の武将から兵士に至るまで、軍師の重要性を知らしめるきっかけとなったことは間違いないのだ。
孔明は、徐庶の書簡を閉じた。
今、既に徐庶の運命を変えたことで、幾分この世界の歴史が変わりつつある。
孔明は前世とも言える、かつての記憶を辿っていた。
次々と浮かんでは消える出会いと別れ、喜びと悲しみ。
そして、まざまざと浮かぶのは、苦い街亭の記憶である。
うら若き青年の命を、私は……
孔明は、辛い記憶を努めて他のことに気を紛らせようとした。
「兄上」
均の声だ。
「仕官なさるのですか?」
「いや、まだ決めたわけではないよ」
振り返りもせずに、孔明は答えた。
「嘘だ。兄上が考えていることぐらい分かりますよ」
「分かるか。たいしたものだ」
「やだなぁ。真面目に僕の話を聞いてください」
均は孔明の前に来た。
「兄上は仕官するおつもりですね」
孔明は均の姿を見、全く別のことを考えていた。
まだ若い……
「だとしたら」
均は満足そうな表情を浮かべて言った。
「もちろん僕も、連れて行くつもりですよね?」
「そんなことは約束できない」
一転して均は不満顔だ。
「ここに誰よりも信頼できる側近がいるのに、兄上は欲がなさすぎます。わざわざ置いて行くのですか?」
まるで駄々をこねる子供のような均の姿に、孔明は笑いをこらえながら言った。
「わかった、わかった。頭に入れておくよ。さあ、心配せずに門を閉めておいで。また鹿が飛び込んで来たら大変だ」
「大丈夫ですよ。鹿だってそんなに暇じゃありません」
そんなことを言いながら。均は部屋を出て行った。
白羽扇
孔明にとって均の申し出は喜ばしいものだった。
だが、均をこれから起こる戦乱に巻き込むことは避けたいとも思う。
兄のもとへ預ける方が安全なのではないか。
叔父を失ったときには、戦乱の城下を二人で逃げまどった。
昔の記憶を思うと辛かった。
考えてみれば、あの時の敗戦の苦しさが、孔明を支えているのだ。
少年期の記憶は、孔明に細心の注意を払わせた。
決して油断せず、裏切りさえも想定内の遠謀を巡らせ、張り詰めた精神は限界を何度も超えていた。
そうした孔明の心中を知る者はなく、唯一、均だけが孔明の心中を理解していた。
戦乱で苦しむのは、常に無力な民衆だった
私は、その無力な民衆の一人として、この国の幸福を心から願っている
おそらく均も、同じように考えているのだろう
机上に置かれた白羽扇に西日が射している。
望むのであれば、共に行こうか……
人は、自分の望むままに生きることこそが、幸福なのだから
木々には新緑が芽生え、色濃くなって行く。
劉備の三顧に応え、孔明が軍師として戦いへ身を投じたのは、中秋のことだった。