目には目を歯には歯を
この文章を読んで思ったこと。
「私たちは芦原先生が亡くなって寂しいです。私たちは出来る限りのことをしていました。私たちは悪くありません。悪いのは芦原先生の意思を無視した脚本を書いた脚本家です」
がとても簡単な言葉で要約した文章かな、と。
小学館の「社外に向けて発表しない」とした姿勢が、「正しい」と思ったので。この文章を読んで、とてもがっかりした。憤りを抱いた。
「自分本位」な文章であると感じたので。
芦原先生が削除された投稿内容を、一言一句違わずに覚えている訳では無いけれど。
先生は、まず。「①まだ『セクシー田中さん』は完結していない作品だから」という理由から、ドラマ化の話に難色を示していた。
それでも、「②ドラマ化をするのであれば、原作に忠実であること」などの細かい条件を満たすのであれば、ドラマ化することを承諾するとした。
そして、②の条件が守られず、「③何度も途中でやめたい」と。
②の条件が守られなかった結果として、「④8話までずっと脚本の手直しを続けていたが、あまりに約束の破られ方が酷かったので、最終的には9話と10話の脚本を書いた」
⑤脚本家のインスタの投稿
⑥芦原先生の上記内容の投稿
⑦脚本家・プロデューサー・小学館に対するネット民の攻撃的な投稿
⑧芦原先生の投稿削除
⑨蘆原先生逝去
⑩脚本家・プロデューサー・小学館に対するネット民の攻撃的な投稿
⑪日テレからの声明
⑫日テレへのネット民の攻撃的な投稿
⑬脚本家・小学館からの声明
⑭脚本家・小学館へのネット民からの攻撃的な投稿
⑮小学館編集からの文章
芦原先生の投稿内容は、小学館と相談の上で投稿されたものだったこと。だから、芦原先生の投稿内容は、小学館も投稿を同意した内容だったということ。
そして、芦原先生は「必要がなくなったら投稿だけではなくアカウントごと消してしまうかもしれない」と書かれていたこと。
「小学館には失望した」「小学館が先生の意思をテレビ局に伝えてなかったのではないか」「圧力をかけて投稿を消させたのではないか」など。小学館に対する誹謗中傷ともとれる発言を見かけたけれど、芦原先生の投稿からも、「違う」と思った。
小学館にとって、芦原先生の投稿内容は「都合が悪い」ものであったにも関わらず、相談されてその内容で投稿して良いと許可しているので、「まとも」な人も小学館に居る。だから、小学館が「社外に向けて発表しない」としたとき、「故人の意にそぐわない」の意味は、「社外に向けて発表することで、誰かが攻撃対象となることがわかっているので行わない」の意味だと思った。
その発表があったにも関わらず、「私たちは悪くありません」な文章が載り、案の定、脚本家とプロデューサーに対する叩きが始まった。
「有言実行」という言葉があるけれど、「不言実行」という言葉もある。
別に、私たち一般読者に向けて何か説明してくれなくても構わない。
今後は、漫画家の先生に寄り添った対応を行ってくれるのであれば、説明がなかったとしても構わなかった。
「寄り添っていた“つもり”」でしかない文章を読んで、すごく不安になった。
あなた方も「つらい」「寂しい」思いをしているのは理解できる。
でも、それは、あなた方がちゃんと先生の気持ちに寄り添っていてはくれなかったから。
あなた方が招いた結果だと私は思っている。
ちゃんと先生の気持ちに寄り添って、ドラマ化よりも、原作の漫画の完結をして欲しかった。
ただただ悲しい。芦原先生の思いが踏みにじられ続けることが。