見出し画像

若きベートーヴェンチクルス05

2024年9月16日
竹風堂大門ホール
ピアノ:依田ひとみ
テノール:上村亮


今日最初に聴いていただくソナタは次回の「悲愴ソナタ」と同時期、1798年の作品です。後半の 第7番なんかも同じです。
研究が進んだ結果「悲愴ソナタ」は既に1797年から作曲がスタートしていることがわかりました。結構早いんです。昔は1番から7番のピアノソナタの後にはっきり区切りのラインがあって初期が終わって8番の「悲愴ソナタ」から中期が始まるとゆーイメージで捉えられてた感じでした。
でも、実際はそんなに明確に線引きできないんです。かなり広い範囲のグラデーションになってます。
ベートーヴェンの場合、音楽の雰囲気で作曲順を類推することはとても難しいし、危険です。
次回聴いていただく「悲愴ソナタ」は、今では中期の始まりではなくて、初期の終わりで中期の始まり(予兆)の曲とも言えるかな…という感じで捉えられるようになっています。今回と次回はそんな時期のソナタを聴いていただきます。


ソナタ第9番ホ長調op14-1

さて第9番のソナタは「悲愴ソナタ」の直後の作曲ですが、悲愴のように悲痛で劇的な雰囲気の作風とは全然違う大らかで素直な音楽です。「悲愴ソナタ」の直後なのに悲劇的な感覚は全く受け継がれていないんです。規模も小さくて あれっと思うほどシンプルです。ソナチネを連想する方もいらっしゃるでしょう。

では お願いします。
ひとみ登場
演奏
退場

余談・Hess34
このソナタはベートーヴェン自身が弦楽四重奏Hess34に編曲している。編曲にあたってベートーヴェンは調をへ長調に上げた以外はあまりいじらずに編曲している。つまり、そもそもピアノソナタの段階からすごく弦楽器的かつ室内楽的な発想で書かれていたとゆーことなのだ。ぜひ弦楽四重奏版と聴き比べてみて欲しい。9番のソナタがいかに室内楽的に書かれているかよくわかるだろう。

ゲーテによる歌曲
さて、今日はここからベートーヴェンのゲーテによる歌曲を聴いていただきます。これまでずっと強調してきた通りベートーヴェンはドイツリートの元祖のような存在です。素晴らしい作品がたくさん残っています。もちろんモーツァルトも素晴らしい歌曲をたくさん残していますが(ハイドンにも素敵な歌曲がある、音楽とテクストの密接で深い関係性などの点からすると、シューベルト以降のドイツリートの在り方を先取りしているのはやはりモーツァルトよりもベートーヴェンでしょう。作品の出来やその軽重を問題にしてるんじゃないです。いわゆるロマン派以降のドイツリートの作り方という点で、そうなのだとゆー話です。
ベートーヴェンはゲーテの詩を好んでいて、けっこう多くの詩に曲をつけてます。ベートーヴェンが「魔王」や「野ばら」にも曲をつけようとしていたことは有名です。
今日はゲーテの詩による3曲を聴いていただきます。ゲーテではないですが、アデライーデも聴いていただきます。

ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


ゲーテは24歳の時に「若きウェルテルの悩み」を発表しました。1774年です。青春の情熱と失恋と自殺ですよね。めっちゃロマン的です。

若きウェルテルの悩み(1774/初版)


これはゲーテの実体験が元になってるのでほとんど「私小説」といえます。個人的な体験をある青年の「内的なドラマ」に託して表現します。それは悲愴ソナタで自分の個人的な運命を一曲のソナタにまとめたベートーヴェンと同様だと言えます。「悲愴ソナタ」はいろんな点で「ウェルテル」とつながるところが多いんです。ウェルテルと悲愴ソナタはこの当時を代表作として並び立つ二作品なんです。

ウェルテルは大ベストセラーになってヨーロッパ中の若者を熱狂させました。ウェルテルゆかりの地を訪ね歩くいわゆる「聖地巡礼」も人気でしたし、ウェルテルを真似て自殺する若者が続出して、社会問題になりました。
いわゆる
「ウェルテル効果」です。
アイドルが自殺すると後追い自殺する人が出たりするでしょう?それです。
ベートーヴェンが「ウェルテル」を読んだかどうか、よくわからないんですが、「ファウスト」や「ウィルヘルムマイスター」などの一節に音楽をつけている読書好きのベートーヴェンが、この大ベストセラーを読んでないとゆーことは考えにくいでしょう
「ウェルテル」はゲーテの作品としてはけっこう短くて読みやすいし….。
ナポレオンもまた「ウェルテル」を愛読していて、この当時のエジプト遠征(1798)に持って行って繰り返し読んでいたそうです。ナポレオン、けっこうロマンチストなんだね。

ゲーテは基本的には理性を尊重する「古典主義者」でしたが「ウェルテル」はどう考えてもロマン的情感の極地のイメージ
ですよね。「ウェルテル」の頃のドイツはいわゆるシュトルムウントドランク(疾風怒濤)の時代でした。理性よりも感情の優越を主張するという文学運動です。もちろんこれが「ロマン主義」につながっていくことになるのだ。ゲーテやシラーがその先頭に立っていて、その中で発表された「ウェルテル」はその代表作になったのです。

ゲーテは1749年生まれだから、1756年生まれのモーツァルトより年上。音楽でいえばバリバリに古典派の時代の作家です。
皆さんはゲーテというとどうでしょう?やっぱり「若きウェルテルの悩み」とか「ファウスト」「ウィルヘルムマイスター」ですよね?ロマン派文学を切り拓いたみたいなイメージじゃないですか?

五月の歌Op52-4[ 1790年代半ば]ゲーテ

蚤の歌op75-3 [1790-92/1809]ゲーテ

では五月の歌からゲーテのテクストによる歌曲を聴いてみましょう。

興味深いのはやっぱりゲーテのファウストから取られた「蚤の歌」でしょう。酒場で悪魔メフィストフェレスが歌うコミカルで劇的な歌です。これこそまさに「スケルツォ」の精神そのものと言っていいでしょう。意地悪く皮肉で悪魔的な悪い冗談。すごい音楽です。

マーモットop52-7 [1790頃]ゲーテ


動物や虫を題材にした歌曲をもう一曲聴いて頂きます。
マーモットの詩はゲーテの戯曲「がらくた村の のみの市」から取られてます。
日本ではわかりやすくモルモットと言われることも多い曲ですけど、本当はマーモットというリス科の動物です。モルモットより大きいです。日本ではあまり馴染みのない動物です。
マーモットはけっこう頭が良くて教えると芸ができるので、ヨーロッパでは旅芸人が連れて歩いていたりしたようですね。
マーモットと旅する旅芸人の歌です。
マーモットを連れたさすらう旅芸人。哀愁に満ちてますね。こーゆー哀愁の感覚はシューベルト的とも言えるかもしれません。

アルプス・マーモット


アデライーデOp46[1795-6]マティソン


マティソンの詩による「アデライーデ」は初期のベートーヴェンを代表する名曲で、非常にポピュラーな作品です。ゲーテのテクストじゃないですけど、これは名作なのでこれも聴いておきましょう。

ではお願いします
上村先生、ひとみ登場
演奏
退場

シューベルトもこれに曲を付けている。シューベルトも素敵だけれど。ベートーヴェンの方がやっぱりキャッチーかな….
シューベルト「アデライーデ」D95

余談:フリードリヒ・フォン・マティソンによる作品

フリードリヒ・フォン・マティソン(1761-1831)はベートーヴェンより少し年上のドイツの詩人。シラーはマティソンの哀愁を帯びた甘さと風景描写の見事さを賞賛している。人気のある詩人だったようだが、今ではこの「アデライーデ」一作のみによって知られている。

フリードリヒ・フォン・マティソン(1761-1831)

ベートーヴェンはマティソンが好きだったのかどうか、
いくつかの詩に曲を付けている。

ベートーヴェン「ラウラに」WoO.112
ベートーヴェン「想い Andenken」WoO.136

「想い」は比較的よく取り上げられる作品ではないかと思う。
個人的にはマティソンの詩による作品のなかで最も印象的なのは「奉献歌」WoO121bだ。
これは傑作!これには独唱とピアノ版WoO126とソプラノ独唱と合唱・管弦楽のWoO121bがあって、特にWoO121bはめっちゃ感動的だ。ここまでくると歌曲というよりは宗教曲と言った方がいいかも….

奉献歌WoO126
奉献歌WoO121b


休憩

後半です

今日取り上げている時期(1798年頃)、ナポレオンは宿敵イギリスをやっつけるためにエジプトに遠征しました。この時まだナポレオンはイケイケだったですけれど、やっぱりどうしてもネルソン提督に敵わない。そしてまたフランス国内の政治的で面倒なあれこれに巻き込まれ始めていて、「若き天才的な軍人」としてだけではいられなくなってきていました。ちょっとずつ難しい状況になってきた頃です。世知辛いですねえ。

この時期のベートーヴェンはもっと難しい状況に見舞われ始めていました。難聴の症状が出始めたんです。聴力が減退し続けていました。ベートーヴェンはボンを離れる頃から腹部に慢性的な疾患があって辛い思いをしていましたが、難聴は音楽家として致命的な難聴は衝撃でした。非常に苦しい時期の始まりです。まだ演奏はできましたが、耳鳴りがひどくて他人の言葉が聞き取れず、人との会話が難しくなってきていました。彼はそれをひたすら隠そうとしていました。だからどんどん閉じこもりがちになって人と会わなくなり、無口になる。ただでさえ気難しい性格のに。更に気難しくなってしまった…ベートーヴェンはどんどん追い詰められて鬱状態になり、本気で自殺を考えるようになりました(ハイリゲンシュタットの遺書)。

ソナタ第7番ニ長調 op.10-3



このソナタもまた「悲愴ソナタ」と全く同時期の作品です。1798年。

前回聴いていただいた5番と6番のソナタと同様に、このソナタもまた合理化と経済性を重視して無駄を削ぎ落としていく方向で書いています。楽章の数はまた4楽章に戻って少し規模は大きくなってますけど、作曲の態度は同様です。わかりやすいところでは2楽章のラルゴが87小節と短く、3楽章がスケルツォではなく古風なメヌエットになったりってところは注目だと思います。前半に聴いた9番が室内楽的だとしたら、7番は明らかにオーケストラ的といっていいと思います。
このソナタは冒頭からとてもエネルギッシュですけれども、そーゆー意味ではとてもベートーヴェン的だと言えますが、そうした劇性が、ものすごく吟味されて切りつめられ、シンプルな要素で実現されているところが特徴なんです。だからこれはベートーヴェンの交響曲への重要なプロセスだと言えるのです。ベートーヴェンの交響曲といえば「運命」「英雄」「田園」「ベト7」「第九」などが思い浮かぶでしょうけれど、彼の交響曲の大きな特徴はまず動機労作による繊細で緻密な構造なんです。例えば「運命」交響曲はたったひとつの動機で組み上げた異常にストイックなものです。無駄を極限まで削ってゆく、ほとんど修行僧のようなストイックな創作です。ベートーヴェンは交響曲を超劇的にして規模もめっちゃ大きくしたんですけれども、それを実現するために彼がやったのは付け加えたり盛り込んだりすることではなく、逆に無駄を省いてゆくことだったのです。 では7番のソナタを聴いてみましょう。お願いします。

ひとみ登場
演奏
カーテンコール

よきところでアンコール、ピアノソナタOp49-2より第2楽章

余談:ナポレオンのエジプト遠征

ナポレオンがエジプトに遠征したのは、宿敵イギリスを牽制するためだった。オーストリアに勝ったので今度はイギリスをどうしても打ちやぶりたい。
もしやぶれなくても、大きなダメージは与えたい。

ナポレオンのエジプト遠征

当時のフランス海軍はネルソン提督率いる強力なイギリス海軍に全く歯が立たなかったので、イギリスの本土に上陸することができなかった。だからまずエジプトを狙ったのだ。植民地インドと行き来するためにエジプトを経由していたイギリスにとっては非常に重要な場所だったのだ。当時のエジプトはマムルークに支配されていたので、フランスは「マムルークからエジプトの人々を解放する」と言っていきなり侵攻したのだ。こんな風に何か口実を設けて侵攻するってことは今でも世界各地でやってますね。(ウクライナで迫害されているロシア系住民を救うとか言って、ロシアはウクライナに侵攻した。常套手段….)
フランスはすぐにマムルークを撃退してカイロに入城した。

ピラミッドの戦い

しかし、フランス軍兵士の略奪などでエジプトの人々の反感を買い、すぐに反乱が起こるようになった。解放者として感謝されるなどとゆーこともなく、フランス軍はエジプトにとっては単なる「迷惑な無法者集団」に過ぎなかった。その後のエジプトでの戦いは疫病の流行もあったり、砂漠の気候に悩まされたりしてかなりしんどいものになった。この時ナイルの海戦でネルソンの率いるイギリス海軍によって壊滅的打撃を受けたため、ナポレオンはしばらくエジプトに釘付けにされてしまう(帰る船が無くなり、地中海の制海権をイギリスに握られてパリからの補給もできなくなった)。
エジプトで多くのフランス兵が飢餓や疫病で死んだ。

ナイルの海戦(1798)

ちょうどこの当時に初演されたハイドンのミサ曲「ネルソン・ミサ」は傑作として名高い。

やっぱりネルソン提督、めっちゃ強いんだよなあ。
ナポレオンがどうしても勝てなかった隻眼・隻腕の勇者。

ネルソン提督

そんな中でナポレオンはひそかにフランスに帰ってしまう(フランスの総裁政府は無力で、大混乱になっていた。ナポレオンはこの機を逃したくなかった。政権を取るチャンス)。残されたフランス軍はイギリス&オスマントルコに降伏した。
ナポレオンがエジプトで言った「兵士諸君、このピラミッドの上から、4000年の歴史が君たちを見下ろしている」とゆー名言(ピラミッドの戦いのとき)はよく知られている。

リドリー・スコット監督の「ナポレオン」(2023)でもエジプト遠征のシーンは見せ場になっている。
確かに雄大なんだよなあ…


確かにロマン溢れる遠征だったし、一応勝って占領したけれど、全体としてはいまいちパッとしない遠征だったと言える。
でも、ここでナポレオンが引っ掻き回したことがきっかけになってエジプトにも「民族意識・ナショナリズム」が芽生え、エジプトは近代国家の方向に動くことになる。それが最終的には1922年のエジプト独立につながっていくのだ。
ナショナリズムの種を落としていく代わりに、大きな災厄をもたらす…それがナポレオンの定番….ナポレオンはこの時167名の科学者や建築技術者からなる学術調査団を同行させた。この時の調査や研究の成果は学問的に大きな成果だった。研究が進んだのはいいことだろうけれども….この時にフランスが持ち帰ったロゼッタストーンなどのエジプトの文化財はヨーロッパの博物館にあったりする。近年はそれらの文化遺産の返還運動がエジプトの考古学者を中心に起ったりもしている。
うーん難しい(-_-;)
研究と調査そのものは本当に意義あることだったんだけれど….

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?