山田耕筰ピアノチクルスVI 江文也
2022/12/03長野市竹風堂大門ホール
ピアノ・腰原菜央
フルート・中村音舞
メゾソプラノ・加藤文絵
今日は山田耕筰のチクルスの6回め、最終回になります。今日は江文也(こう・ぶんや)という皆様には耳慣れない名前の作曲家の曲を中心に聴いて頂きますが、それでもこれはやっぱり山田耕筰チクルスなんです。山田耕筰の生きた時代をより多角的に感じて頂きたいと思って山田耕筰の教え子の江文也をあえて取り上げました。江文也は日本の支配下の台湾で生まれ、日本で育ち、中国で亡くなりました。彼は戦争の時代を生き、日本・中国・台湾という三つの国の間で翻弄され続け、途方もない苦難を強いられた音楽家です。
生い立ち
江文也(こう・ぶんや)は1910年に日本の統治下の台湾の台北・三芝郷(三芝区さん しーく)で生まれました。李登輝と同じ出身地です。本名は江文彬(こう・ぶんひん)。彼はもちろん台湾人なのですが、日本の植民地ですから日本国籍を有する日本人でした(江文也は芸名です。結局使わなかったようですが一応上田耕文という日本名も持っていました)。彼は1923年に母を亡くし、その年のうちに日本に内地留学しました(関東大震災の年です)。父親の江長生は貿易商を営んでいました。父親は長男を内地留学をさせることを決めていました。母親の死をきっかけに、この際長男と一緒に次男の文彬も留学させることにしたのです。親しくしていた山崎夫妻の旦那さんがこの時期に亡くなって、奥さんの山崎あきさんが日本に帰ることになったので、この山崎あきさん(山崎のおばさん)のところに息子たちを寄宿させることにしたのです。この「山崎のおばさん」の実家が上田市だったんですね。文彬はこのとき13歳。まだまだ子供です。山崎のおばさんに連れられて文彬と兄は上田にやってきました。兄弟は日本語も話せません。どんなに心細かったでしょう。
上田の美しい風景は文彬の心に決定的な印象を残し、彼は多感な少年時代に心に染み込んだ上田の美しい風景を終生大事にして懐かしむようになるんです。
上田耕文という日本名も「上田の江文也」ということですよね。文也の上田愛がよく表れています。
太郎山や千曲川の思い出...
そう、上田こそが彼の心の中の故郷の原風景なんです。
文彬は上田市立南尋常小学校に入学します。まだ日本語が不自由なので本来の学年より下の小学6年生に編入しました(一応台湾で日本語は習っていたようですが…)。
南尋常小学校は再編やら統合の歴史が複雑で難しいんですが、現在の清明小学校だということでいいんだろうと思います。
台湾からきた文彬はみんなから「ビンちゃん」と呼ばれていました。文彬は台湾では阿彬(アービン)という愛称で呼ばれていたので上田では「ビンちゃん」になったのかもしれません。ビンちゃんは学校に一台しかないピアノを弾くことを特別に許可されていました。日本語がまだ不自由なので無口でしたが、けっこう目立つ存在だったわけです。ビンちゃんはピアノも弾いたしいろんな楽器が弾けました。でもいちばん好きなのは「歌うこと」でした。彼はメアリー・スカットという宣教師が主宰していた梅花幼稚園(上田メソジスト教会の付属施設。梅花幼稚園は今でもあります。)で開催されていたキリスト教の日曜学校に通っていました。
ちなみに「阿」は接頭辞で親しみの表現。「~ちゃん」といった意味になる。だから阿彬(アーヒン)→ビンちゃんになるのだ。
例えば魯迅の「阿Q正伝」の阿Qは、Qちゃんってことになる。つまり「Qちゃん物語」(^◇^;)
彼は県立上田中学(上田高校)に進学しました。
日曜学校では当時まだ高額だったレコードのコンサートを行ったりして、音楽やハイカラなものが好きな上田中学、上田高女(今の染谷高校)、上田蚕糸(現・信大繊維学部)の文化好きな若者が集まっている文化サロンのような場所だったんです。ここで文彬はたくさんの音楽に触れました。メアリー先生は親元を離れて留学生活を送る文彬のことを母親のようにいろいろと心配して親切にしてくれたそうです。彼女は文彬の音楽の才能もよく理解し気にかけて、経済的にも援助してくれました(この当時、彼の父親の会社は昭和金融恐慌に巻き込まれて苦しい状況にあったのです)。文彬も先生のことを心から尊敬し、慕っていました。母親を亡くしていた文也にとってメアリー先生は母のような存在だったといえるでしょう(兄は台湾に戻ってしまって、文彬は上田にひとりで残りました)。文彬は彼女と日常的に接していたので、英語も話すことが出来ました。当時の建物は幼稚園に隣接した旧宣教師館が移築されて今も残されています。
こうした環境で育ったことも師匠の山田耕筰によく似ています。若い頃の山田耕筰も教会が常に身近にあり、外国人がいつも身近に居ました(耕筰の場合は義兄が外国人です)
母親を早く亡くした点でも文彬は山田耕筰と似ています。そして女性関係が派手な点も似てます(山田耕筰と同様に母恋いしの気持ちが強くて、それが後年の派手な女性関係に繋がったのかもしれないですね)。文彬も派手な不倫を経験してます。ついでに言えば金銭感覚がルーズなところも山田耕筰にちょっと似てるかもしれません。
上田時代には恋もしました。
初恋のお相手は上田宿の問屋・瀧澤家の長女・乃ぶさんです。瀧澤家は真田公の時代から続く上田の名家です。文彬と乃ぶさんはお互いにずっと思い続けて昭和8年に結婚しました。初恋の相手とゴールインしたんですね。素晴らしい🔔(乃ぶさんは、1934年に家出して文也との結婚に踏み切りました。ほぼ駆け落ちです。すごいでしょう?実際、彼女は平塚らいてうに憧れる「新しい女性」でした。青踏の時代)もちろんこの結婚に乃ぶさんのお父さんは大反対でした。乃ぶさんには婿を取って家を継いでもらわなきゃいけない。それなのに、チャラチャラした歌手と結婚したいなど許せん。しかもそれがこともあろうに「台湾人」とは!許さん!とゆーことですね。台湾も日本なんですから文彬も正真正銘の日本人なんですけど、世間一般の人はそう見ません。日本国籍を持っていてもやっぱり台湾人は台湾人、朝鮮人は朝鮮人。法律上は一応同じ日本人になっていても、被支配者である彼らを一段低く見る傾向が強かった。そこには厳然として「差別」 や「区別」が存在しました。文彬も日本国籍を持った日本人ですが、同時代の多くの台湾人や朝鮮人と同じように「二等国民」という現実から逃れることはできなかったでしょう。
今だって「差別」は根強く残っていますよね....
文彬は上田中学を卒業すると東京の武蔵高等工業学校(現・東京都市大学)に進学しました。音楽の学校じゃなかったんですね。この時期の彼の日記は歌の練習のことばかり書かれているそうです(あとは愛する乃ぶさん♡のことばかり)。歌と恋に夢中でした。彼は工業学校に通いながら東京音楽学校のお茶の水分校(夜間部)にも通って音楽の勉強もしました。文彬は山田耕筰のもとで学ぶようになりました。山田耕筰も文彬のことをよく面倒をみて、時にはバイトも紹介してやったりしていたようです。
そんな東京の生活でしたが、文彬は休みになると上田に帰って地元の友人たちと上田の自然を満喫し、冬には菅平でスキーを楽しみました。
歌手・江文也
文彬は東京で合唱団に入り、そこでソロのパートを任されるようになります。そうやっているうちに文也はいつの間にか歌手として音楽界から注目されるようになっていきました。コンクールも受けて入賞します。コロムビアレコードのテストにも合格し、歌手としてコロムビアと専属契約を結ぶことになりました。昭和6年(1931)のことです。満州事変の年。この頃から日本は戦争の泥沼に更に深く足を踏み入れていくことになるわけです。
彼の最初の録音は山田耕筰作曲の「肉弾三勇士の歌」でした。バックの楽団も山田耕筰が指揮しました。師弟共演のレコードということになりますね。彼はまず声楽家としてキャリアをスタートさせたんです。ここから「江文也」という芸名で活動することになりました。文彬よりも文也の方が覚えてもらいやすいだろうということだったようです。
声楽からスタートしたあたりは師匠の山田耕筰と共通したところがあります。
山田耕筰も作曲ではなく声楽の勉強から始めて、声楽のリサイタルも開催したほどでした。そうそう、山田耕筰独唱の録音が残っています。昭和8年制作の関西学院大学校歌 実にいい声です。
余談:肉弾三勇士の歌、空は青雲
肉弾三勇士の歌の三勇士とは、上海事変中の1932年(昭和7年)、敵陣の鉄条網を突破するため、爆弾を抱えて突入して爆死した日本陸軍の工兵3名のことです。神風特攻隊に近いですね。この3名は当時「英雄」「軍神」として称賛され、歌も多く作られました。上海事変は日本による帝国主義的な軍事行動です(満州事変から世界の目を逸らす狙いがありました)。日本に支配されている台湾人の文也が、「日本人として」このような歌を歌うという皮肉...。なお、当時の山田耕筰はとんでもない軍国おじさんでした(-_-;)
こうした音楽の録音に台湾人である江文也が起用されたのは、もちろんプロパガンダ的な思惑もあったでしょう(台湾人が日本の中国進出を讃美する作品を高らかに歌う….大大東亜共和圏万歳!)。文也は終戦までこうしたプロパガンダに利用され続け、それが戦後の文也の生活にも影を落としていくことになる
北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「空は青雲(あおぐも)」も江文也が歌っている。これもバックは山田耕筰の指揮。これは大日本連合青年団のために書かれた歌。ちょっと聴いた感じは軍国主義と関係ないようにも思えるが、この団体は後に翼賛体制を支えることになる政府肝入りの筋金入りの軍国翼賛団体。
以上の二つの録音では文也はコーラスをリードする格好で歌っていてソロの歌声はよく聴こえない。
余談:文也の歌声
しかし、以下のリンクでは文也のソロがしっかり聴ける。
めっちゃいい声だ!
明るく力強いハイ・バリトン
満州の歌
東京音楽学校選科作曲科へ
江文也は歌の仕事をしながら山田耕筰のもとで作曲の勉強をし、昭和8年(1933)には東京音楽学校選科作曲科に入りました。ドイツで最先端の音楽を学んで帰国したばかりの橋本國彦が教えていたので、彼はどうしても橋下先生からヨーロッパの新しい音楽を吸収したかったのです。橋本はアルバン・ベルクの「ヴォツェック」の上演に接したり、シェーンベルクのレッスンを受けたりしているので、リヒャルト・シュトラウスやスクリャービンに影響を受けた山田耕筰より新しい音楽を身につけていました。
当時の文也は学校でショパンをそれこそガンガンに弾きまくっていたそうです。ピアノもめちゃくちゃ上手かったんですね。学校のピアノの試験では軍隊ポロネーズを弾いたりしたようです。
文也は歌手としても多忙で、昭和9年(1934)には藤原歌劇団の「ボエーム」にマルチェロ役で出演
NHKで放送された「タンホイザー」にもヴォルフラム役で出演しました。
文也の大活躍は台湾でも大きく報じられ、「ボエーム」の公演には日本にいた台湾人(経済人や留学生など)が大挙して詰めかけたそうです。
これを受けて台湾の経済界の有志が協力して「郷土訪問音楽団」を結成。台北をはじめとする台湾の7都市で文也のコンサートが開催されました。公演は大成功でした。彼はこの演奏旅行中に台湾各地の民謡や伝統音楽を採集しています。
仕事は順調で多忙だったが文也は金遣いも荒かった。奥さんの乃ぶさんはやりくりが大変だったらしい。困ったときは家出した時に実家から持ってきたアクセサリーなどを売ったりもした。でも文也はいい仕立ての高級な洋服を身につけ、レコードや輸入楽譜や五線紙などを惜しげもなく買いまくる。当時の五線紙は結構高かったのだが、文也はせっかく買った五線紙を金のない作曲家友達にどんどん分けてしまう…。周りの友人たちは助かっただろうが、奥さんは困っただろうなあ(-_-;)
作曲家・江文也
文也は歌手活動をしながらどんどん作曲にのめり込んでいきました。彼はこう言ってます
「自分は偶然のように歌手になったが、すぐに歌手としての自分に軽蔑を感じ作曲に向かって自己模索を開始し、最初に手をつけたのが台湾舞曲です」
次にその台湾舞曲を聴いていただきます。
江文也:台湾舞曲 Op.1
台湾舞曲は1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック芸術競技音楽部門に出品され、選外佳作としてメダルが贈られました(4位入賞みたいな感じですかね)。江文也の出世作であり代表作です。ドイツでもレコードが発売されました。
これは管弦楽曲「南の嶋に拠る交響的素描」の第2曲「城内の夜」を改変した作品です。オーケストラの曲ですが、今日はピアノ独奏版で聴いていただきます(連弾版もあるようだ)。ピアノ版もよく取り上げられます。オケのヴァージョンよりもピアノ版の方が聴く機会は多いんじゃないかと思います。
文也は出版された台湾舞曲のオーケストラのスコアに台湾の演奏旅行中に自身が書いた詩を載せています(文也は詩人でもありました。詩集も出版しています)。
『....私はそこに華麗を尽くした殿堂を見た。荘厳を極めた楼閣を見た。深い森に囲まれた演芸場や祖廟を見た。しかし、これらのものはもう終りを告げた。これらはみな霊となって微妙なる空間に融け込んで幻想が消え失せるように、神と子の寵愛をほしいままに一身に集めたこれらは、抜け殻のように闇に浮かんでいた。ああ、私はそこに引き潮に残る二ツ三ツの泡沫のある風景を見た』
ここで注目したいのは彼が見たという「華麗を尽くした殿堂」や「荘厳を極めた楼閣」が
既に終わりを告げたもののイメージであることです。
そしてそれらは「みな霊となって微妙なる空間に融け込んで・抜け殻のように闇に浮かんでいる」のです。
13歳で台湾を離れて信州・上田で育った文也にとって、ぼんやりとしか覚えていない台湾よりも上田の方が故郷の情景としてリアルな実感がありました。久しぶりに戻った台湾で故郷のイメージを探そうとしてもそれは幻影のように淡く儚いものだったのでしょう。そして国家としての台湾も日本に支配されて失われていたのです。彼にとっての故郷・台湾は国家としても故郷としても、もはや「抜け殻」のようだったということなんでしょうね。文也自身のアイデンティティも同様です。
一応日本国籍を持っているれども、やっぱりどこに行っても結局台湾人である自分。故郷のように思う上田もやっぱり本当の故郷ではないわけです。そしていざ台湾に帰ってみても、そこは日本の植民地に過ぎない。日本でもなければ台湾でもない宙吊りな状況の場所。台湾も文也も、アイデンティティの基盤が脆くて儚いのです。日本政府はそこを「皇国史観」による同化政策で埋めようとしますが(台湾も韓国も満州も日本も等しくみな天皇の赤子なのだ!…と)、でもそれはやっぱり無理がありました。
台湾舞曲は全体的には生命力に満ち溢れて、賑やかで楽しげに聞こえます。しかし、この作品はいつもどこか儚げで哀しげな風情があります。どんなに盛り上がってもその旋律もリズムもハーモニーもいつの間にか幻影のように「微妙な空間に融けこんでしまう」のです。
台湾舞曲は文也にとって「もう終わりを告げた」祖国を自分の音楽の中に呼び戻す最初の試みでした。これ以降、文也はアイデンティティを呼び戻す試みを続けていくことになるのです。
文也は作曲コンクールに幾度か挑戦しましたが2位以上には行けませんでした。彼は自分が「台湾人」で「二等国民だから」評価されないのだと思っていたようです。コンクールの選考で実際どうだったかはわかりませんが、生活の端々で日本人から無意識的に、時には意識的に細々と浴びせかけられる差別感情に常に晒され続けていたことは確実です。彼がそういった疑心暗鬼に陥ったとしても不思議はないでしょう。
ところで、台湾舞曲の外国語のタイトルは"Formosa Dance"です。台湾の国際的な呼称はタイワンTaiwanですが、 かつてはフォルモサFormosaと呼ばれてました。ポルトガル語です。16世紀半ばに台湾海峡を通過したポルトガル人が台湾を見て「 なんて美しい島[イラ・フォルモサ]!」と叫んだことからそう言われるようになったそうです。実際、台湾は自然に恵まれた途方もなく美しい島です 。
台湾のドキュメンタリー映画「天空からの招待状」(2013年、監督・チー・ポーリン、製作・ホウ・シャオシェン)を観ると、台湾のとんでもない美しさとその豊穣で多彩な自然環境がよくわかる。素晴らしい作品。ぜひ!
では台湾舞曲をお願いします。
江文也:生蕃四歌曲集
次の生蕃四歌曲集は台湾舞曲とほとんど同じ時期の作品。文也はこの曲をレコード会社との契約を打ち切って没頭して作曲しました。歌手はやめて作曲一本でやって行くぞ!と退路を断って臨んだんです。この作品は東京・アメリカ、フランスで出版されてパリやニューヨークなどでも演奏されました。彼はこの作品をロシアの名歌手シャリアピンの前でも歌って称賛されたそうです。先ほど聴いていただいた台湾舞曲とこれから聴く生蕃四歌曲集の二曲が文也の代表作と言っていいでしょう。生蕃四歌曲集について文也は以下のように書いています
『これは台湾の生蕃に取材したというよりも、作曲者自身の幻想の世界であると言った方が適当であるかもしれない。歌詞は一定の意味を持たず、人間の感情を直接に表現した一種のかけ聲のようなものである。従って伴奏部と肉聲部とが一緒になって初めて一つの音詩を形成する』
文也はここでもまた台湾舞曲と同様に「幻想」という言葉を使っています。幻想と言いながらも文也は先住民族の特徴的なリズムや節回しも作品にしっかり取り入れています。歌詞は実際の先住民の言葉ではなく文也が作った架空の言葉で、全てローマ字で書かれています。
「生蕃」というのは台湾の先住民族のことです。当時の日本人は彼らのことをこう呼んだんですね「野蛮人」みたいな差別的な呼び方です。この生蕃歌曲集は最初に首狩があるので、首狩をするタイヤル族を念頭に置いて書いているのでしょう。
余談:台湾の先住民族
台湾の先住民族たちは山岳地帯に住んで、自然と密着した生活をしていました。狩猟、農業、山の幸の採集などで生活していた。そのライフスタイルや風俗はアイヌ民族とかなり似ている。(服装、刺青の習慣や踊りも似てます。楽器もアイヌのムックリとほとんど同じ格好の口琴を使う。
そうそう、アイヌにもタイヤル族にも刺青の風習があるが、沖縄の女性にも入れ墨-ハチジ-の習慣がありました。沖縄と台湾ってめっちゃ近いんです(沖縄の与那国と台湾は、長野から木曽くらいの距離。海を隔ているが距離的にはほぼ県内の感覚。近い!)
タイヤル族の男たちは太平洋戦争で「高砂義勇隊」として日本軍と一緒に南洋のジャングルで戦った。非常に勇敢で強い部隊だった。山岳地帯で生活してきた彼らにとってジャングルでのゲリラ戦はもともとお手のも(それを更に陸軍中野学校の上官たちが徹底的に鍛え上げたのだから、凄い!)。ジャングルの中を裸足でものすごいスピードで移動し、音もなく敵に近づいて蕃刀でいきなり首を狩ってしまう(襲われた方は叫び声もなく絶命する。異常に静かな奇襲)。米軍は彼らのゲリラ攻撃に震え上がり、首狩りの恐怖で精神的にもかなり追い詰められた。その彼らの運動能力も首狩りも米兵たちの理解を大きく越えていた。
高砂義勇隊は特に南洋の戦場では大活躍だった。彼らはジャングルでのゲリラ戦に強かったので日本に大きく貢献した。戦闘でもジャングルの中での食糧の収集でも、彼らの働きで命を救われた日本兵も多かっただろう。
戦時中にはこんな歌も作られた(大東亜共栄圏の理想を讃えるプロパガンダソング)
しかし、れっきとした日本軍の兵士だった彼らや遺族に日本政府はいまだに戦後の補償をちゃんとしていない。敗戦で台湾から撤退してうやむやのまま放置。もちろん日本人の兵士やその遺族にはちゃんと補償しているのに...台湾人は放置。おかしいでしょ?
だって、彼らは命懸けで日本のために戦った日本人だった。それを放ったらかしにしている日本....
ではお願いします。
「ばらの花に心をこめて」
では前半の最後に山田耕筰の歌曲「ばらの花に心をこめて」を聴いていただきます。山田耕筰が生前に書いた最後の作品です。1959年に書かれました。非常に宗教的な作品です。後期の山田耕筰の作品は自分の宗教であるキリスト教の音楽、彼の音楽的原点に回帰していくような作風に変化してゆきました。戦後の彼は戦争責任を厳しく追求されました。耕作は自分の責任を認めるような発言はしませんでしたが、終戦後は平和を祈るような曲を書くようになります。耕筰の変わり身の早さを非難する人も多いです。でも、変わらないよりは何万倍もマシです。もちろんそれで山田耕筰の戦時中の発言や行動が免罪されるわけではありません。でも「ばらの花に心をこめて」が素晴らしい作品であることも変わりません。この音楽の中に込められた祈りは本物だと思います。感動的な音楽です。ちなみにこの曲が作曲された頃、江文也は中国共産党の反右派闘争で右派分子と決めつけられて留置され取り調べを受け、音楽雑誌で漢奸(人民の敵・裏切り者)だとして吊し上げを食らい、ダムの工事の重労働をさせられたりしていました(思想改造のための強制労働です)。ものすごい逆境にあったんです。蒋介石の国民党からも、毛沢東の共産党からも人民の敵だと言われ、もう日本国籍もない。いったい彼の居場所はどこなんでしょうね。
ではちょうどその頃に書かれた山田耕筰の最後の歌曲「ばらの花に心をこめて」を聴いてみましょう。山田耕筰の生前最後の歌曲です。
休憩。
さて、後半です。
江文也に戻りましょう。
江文也:五首素描(スケッチ五曲)Op.4
まず聴いていただくのは五つのスケッチです。1934〜5年の作品。
小品のタイトルは以下の通り、
1,山田の中の一本足の案山子
2お背戸に出て見れば
3焚火を囲んで 4裏町にて 5満帆だ
の5曲です。
歌手よりも作曲家として自立したいという気持ちが高まっていた頃の作品です。当時の文也は来日していたロシア出身の作曲家アレクサンドル・チェレプニンにその才能を認められてピアノ曲をたくさん作ってます。文也は来日したチェレプニンのレッスンを受けることになります。ゴジラで有名な伊福部昭もチェレプニンの指導を受けた日本人のひとりです。伊福部昭と江文也は兄弟弟子になります。黒澤明の映画音楽で有名な早坂文雄もこの時期にチェレプニンの指導を受けています。
チェレプニンは伊福部に、
「ナショナルである事こそがインターナショナルである」
と指導しました。
時代はちょうどバルトークやコダーイの円熟期の頃です。
チェレプニンは、ヨーロッパで活動することを夢見ていた文也の興味を中国の文化の方に向けさせました。
自分の血(漢民族の血)の中にあるものを大切にしなさい、と言い聞かせたのです。
チェレプニンは中国の音楽に強く魅せられていましたから、その言葉もさぞかし力強く響いたことでしょう。文也の思いはヨーロッパと中国の間で揺れ動くようになります。
ではそんな頃に書かれたスケッチを聴いていただきましょう。これは最初は「千曲川のスケッチ」というタイトルでした。島崎藤村にも同じタイトルの有名な作品がありますね。お読みになられた方も多いでしょう。
文也はこの作品について
「 千曲川のほとりで過ごした中学生活の思い出のために作曲した。曲は深刻なものを何も要求しない。ただ中学生の無骨で粗野でセンチメンタルな世界を描きたかった」
と言ってます。
千曲川の風物からインスピレーションを受けた5曲が並んでます。バルトークやドビュッシーの影響が強く感じられます。。文也はバルトークに心惹かれていて、論文(1935年の「ベラ・バルトック」)まで書いています。
文也はバルトークについて以下のように書いている。
凄い文章!
「バルトックの音楽が持つ野性は、感覚上のノスタルヂヤ或は何か理論上のかけひきからではなくて、その心性が、あまりに純粋で直裁で、本能的であるからである。それは超文明、越洗練等から出発した粗野性とは種類が違ふ。
この強烈な野人的本能と原始的に鋭敏な直感を持つ上に、薄気味悪いまで透徹した冷たい理智の閃きを私は見逃すことが出来ない。
だから恐ろしいのである。」
(フィルハーモニー1935年12月号)
バルトークの恐ろしさ。
「薄気味悪いまで透徹した冷たい理智の閃き」
余談:千曲川と5つのスケッチから考える
1曲目の「山田の案山子(かかし)」は、山の田んぼのかかしってことだろうが、上田には稲倉の棚田のような見事な棚田もあって、そこでは案山子まつりも行われていたりする。
2曲目の「お背戸(せど)に出て見れば」の背戸(せど)は
家の裏口とか勝手口、家の裏手という意味。自分の家の裏口をイメージして書いたのかもしれないが…
ここからは100%私見。
確証は全くないので悪しからず。
北畠白秋作詞 中山晋平作曲の「里ごころ」という童謡に
「お背戸(せど)に出て見れば」という一節が出てくる。「里ごころ」の歌詞は以下の通り。
笛や太鼓に さそわれて / 山の祭に 来て見たが
日暮はいやいや 里恋し / 風吹きゃ木の葉の 音ばかり
かあさま恋しと 泣いたれば / どうでもねんねよ おとまりよ
しくしくお背戸(せど)に出て見れば / 空には寒いあかね雲
この童謡は1922年の作品なので、文也が知っていても不思議はない。音楽の内容も白秋の詩を思わせる。最初はお祭りの感じがあるし、ひゅっと風が吹くような部分もある。中盤以降寂しげになっていくのも詩の通り。完全に一致してるように思うんだけど、どうだろう….もしそうだとすると、これは母恋いと郷愁の音楽ってことになるんだけど….
3曲目の「焚き火を囲んで」は、どんど焼きの印象かもしれないですね。千曲川の河川敷は広いからどんど焼きやるんですよね。やっぱり千曲川で印象に残るような焚き火と言ったらどんど焼きじゃないかな….
4曲めの「裏町にて」は、どうだろう。
上田で裏町というと….
文也は上田高校・声明小学校・梅花幼稚園あたりをうろうろして育ったので、まあ、たぶん袋町だとか(海野町の北、じまん焼きから日晶亭本店あたりのエリア)、
当時は本町の電気館(映画館です)も既に営業していたから(1921年〜)、上田高校の学生だった文也はここら辺も当然テリトリーだっただろう。袋町も本町も概ね徒歩10分圏内。文也は典型的な上田の町っ子だったから、文也にとっての裏町ってのは袋町とか本町のあたりをイメージすればいいのかなとおれは思う。
#1919年の上田市の祝賀行事の超貴重な動画を早稲田大学の高松先生のFBで見ることができる。
文也が来た頃の上田の街並みはこんな感じだったんだな…。
5曲目の「満帆だ」は千曲川を運行する川船の様子じゃなかろうか。江戸時代の寛政2年(1790)年から昭和初期までは飯山から上田までの区間を、日本海の魚や塩、米、肥料などの荷物や人を輸送していた。千曲川通船。藤村の「千曲川のスケッチ」にもこの千曲川通船の様子が書かれている。鉄道の発達とともに千曲川通船は衰退して行くが、大雪になると北信濃は鉄道も道路も雪に埋もれて通行不能になってしまうことも多いが、川は雪に埋もれないし凍結もしない。大雪の時の輸送を確保するという意味もあって、千曲川通船は昭和24年まで残されていた。
千曲川の川風はかなり強いので、川船の帆もいい感じに風を孕んで勢いよく走ったんじゃないかな。
文也はその様子をよく知っていただろう。
「文也は1936年上海の音楽学校の講堂で5曲めの「満帆」を自演している(同じ時に師のチェレプニンの伴奏で生蕃四歌曲も独唱しています)。
林光:「赤とんぼ変奏曲」山田耕筰の主題による
ここからはフルートを聴きましょう。山田耕筰の「赤とんぼ」は名作ですからいろんな編曲が存在します。中でも有名なのが林光さんが書いたフルートとピアノのための変奏曲です。すごくいいアレンジでこれは本当によく演奏されます。林さんは日本の旋律を使った変奏曲を他にも作ってます「宵待草変奏曲」「花 変奏曲」「七つの子変奏曲」ですね。この日本の歌を主題としたフルートとピアノのための変奏曲のシリーズは日本のフルーティストの重要なレパートリーになっています。
山田耕筰「この道」を主題とせる変奏曲
山田耕筰は自分でも「この道」を主題にした変奏曲を書きました。山田耕筰唯一のフルート作品です。これもよく演奏されます。では二つの変奏曲を聴いていただきましょう。
ではお願いします。
音舞、菜央入場
演奏
音舞、菜央退場
江文也:祭典奏鳴曲 Op.17
次は1937年に書かれた祭典奏鳴曲です。奏鳴曲というのはソナタのことです。だから祭典ソナタってことですね。お祭りソナタ。文也が青春期を過ごした信州・上田の祭り囃子などに着想を得たと言われてます。上田の題材を使っているという点では「5つのスケッチ」と同様です。ゆっくりな楽章は雅楽的な感じもありますね。そして中華風な感じも全体にあって独特です。この作品の楽譜はチェレプニンコレクションの一環として欧米でも発売されました。
中国へ
「新民会」
このソナタの頃中国の師範大学から作曲の依頼があった。北京政府の要人たちで組織される「新民会」の歌を、作曲して欲しいというもの。この会は日本寄りの翼賛会的な宣伝組織で、文化や芸術を日中親善のプロパガンダに利用していた。これは事実上、中華民国臨時政府(日本の傀儡政府)の「国歌」だった。。「新民会」は作曲とともに北京の発表会場(北京中央公園)で大ブラスバンドの指揮もして欲しいといってきた。しかもこの模様は北京放送局によって中国全土に放送されるという。非常に大きなプロパガンダ・イベントだが、派手好みだった文也にはうれしい仕事だっただろう。文也は「臨時政府の国歌」の後も「新民会」のために何曲も作曲することになる
「北京師範学校」
文也はこのイベントの年・1938年から日本の軍部の要請を受けて北京師範学校の教授に就任しました。北京と日本を往復しながらの二重生活が始まります。普段は北京で生活して学校で教え、日本に帰るとプロパガンダ映画の音楽の仕事をしてまた北京に帰るというような生活です。日本の支配下だった当時の北京は事実上「日本」でした。北京に赴任したばかりの頃の文也は簡単な北京語を少し話せるくらいで授業は日本語で行っていました(台湾語と北京語は違います)。北京は日本の支配下ですから日本語もいけたでしょう。北京では師範学校の他に放送局の合唱団の指揮も任されるなど、文也は多忙でした。
余談:白光
文也は中国でも歌手として活動していてレコードを出している。↓は文也の中国語による歌唱。素晴らしい歌声!
↑でデュエットしている白光という歌手(女優)は文也の教え子で恋人だった(二人は同居していたという証言もある)。白光は文也のことを「生涯で最も慕い、崇拝する男性」だとマスコミの前で明言している。文也の日記にも白光への思いが綴られているそうだ)文也は女性にモテたので、こんな色恋沙汰もよくあったらしい。
ちなみに白光のソロの歌声はこんな感じ
白光は大スターの李香蘭(満州)と奥山彩子(日本)と3人で興亜三人娘とゆーアイドルグループを組まされて同名の「興亜三人娘」とゆー大東亜共栄圏万歳なプロパガンダソングをリリースした。この当時のミュージシャンは大なり小なり国策プロパガンダに協力しないわけにはいかなかった….
中国の妻
文也は指揮をしていた放送局の合唱団の美しい女性・呉韻真という19歳の女性と愛し合うようになります。彼女は満州国育ちなので日本語ができた。文也とは日本語で会話していたでしょう。もちろんこのとき文也には乃ぶさんとゆー妻があったから、100%不倫です。しかも乃ぶさんは妊娠中。
そして文也は乃ぶさんとの婚姻関係をうやむやにしたまま呉韻真と事実婚状態に突入してしまう。子供もできちゃう。文也には日本の家族と北京の二つの家族があったんです。まさに二重生活。戦中戦後の複雑で混乱した日中関係の中だからこそ生み出された状況です。当時はこのようなことも決して珍しいことでもなかったようだ。時代が生んだ悲劇ですね。いや、もちろん文也のモラルの問題ではあるんですけど…
漢奸狩・反右派闘争・文化大革命
1945年・終戦になると状況は一変します。文也はいきなり教授を解任されてしまう。日本が撤退して日本国籍も失います。だから日本にも行けなくなります。職を失った文也は小さな炭鉱の責任者として働いたりもしました。日本が負けると、蒋介石の国民党は在北京の多くの台湾人を漢奸罪で逮捕しました、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なして白昼の公開処刑の場で容赦なく銃殺しました。文也も1946年に逮捕されてしまいます。彼は命は助かりましたが1947年に釈放されるまでの約10ヶ月を牢獄で過ごしました。
余談・李香蘭
この頃、大スターの李香蘭も国民党に捕まった。彼女は裁判で日本人であることが証明されたため投獄は免れ、国外追放処分になった。白光も捕まった。彼女たちは有名人で日本のプロパガンダにたくさん関わっていたから、国民党の追及からは逃げられない。
文也も日本の傀儡政府の国歌を書いたり、日本の思惑に沿った国策プロパガンダ映画の音楽を作曲したりしていましたから、李香蘭や白光と同じように狙われてしまいます。しかも日本で長く暮らしていたし…
出獄後、文也は北京に戻り、しばらくの間は落ち着いた生活を送ることができたのですが、ちょうどこの時期から国共内戦が激化します。蒋介石は1948年に台湾に撤退。1949年に毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言。これで文也の運命はまたしても大きく変わってしまう。中国では「反右派闘争」が始まってしまったのです。国民党に引き続き、今度は共産党からも反共の右派分子・漢奸だとして糾弾されることになりました。
そして1966年にはついに恐怖の文化大革命が勃発。文也は丸刈りにされ毛沢東への謝罪を強要され、貴重な楽譜や手稿、レコードなども全て奪われてしまいます。1970年には労働による思想改造を目的とした労働改造所に送られて、過酷な肉体労働に従事させられることになりました。文也はここでの無理な労働が原因で(この時文也はもう還暦でした)身体を壊してしまうのです。この文化革命の間、日本では文也の生死すら分かりませんでした。この間迫害を受けていた文也はタバコの空箱や小さな紙片に日本語で俳句や詩を書きつけることで気を紛らわせていたそうです。右派分子の認定が取り消されたのはようやく1978年のことでした。ほとんど1980
年、ホントに最近です。これでやっと静かな暮らしができるようになるはずでしたが長年の苦難でもう文也の身体はボロボロでした。
日本人では二等国民と差別され、終戦を境に今度は台湾・中国からも裏切り者と糾弾される。
いったいどこが彼の居場所なのか…
文也の存在は完全に忘れ去られていましたが、1981年頃から突如として文也の作品が見直され始めました。楽譜が出版され、研究が始まり、演奏会やラジオでも作品が取り上げられるようになります。しかしその時にはもう文也は半身不随でほぼ寝たきりの状態でした。文也はラジオで放送される自分の作品を聴いてただ泣いていたそうです。1983年、文也は亡くなりました。日本・台湾・中国の三つの国の間に宙吊りにされ、翻弄され引き裂かれ続けた悲劇的で数奇な生涯でした。
では、江文也の祭典奏鳴曲をお願いします。
文也が愛した信州・上田の美しい思い出….
余談・アレクサンドル・チェレプニン
アレクサンドル・チェレプニンは日本の音楽史を語る上で恩人とも言うべき非常に重要な存在だ。彼は1899年にサンクトペテルブルクに生まれました(ロシア革命で一家はパリに亡命)。父のニコライ・チェレプニンはロシアの音楽家ニコライ・チェレプニン。父の元で音楽を学び始める。ニコライはバレエ・リュスの中枢の指揮者・作曲家でもあったため、バレエ・リュス関係の音楽家や芸術家たちからも薫陶を受け、強い刺激を受け続けました。彼はバレエ・リュスの真っ只中で育ったんです。つまり彼は黄金期のパリの最先端の芸術の真っ只中で育ったのだ。(ラヴェル、ストラヴィンスキー、フランス6人組などと親交がありました)
父・ニコライのバレエリュスのための作品で最も有名なのは「アルミードの館のヴァリアシオン」だろう(パキータの第四ヴァリエーションと言った方が通りはいいですね)。今でもバレエ界の超有名曲。
アレクサンドル・チェレプニンはヨーロッパのクラシック音楽に行き詰まりを感じていた。チェレプニンはロシア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、ペルシャ民謡の採集を経て、1930年代に日本や中国に滞在しました。彼は東洋の音楽に活路を見出そうとしたのです。その時に江文也や伊福部昭の才能を見出し、指導します。西欧音楽をひたすら必死に学んでいた日本の若い作曲家たちに民族の音楽の重要を説き、アジアに目を向けさせます。
また「チェレプニン賞」を設けて楽譜出版を計画して伊福部昭のチェレプニン賞受賞作「日本狂詩曲」や江文也の「5つのスケッチ」、「生蕃四歌曲集」、「祭典奏鳴曲」、清瀬保二のピアノ作品、近衛秀麿の「越天楽」松平頼則 の「ソナチネ」など39冊を「チェレプニンコレクション」として出版し世に出している(楽譜はアメリカ、フランス、オーストリア・中国・日本で同時出版された。)。
チェレプニンはロシア革命で祖国を捨てざるをえなかった作曲家。日本国籍を持つ台湾人という出自の複雑さと「故郷の喪失感」を背負う文也の気持ちをチェレプニンはよく理解しただろう。そして文也も同じ背景を持つ人間同士としてもチェレプニンに親近感を持ったに違いない。この出会いが文也には決定的なものになった。
チェレプニンの作品でよく取り上げられるのはホルンのための四重奏曲(1910)だろうか。
ホルンのアンサンブルでは屈指の名曲。素敵な作品だ。https://youtu.be/kY9TBLhyGec
サクソフォーンのためのソナチネ・スポルティブOp63(1939)もサックス業界ではけっこう有名なんじゃないかな。たぶん…
フルートのカルテットOp60やトリオOp59なんかもフルート業界では重要なレパートリーだと思う。アンコンとか。
とにかくまず
ピアノ協奏曲第1番(1919)をご一聴あれ。
グランドスタイルの超ロマンティックな協奏曲だが、重戦車部隊の爆走のようなリズム、充満するアグレッシブなエネルギーに圧倒される。どこかアジア的な雰囲気が感じられるのもチェレプニンらしいところ。
そして交響曲第1番(1927)の第2楽章もぜひ聴いてみて欲しい。この楽章はなんと打楽器だけで書かれているのだ。
超かっこいい✨こ
れは名高いヴァレーズの「イオニザシオン」よりも前に書かれた音楽だ。すげえ。
上海滞在中に書かれた
ピアノのための5つの演奏会用練習曲「中国」(1936)
を聴くとチェレプニンの中国への傾倒ぶりがよくわかる。江文也の「5つのスケッチ」とピアノの書法が似ているのも興味深い。
1036年に文也はチェレプニンに誘われて北京・上海を旅している。この旅で文也は北京に完全に圧倒されてしまったのだ。孔子廟を見ていかに儒楽が音楽を重要視していたかを思い知り、孔子・儒教の音楽にのめりこんでゆく。
余談:孔廟大成樂
孔廟大成樂章(1939)
文也は北京でのめり込むように中国文学を学び、「老子」「荘子」などを研究する。中国語で詩作を始めて、ついには詩集まで出すようになった。
孔廟大成樂章は中国の古楽を6楽章の管弦楽曲に編曲した作品。これは1940年に日比谷公会堂で文也自身の指揮で演奏され、その模様は日本の影響下にあるアジア地域全土に生放送された。文也はこの音楽について次のように語った。
「そこには喜びも、悲しみもない。東洋の「法悦境」のような音楽がほのかに聞こえてくるだけだ。」
ここで「法悦境」というワードが登場することに注意したい。法悦と言えばスクリャービン。文也の師である山田耕筰はスクリャービンの強い影響下にあった。ここまでの文也はどちらかというとバルトークやプロコフィエフのように線のくっきりした音楽を書いていて、山田耕筰よりはむしろ橋本國彦寄りの作風だったと言っていいと思う。中国に渡って儒教の音楽や中国文学を研究するようになって、文也の大陸のアイデンティティが目覚めていくのと同時に、師の山田耕筰が心から憧れた「法悦境」に接近するようになっていくのが興味深いところだ。ただ、師匠の山田耕筰の「法悦境」が濃厚な官能性を含んでいたのに対して、文也の考える法悦は、エーテルのように・空気のようにどこにでも偏在するという神聖この上ない平かな境地だった。
孔子は音楽を重要視していた。
↓は有名な言葉だからご存じの方も多かろう。
「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽になる。」
人間の教養は、詩によって興り、礼によって安定し、音楽によって完成される。という意味。
詩と礼と音楽。孔子はこれを「礼楽」と言った。
孔子は礼楽の復興によって秩序を取り戻そうとした。文也はこの孔子の音楽思想に共鳴し、その思想をベースにした創作を試み始めた。
文也が孔子の音楽についた書いた「上代支那正楽考」は素晴らしい。非常にわかりやすい文章。
Amazonの電子書籍で簡単で手に入るのでぜひ!
山田耕筰も多くの文章を残したが、個人的には江文也の方が論理的でわかりやすく、鋭いと思う。現代的でまったく古びていない。
余談:江文也の映画音楽
江文也が音楽を担当した作品を以下に挙げておこう
どれも戦時のプロパガンダ映画だ。台湾人(漢人)の文也が日本のプロパガンダ作品に協力せざるをえなかった状況…
戦線後方記録映画「南京」(1938)
「東洋平和への道」(1938)
この映画で文也は白光と出会い、親しくなる。
「熱風」(1943)
江文也が音楽を担当をした映画の中ではいちばん見応えがある作品がこの「熱風」だ。
八幡製鉄所が舞台の国策プロパガンダ作品。
戦争で製鉄所が重要なのは言うまでもない。
製鉄の重要性を戦時の国民にむけてPRするとゆーのが、この作品の重要なテーマということになるだろう。
この種の作品の中ではプロパガンダ臭が薄めで観やすい方だと思う。なかなかしっかりした作品で楽しめる。
山本薩夫監督の手腕。
八幡製鉄所が全面体に協力して作られているので、
製鉄所の描写はとにかく迫力がある。
特技監督は円谷英二!
山本監督の撮り方がハード&クールなのもあって、ますます凄い。場合によってはほとんどSF映画の一場面のように見えたりする。工場の音響もうまく使われていてめちゃくちゃかっこいい。
製鉄所の4号溶鉱炉(魔の溶鉱炉)に詰まりがあって不具合による減産が続いている、このままだと増産体制を維持できない。この聖戦の大事な時にまずいではないかとゆーことで、溶鉱炉の詰まりをダイナマイトで取り除こうとゆー命懸けの作戦を敢行する、とゆーサスペンス。
主演の藤田進が素晴らしい。あの天真爛漫でちょっと素っ頓狂な感じもよく生かされている。
その藤田進に寄り添う二人の女が原節子と花井蘭子。花井蘭子が慎ましやかで古風な女性を演じていて、原節子は積極的な新しいタイプの女性像・青踏的な感じの女性を演じる。この二人の対比が効いてる。
江文也の音楽は製鉄所がテーマなだけあって、序盤で鳴り響く音楽はほとんどプロコフィエフの交響曲第2番や、バレエ「鋼鉄の歩み」を思わせるような感じだ。
鉄と鋼のイメージ。
抒情的な場面の音楽は少し中華風の味わいも…。
余談・珈琲時光
侯孝賢「珈琲時光」(2004)
監督は台湾の名匠・侯孝賢監督。日本が舞台の日本映画。
一青窈が演じる主人公は、江文也について調べている日本人女性・陽子。
「台湾舞曲」も重要なモチーフになっている。
陽子は台湾人の彼氏と付き合っていて、彼氏の子供を妊娠しているという設定。主演の一青窈も台湾と日本のハーフなので、この作品は主人公の陽子・主演の一青窈・江文也が台湾の監督が撮る日本映画、台湾と日本・映画とリアルという具合に幾重にも重なりあう構造になっているところがミソ。
この作品には文也の奥さんの乃ぶさんご本人と娘さんが出演しているのが凄い。
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