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エッフェル塔の花嫁花婿
「フランス6人組」「狂乱の時代」
1917年、ジャン・コクトーはピカソ、サティと組んでバレエ・リュスで「パラード」を上演。
これは歴史的な傑作になった。
コクトーは「パラード」を文章で補完するように
音楽小論「 雄鶏とアルルカン」も発表した。
「雄鶏とアルルカン」でコクトーは
とりとめなくやたら長大なワーグナー(退屈という名の麻薬)や「印象派のもやもや(ドビュッシー現象)」などを小気味よく軽やかに攻撃し、「単純さへの回帰(サティ礼賛・6人組がんばれ)」を高らかに宣言する。この解放感に満ちた宣言で心が軽くなった若い芸術家も多かったことだろう。そこには陰惨極まりない第一次大戦が終わった解放感も加わっていたはずだ。いわゆる「狂乱の時代」のスタートである。
1920年、コクトーは笑劇(ファルス)と名付けたパントマイム「屋根の上の牡牛」をパリの地下小劇場(コメディ・デ・シャンゼリゼ)で上演した。音楽はダリウス・ミヨー。美術はラウル・デュフィ
パリのバー「屋根の上の牡牛」は「狂乱の時代のパリ」を代表するスポットだった。
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コクトー、6人組などパリのあらゆる前衛芸術家がこの店に集まっていた。この作品にはこの店の活気あふれる雰囲気がそのまま表現されている。
そんな中、モンパルナスの 小さなアトリエで、若い音楽家たちがコンサートを開催し始めた。このコンサートは プーランク、オーリック、ミヨー、オネゲル、タイユフェール、デュレなどの作品が並び、そこには毎回サティの名前もあった。このコンサートは好評で、マスコミや芸術関係者にも注目されていた。初回のプログラムの表紙はイレーヌ・ラギュが担当した。彼らはコンサートの計画を練るためにレストランに定期的に集まるようになった(会計はいつも割り勘。相談などそっちのけで彼らはいつも愉快に大騒ぎしていた)。この若者たちのうちの6人(ミヨー、プーランク、オーリック、オネゲル、タイユフェール、デュレ)が「フランス6人組」となんとなく呼ばれるようになった。彼らの作風は様々で、音楽的に何か共通した美学があったわけではない。コクトーは彼らの中心というよりはスポークスマンのような立場だった。彼は「言葉」で彼らをサポートしていたのだ。
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左からタイユフェール、プーランク、オネゲル、ミヨー、コクトー、オーリック
コクトーは言う「芸術家の派閥ならいくらでも在るが、こうした友情につながるグループとなると、これは稀」であり、「エッフェル塔の花嫁花婿」は「一種の詩的精神状態の表現」と述べている。
「エッフェル塔の花嫁花婿」
1921年スウェーデンバレエ(バレエ・スエドワ)の公演で、6人組は最初で最後の合作バレエ「エッフェル塔の花嫁花婿」を初演した(原案はコクトーの同名の戯曲)。
(この公演にデュレは参加しなかった)。
振付:ジャン・ボルラン、美術:イレーヌ・ラギュ
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コクトーは、エッフェル塔での結婚式を舞台にして
人々のバカ騒ぎを見事に表現している。ストーリーはあまりに破茶滅茶で、書いたところでどうとゆーこともなさそうだが、まあ、だいたい以下のような感じか(^_^;)
踊り狂うタイピスト、水兵、水着の女、サラリーマン、 演説する陸軍大将。やかましくアナウンスし続ける蓄音機、写真師と調子の狂った写真機。そして新郎新婦。踊る電報。飛び出すライオン(陸軍大将を食ってしまう)、 歩きまわる駝鳥、マカロン欲しさに結婚式の参列者をみな殺しにしようと式に乱入する少年….
初演は野次、口笛が飛び交い、大騒動になった。
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フランス6人組の音楽は以下の通り。ミヨーの行進曲は入場と退場で演奏され、オーリックが書いたリトルネロが三回演奏された。
序曲(オーリック)
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結婚行進曲(ミヨー)
陸軍大将の演説(プーランク)
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トルーヴィル海水浴場の水着女(プーランク)
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殺戮のフーガ(ミヨー)
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電報のワルツ(タイユフェール)
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葬送行進曲(オネゲル)
カドリーユ(タイユフェール)
プーランクが担当した2曲が特に有名だと思うが、ほかの曲もそれぞれに素敵だ。デュレがリハーサル4日前にドタキャンしてきたので、タイユフェールが急遽デュレが担当だった電報のワルツを作曲した。タイユフェールが作曲すると横に控えているミヨーがそれをどんどんオーケストレーションして間に合わせた。
オネゲルの担当が葬送行進曲ってのがいかにも適材適所な感じだ。
スウェーデンバレエはこの後も6人組と密接に関わり、作品を上演してゆく。
1920年に旗揚げした「スウェーデン・バレエ」はバレエ・リュスのライバル的存在として1925年まで活動を続けた。コクトー、ポール・クローデール、ピランデルロなどの作家、ボナール、レジェ、キリコ、ブラックなどの画家が参加した。ディアギレフは例によって猛烈に嫉妬した。
ディアギレフはものすごく大胆不敵だったけど、実はめっちゃ小心者でもあった。
でもここはやっぱりディアギレフのような圧倒的な中心がなかったので、バレエ・リュスほどの存在になれなかったが、それでもいくつかの素晴らしい作品が残した。「世界の創造」は特に大きな成果だろう。
下記がその後スウェーデンバレエが6人組と作った作品。
オネゲル「スケートリンク」(1922)
タイユフェール「小鳥売り」(1923)
ミヨー「世界の創造」(1923)
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ミヨー「サラダ」(1924)
上記の作品の年代を見れば一目瞭然だが、バレエ・リュスの一連の6人組のバレエ作品の上演時期とスウェーデンバレエのそれは完全にかぶっているのだ。ディアギレフはいらいらした。
6人組の時代…