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若きベートーヴェンチクルスvol.1

2024/02/10竹風堂大門ホール

ピアノ:雪入美優

はじめに


本日はご来場ありがとうございます。今年はベートーヴェンの初期の作品をじっくり聴いていきましょう。
30歳くらいまでの時代です。
ピアノソナタで言うと第8番「悲愴」まで。
交響曲だと第 1番あたりまでになります。
実は我々は20年くらい前に、ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲のチクルスをやりました。
今回は当時できなかったことをやりたいと思っています。ピアノソナタをほぼ全部聴いていただくというところは同じですが、今回はもっと時間をかけます。まず最初に、初期。しばらく空けて中期のソナタ。またしばらく空けて後期のソナタという感じで間隔をあけながらゆったり進めていくつもりです。
今回はソナタの他に、変奏曲にも目を向けます。変奏の手法は特に後期になってくるとベートーヴェンの創作の重要な要素になってきます。
それから、リートの作曲家としてのベートーヴェンを認識するために、歌曲も聴いていただきます。
そしてチェロソナタも入ります。
なぜヴァイオリンではなくチェロソナタかとゆーと、ベートーヴェンのチェロソナタは5曲あって、1番と2番が初期、3番が中期、4番と5番が後期という具合にきれいにシンメトリーに3期に分かれるからやりやすいんです。
(ヴァイオリンソナタもいいけれど曲数多いし、いろいろ変則的でやりにくい。だからチェロ。)
そんなふうに進めていきます。
だから全体としては数年がかりになります。
たぶん再来年に中期の傑作の森をやって。それでまた1年あけて後期の作品という具合にできればいいなと思ってます
まあ、今のところ…とゆーことですけどね。
あとは長野のピアニストの皆さんのモチベーション次第。
ではお話を始めましょう。

ベートーヴェンのルーツ

ベートーヴェンの家系はドイツではなく、もとはフランドルの家系になります。フランドル地方ってのはつまりフランダースです。「フランダースの犬」のフランダース。

今のベルギーですよね(この当時はベルギーという国はまだ成立してません)。アントワープとかブルージュとかそっちの方。オランダ語=フラマン語を使う地域です。

ベートーヴェンみたいに名前の末尾がフェン、ヴェン・
、ヘンみたいに終わるのはこちらの地域の典型的な名前です(フランス・ブリュッヘンとかね)。
ベートーベンの苗字を分割するとbeet / hovenに分けられる。hovenは農場って意味。
ビートはボルシチなんかに使われる赤い蕪。

(ビート)ビーツ


ビーツの方が通りがいいかな
(今は日本のスーパーにもまあまあ並んでる。タネもホームセンターなどで見るようになった)。
つまりベートーヴェンという名前は「ビート農家」とか「ビート農場」みたいなことになるのだろう。ご先祖がビート農家だったのかもしれない。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのように名前と苗字の間に「ヴァン」「ファン」が入るのもフランドル的だ。vanは英語だとof。
「〇〇の」という意味。前置詞。
ゴッホもそう。Vincent 「van」 Goghヴィンセント 「ファン」 ゴッホ。
指揮者のパウル・ファン・ケンペンとかチェンバロのボブ・ファン・アスペレンとか、みんなオランダ出身。貴族を表すドイツ語の前置詞vonとは違うので要注意。
ベートーヴェンのおじいちゃんの時代のベートーヴェン家はメヘレンでパン屋さん兼レース屋さんを営んでいたようだ。やっぱりあの辺はがレース有名だ。今でもレース屋さんだらけ。

18世紀のアンティーク・レース

メヘレンはアントワープとブリュッセルのちょうど真ん中に位置する街。アントワープからもブリュッセルからも車で30分ほど。

18世紀頃のメヘレン

ベートーヴェンのおじいちゃんのルートヴィヒ(1712-73)には音楽の才能がありました。彼は教会でオルガンを弾くようになりました。そう、ベートーヴェンはおじいちゃんと同じ名前なんですよね。そんなことをしてるうちに祖父ルートヴィヒは声も良かったので教会で歌手として歌うようになりました。バスだったそうです。リエージュの教会で歌っている頃、ドイツからケルンの大聖堂の大司教がリエージュに来たんです。そこで大司教が祖父ルートヴィヒの歌を聞いて「これは見事じゃ!」ってことでスカウトされて、祖父ルートヴィヒはボンの宮廷の楽師になったんです。

祖父 : ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1712-73)

ここで生まれたのがベートーヴェンの父親ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンです。

父 : ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(1740-92)

ヨハンも成長するとボンの宮廷で歌手として働き始めました。おじいちゃんのルートヴィヒは出世して宮廷楽長になりました。当時の音楽家のキャリアとしては頂点まで上り詰めたことになります。
おじいちゃんもお父さんも歌手なんですね。
歌の家系。

ルートヴィヒ誕生

父親のヨハンは結婚して、そこで生まれたのが楽聖ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン その人です。1770年生まれ。
オーストリアのマリー・アントワネットがフランスにお嫁入りした年ですね。
↑ここ大事です。
ボンガッセ30番の生家は今も残っていて記念館(ベートーヴェンハウス)になっている。旅行で行かれた方も多いだろう。

ベートーヴェンハウス

ここではベートーヴェンが生まれた部屋を見学できる。天井の低い狭い質素な屋根裏部屋。

ベートーヴェンが生まれた部屋

ナポレオン
1770年の前年の1769年にはコルシカ島でナポレオン・ボナパルト(ナポレオーネ・ブオナパルテ)が生まれています。
↑ここもめちゃ大事です

子供の頃のナポレオン

ナポレオンのおうちもまたフランスがルーツではありません。コルシカ島出身。もっと言えばイタリアのロンバルディアの方がルーツってことになります。コルシカがフランス軍に敗れてフランス領になった年に生まれたのがナポレオン。

ナポレオンとベートーヴェンはひとつ違いの同年代です。
これは世界史的に見ても非常に象徴的なことです。
ぼくが持っている高校の世界史の教科書(世界史A 第一学習社)には同じページでナポレオンとベートーヴェンが並べて大きく扱われています。

この「並んで扱われている」ところが今回のチクルスの大事なところです。
みなさん、どうか覚えておいて下さい!

おれはピアノチクルスでレクチャーの準備をするときは、高校の世界史の教科書を座右に置いてる。
高校の教科書はコンパクトに明快にまとまっていて
歴史を概観するのに良いのだ。

子供の頃のベートーヴェン

ルートヴィヒが3歳のときに祖父ルートヴィヒが亡くなってしまう。ここからベートーヴェン家はどんどんおかしくなってくる。おばあちゃんのマリア・ヨゼファはおじいちゃんが亡くなった頃にアル中になってしまう。彼女はケルンの尼僧院に入れられて、外に出ることなく2年後には亡くなってしまった。

ルートヴィヒは6歳の頃から父ヨハンの元で音楽を勉強するようになりました。
ヨハンはアル中のDV男です。
だから息子が上手く弾けないと怒鳴って殴ったりする。
そんな単純なことで上手くなるなら誰も苦労しません(-_-;)
殴っても怒鳴っても絶対に上手くならない。
もしそれで上手くなったとしたら子供が勝手に上手くなっただけで、殴ったから上手くなったのでは絶対にない。

ヨハンは人間的にも弱かった。人間的にも音楽家としても祖父・ルートヴィヒに遠く及ばず、偉大すぎる父親の息子であることがコンプレックスになっていたのだろう。
よくあるケース….。

1778年、7歳のルートヴィヒはピアニストとして初めて公開演奏会のステージに立ちました。 ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が大ブームになっていた頃のこと…
3月26日ケルンのシュテルネンガッセ12番のアカデミーホールでした。
勉強を始めてから約1年のデビューは確かに早い。

1778年のデビュー演奏会の告知


 この演奏会の告知👆には「6歳(6 jahren)」のベートーヴェンが演奏すると書かれています。年齢が間違ってます。これは単純なミスではなく、父ヨハンが息子を「神童」として印象付けるために一歳サバを読んだのだろうと言われてます。ヨハンは息子を「神童」として人に見せびらかそうとしたのだ。この時サバを読んだせいで、ベートーヴェンの創作初期の年代に混乱が生じてしまって、その影響は今も続いてます。
そのせいでベートーヴェンは最初の作品を11歳で書いたとか12歳で書いたとか、いろんなことになってます。古い本だと11歳になってることがあるので注意が必要です。
正確には12歳です。
ベートーヴェン自身もこの影響で大人になってから自分の年齢がちょっとわからなくなったりもしたそうな。
サバ読んだりしない方がいいです。

ベートーヴェンもナポレオンも学校に通いました。この二人は無口な子供で、一人でいることを好んだとゆーところが共通してます。ベートーヴェンは音楽のレッスンが中心だったので、あまり長く学校に通うことはなかったようです。

余談:ナポレオンの少年時代
ナポレオンは10歳でブリエンヌ陸軍幼年学校に入学。エリート校。少年時代のナポレオンはまだフランス語が上手く喋れなかった上にものすごいコルシカ訛りだったので(イタリアっぽい感じ)、あまりフランス語で会話したくなかった。子供は残酷だから同級生はナポレオンのコルシカ訛りを容赦なくからかう。そして、フランスの支配下にあったコルシカの出身のナポレオンを一段低く見て馬鹿にしていじめる。ナポレオンはそれがいやで、図書館で読書に没頭した。そうやってナポレオンはものすごい読書狂に成長する。
ナポレオンは13歳でパリの士官学校に進学したが相変わらず孤独を好み、本の虫だった。そして常にコルシカの独立を熱望し、夢見ていた(ポーランドの独立を熱烈に祈っていたショパンの少年時代に近い感じだろう)。

ネーフェのレッスン

1780年からルートヴィヒはクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748-98)のレッスンを受けるようになります。
暴力パパのレッスンがなくなってホントによかった….。
これは彼にとって決定的な出会いでした。ここでルートヴィヒは初めて生涯の師と呼べる人物と巡り合ったのです。
ネーフェは作曲家でオルガン弾きでした。ネーフェはジングシュピールなどを上演する劇団の音楽監督としてボンにやってきてそのままボンの宮廷オルガニストに就任した人です。
ネーフェのレッスンでは教材として、当時未出版だったJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の写しやC.Ph.E.バッハの「ゲレルトの詩による歌曲集」などが使われました(おそらくヴュルテンベルクソナタ集, プロシアソナタ集や 二巻からなるクラヴィーア奏法なども使われただろう)。こうした教材のチョイスを見ただけでもネーフェが「ただものではなかった」ことがよくわかります。ルートヴィヒの才能は大バッハとエマヌエル・バッハの精神の中で育まれたのです。ネーフェがエマヌエル・バッハを尊敬し、その音楽に精通していたことは、ルートヴィヒにとって極めて重要な要素になっていきます。ここのところは詳しくnote(これ)に書いてありますから、興味のある方はどうぞ。↓
エマヌエル・バッハは多感様式(Empfindsamer Stil)で作曲をした作曲家だ。
エマヌエルは次のように述べている。
「音楽家が聴衆の感情を動かすには、自分自身も感情を動かされなければならない」(『クラヴィーア奏法』第1巻)
バロックの作曲家たちは人間の情緒を表す音楽の「型」を意識しながら作曲をした(情緒論)。そこでエマヌエル・バッハは、そうした型にとらわれずもっと「率直に、自然に」心のままに音楽することを提唱したのだ。その方向は バロックや古典派の音楽とは違った。ロマン派の先駆けと言っていいだろう。
モーツァルトは少年時代に明快なイタリアンスタイルのヨハン・クリスティアン・バッハに大きな影響を受けている。そして、晩年になってからエマヌエル・バッハ(北ドイツ的)も強く意識するようになる。モーツァルトはエマヌエルについて「彼は父であり、われわれは子供だ」と言っている。ベートーヴェンは少年時代からいきなりエマヌエル・バッハで育ったのです。ここがモーツァルトとベートーヴェンを語る上で重要なファクターになるだろう。

例えば「ヴュルテンブルクソナタ集」の第6番ロ短調を聴いてみて欲しい。この感覚!これが選帝侯ソナタ第2番の序奏から悲愴ソナタの序奏まで直接繋がっているのだ。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ

ベートーヴェンは生涯に約90曲の歌曲(Lied)を作曲した。その歌曲はまさにシューベルトからシューマン、ヴォルフ、R. シュトラウスと受け継がれてゆくドイツリートの源流と言える。実際、ベートーヴェンにとってシューベルトはサリエリのクラスの弟 弟子なのだし….
例えばルートヴィヒが勉強していたエマヌエル・バッハのゲレルトによる歌曲集のBittenを聴いてみよう。エマヌエルのテクストの扱いや深い表現がバロックや古典派を飛び越えてロマン派的な情感に溢れていることに驚かされると思う。少年ルートヴィヒはこーゆーのを勉強していたのだ。
ルートヴィヒは後にエマヌエル・バッハと同じゲレルトのテクストに曲を付けている(ゲレルトによる歌曲集Op48!  素晴らしい曲集!)。ネーフェはジングシュピールの作曲家だったから、歌の作曲はお手のものだっただろう。そしてウィーンに進出するとサリエリの元で更に歌の作曲法を補強する。やっぱり歌手の血を受け継いでいるのかもなあ。

ルートヴィヒはネーフェのもとでクラヴィーア、オルガン、作曲、通奏低音法などを学びました。ルートヴィヒはぐんぐん上達しました。ネーフェもこの少年の才能を高く評価し、熱心に教えました。

ネーフェは少年について「第二のモーツァルトになるだろう」と言った。この予言は半分当たって半分外れた。ルートヴィヒは音楽史的にモーツァルトに匹敵する重要な存在になったが、
「第二のモーツァルト」ではなく
「唯一無二のベートーヴェン」
になったのだから

ルートヴィヒ12歳の時にはネーフェの代理でオルガンを弾くほどの腕前になりました。

ボンの聖リミギウス教会のオルガン
ルートヴィヒ少年はここでオルガンを弾いた

ドレスラーの主題による9つの変奏曲 WoO63



この時期にルートヴィヒが作曲した「ドレスラーの主題による9つの変奏曲」を聴いてみましょう。ベートーヴェンの最初の作品。1782年の作曲です。これはネーフェの後ろ盾でマンハイムの出版社から出版されています。このような無名の少年の作品が出版されるなんてことは極めて異例のことです。いかにリースがルートヴィヒの才能を買っていたかよくわかります。
まず「ハ短調」という調性の選択が特徴的です。11歳で書いた最初の作品で既に後のベートーヴェンの調性の好みがはっきり出てます。ハ短調はご存知の通り、ザ・ベートーヴェンな調です。「運命」とか悲愴ソナタとかピアノ協奏曲3番とかね。最後のピアノソナタ32番もそうです。ハ短調はフラットが三つついた短調です。ちなみにフラット三つの長調は変ホ長調になります。これも英雄交響曲とかピアノ協奏曲「皇帝」とかピアノソナタ「告別」など、これまたザ・ベートーヴェンな調です。
このドレスラー変奏曲の作曲技術は習作という段階をはるかに越えています。ませガキ((;゚Д゚)
第5変奏(6m45s)なんか、ホントにおもしろいですよね。
エルンスト・クリストフ・ドレスラー(1734-79)は、ウィーンやカッセルで人気を博したテノール歌手・作曲家。ルートヴィヒが選んだ主題の原典は不明です。


ではベートーヴェンの最初の作品、ドレスラー変奏曲を聴いてみましょう。


ネーフェ

余談:ネーフェの作品

下の動画はネーフェ作曲の幻想曲へ短調。ネーフェはジングシュピールなどが主戦場だったので、大衆が好むような作品を多く書いたが、時々こーゆー凄い曲があるので油断できない。さすが楽聖の師匠!

ラメントバス(半音で下降する音型)を効果的に使ったソナタ第1番ニ短調もなかなかの素晴らしさ(°_°)
このニ短調ソナタが含まれる12のソナタ集(1773)にはハ短調のソナタも二曲含まれている。ネーフェもハ短調好きだったのだろうか….。

ゲーテのジングシュピールによる歌曲「ベラ荘のクラウディーネ」のセレナードがこれまた素晴らしい。
やっぱりこーゆーのが書ける作曲家の弟子だったから、ルートヴィヒはリートの元祖になれたんでしょうなあ。


ピアノソナタ(選帝侯ソナタ第2番)ヘ短調 WoO47-2

さて、次に聴いていただくのは選帝侯ソナタ第2番です。

これは先ほどの変奏曲の翌年の1783年(13歳の時)に作曲され、出版された3曲セットのソナタ集の中の一曲です。これもネーフェの指導のもとで書かれました。ケルンの選帝侯マクシミリアン・フランツ(マリア・テレジアの末子=マリー・アントワネットの弟)に献呈されています。

ケルン選帝侯:マクシミリアン・フランツ

当時のボンは神聖ローマ帝国(ハプスブルク)のケルン大司教領の街でした。神聖ローマ帝国直属の街だったんです。2024年現在の長野だったら荻原市長に献呈するみたいな感じかな。いや、宗教が混ざってくるのでもっと格上の感じになるでしょう。父親のヨハンが選帝侯の歓心をひこうとして献呈させたようです。今日聴いていただくのは第二番へ短調です。これは3曲の中でいちばんシリアスな内容の作品です。まずへ短調という調が「異常」です。古典派の時代ではめったに使われなかった調です。暗くて闇を感じさせる調です。ハ短調とかニ短調なんかよりずっと暗いです。(へ短調は弦楽器的に言えば非常に「鳴りの悪い」調だ。開放弦が1本しか使えないので響きがこもって暗さが際立つ)ベートーヴェンはへ短調をピアノの分野でポイントになるところで使うことになります。特別な調なのです。後半に聴いて頂くピアノソナタ第一番で使い、中期の傑作「熱情ソナタ」で使っています。これをもう13歳で使ってるのが異常なのです。序奏のゆっくりな部分を主部の速い部分の中に使っていく構成は悲愴ソナタと全く同じです。この第二番のソナタには後年のベートーヴェンを予告するようなところが既にたくさん現れているんです。ではお願いします


乙女を描くWoO107

休憩前に、ベートーヴェンが最初に書いた歌曲も聴いておきましょう。とても短い作品です。ここまで聴いてきた変奏曲、選帝侯ソナタと同じ時期の作品です。これもまた出版されています(ボスラー編「ピアノ愛好家のための精華集」1783第二号)この年齢での歌曲の出版もまた異例のことです。作詞者は不明。
ベートーヴェンは生涯に約90曲の歌曲(Lied)を作曲しました。その歌曲はまさにシューベルトからシューマン、ヴォルフ、R. シュトラウスと受け継がれてゆくドイツリートの源流と言えるのです。


先ほどまで聴いてきた変奏曲やソナタにはルートヴィヒのおませな面が色濃く反映されていましたが、これから聴いて頂く歌曲には13歳の少年の元気の良さがそのまま素直に反映されていると言っていいでしょう。
今回のチクルスでは
「ドイツリートの元祖としてのベートーヴェン」
というところも強く打ち出していきますから、
その出発点の作品を聴いておきたいと思います。
では「乙女を描く」をお願いします。
とても短い曲です。


休憩


宮廷楽士

さて、ルートヴィヒは着実に成長し、無給の宮廷楽士としてオルガンを弾き、劇場ではヴィオラを弾くようになりました。14歳の時には正式に宮廷楽士として取り立てられ、給料をもらえるようになりました。こういった時にはネーフェ先生が親身になって助けてくれました。ベートーヴェン家は貧しかったのでこれは本当に助かりました。1787年、ルートヴィヒが17歳のときに母のマリア・マリアマグダレーナが結核で亡くなってしまう(殺伐とした家庭環境の中で優しいマリアの存在は一家の救いでした)。


「母はぼくにとっては実に良い母、愛されるに値する母、最良の友でした!おお!母のやさしい名前をぼくが呼ぶことができ、母がそれを聞くことができていたあの頃は、ぼく以上に幸福な人があったでしょうか」
(1787年9月15日/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)

父親のヨハンはこれに激しく落ち込んで完全に労働意欲を無くしてしまう(この2年後にはテノール歌手を引退し、ただの無職のアル中になった)。この時点でルートヴィヒは父親に代わって一家の大黒柱として父や弟たちを食わせていくことになりました。ベートーヴェン家が貧しかったのは父親のヨハンがアル中だったことが最大の原因です。当時は今に比べるとお酒がかなり高かったんですよね。だからこの当時は酒で破産しちゃうような人もけっこう多かったらしい(-_-;)

ナポレオンの実家の事情
ナポレオンのおうちは貴族の家系でベートーヴェン家よりは恵まれた環境でしたけれども、意外なことにルートヴィヒと共通点が多いです。ナポレオンの父シャルルはアル中ではなかったけれどギャンブル好きで金遣いが荒く、いつもお金の問題を抱えていました。山師的な感覚で大きな事業に手を出して失敗してしまったりする。そんな危なっかしいシャルルはコルシカの独立のために尽くした非常に立派な人物でもあった。しかも弁護士。普通にしてればお金に不自由はなかったはずだが…
1785年、ナポレオンが16歳のときにお父さんのシャルルが癌で亡くなってしまう。ナポレオンもまたここで一家の大黒柱になってしまう。ルートヴィヒと同じ状況です。ナポレオンは父の死後に実家の経済状態の悲惨な実態を知って愕然とする。とにかく家族を養い、ナポレオン家の窮状をどうにかしなければならない。だから、彼は一刻も早く一人前の軍人になりたかったのだ。とにかく給料が必要だ。彼は夜も寝ないで必死に勉強した。
ここが「眠らないナポレオン伝説」の始まりだ。
ナポレオンは眠らないのではなく、いつでもどこでも、効率よく深く眠ることができた。
睡眠時間は短いが睡眠の質と効率が良かった。
めっちゃ軍人向き。

16歳のナポレオン

ウィーン1787

1787年ルートヴィヒは選帝侯に派遣されてウィーン旅行に向かいます。約二週間。これは有給休暇ですが実質的な短期の給費留学とゆーか研修でした。
ウィーンでルートヴィヒはモーツァルトに会うことができました。ルートヴィヒはモーツァルトの生演奏も聴くことができました。彼は後にツェルニーに「見事な演奏だったが、ポツポツと音を刻むようでレガートな演奏ではなかった」と語っています。
モーツァルトがルートヴィヒの即興演奏を聴いて感心して賛辞を送ったというような逸話も残っているが、真偽のほどはわからない。この時期のモーツァルトは多忙を極めている上にザルツブルクの病気の父レオポルドのことが気になっていて、落ち着いてルートヴィヒに対応することができたかどうか….
ルートヴィヒの初めてのウィーン旅行は短いものでしたが、それでも大いに刺激的な二週間でした。

ブロイニング家

ルートヴィヒは家庭環境には恵まれませんでしたが、周囲の人には恵まれていました。ルートヴィヒは一家のためにお金を稼がなければいけないので、宮廷の仕事のほかに貴族の子弟などにピアノのレッスンをしていました。こーゆーバイト先の貴族たちがルートヴィヒにとても優しくしてくれたんです。中でもボンの名門貴族ブロイニング家は特別でした。ブロイニング夫人はルートヴィヒを実の息子ように可愛がってくれたのです。

ブロイニング家

夫人はルートヴィヒにラテン語を教え、文学の楽しみ方(ブロイニング家の蔵書は充実していた)、礼儀作法まで教えてくれた。彼女はルートヴィヒの心の支えになった。ルートヴィヒは毎日のようにブロイニング家に通う。ピアノを教えていたブロイニング家の子供たちとも兄弟のように仲良くなって、彼らとの友情は生涯続いた。長女のエレオノーレはルートヴィヒの二つ年下。初恋の対象だったかも❤️と言われている。そうかもね。エレオノーレ、たしかにかわいいもんな。
彼女はのちにルートヴィヒの幼馴染で親友の医師ヴェーゲラーと結婚した。ヴェーゲラーとエレオノーレとルートヴィヒの温かい友情は生涯続いた。
ベートーヴェンはエレオノーレのためにピアノソナタを作曲した(1796年頃)。欠落部分の多い楽譜がヴェーゲラー家にあって、それが1830年に出版されたのだ。
やさしいソナタ ハ長調 WoO51 

この優美な感じがエレオノーレなんだろうなあ…✨
第1楽章は優しいアルペジオが特徴的。透明な第2楽章は本当に感動的だ。「悲しい微笑み」といった感じか…

エレオノーレ・フォン・ブロイニング

ブロイニング家は多くの文化人が集まるサロンになっていて、ボンの文化的中心だった(啓蒙思想の中心でもあった)。ルートヴィヒにとって非常に刺激に満ちた環境だっただろう。ここでルートヴィヒはのちに有力なパトロンになるヴァルトシュタイン伯爵と出会う。伯爵は作曲も演奏もする素人離れした音楽愛好家だった。彼はルートヴィヒの才能に惚れて、手厚く支援してくれた。超高価なシュタインのピアノを贈ってくれたりする。二人の間にはすぐに年齢も身分も越えた親密な友情が生まれた。
ルートヴィヒはボン時代、1790-92年頃に伯爵の旋律によるヴァルトシュタイン伯爵の主題による4手のための8つの変奏曲WoO67を作曲している。おそらく伯爵が提示したメロディで即興で変奏するなんて遊びをよくやっていたのだろう。
この変奏曲はベートーヴェンの最も初期の連弾作品だ。
伯爵はルートヴィヒの本格的なウィーン進出も助けてくれた。伯爵はウィーンに親戚や知り合いが多く、「つて」や「コネ」を沢山持っていたのだ。ウィーンに行くときに伯爵が持たせてくれた数多くの紹介状は効果抜群だった。
後にルートヴィヒは大傑作ピアノソナタ ハ長調 Op53を伯爵に献呈することになる。

ヴァルトシュタイン伯爵


余談:啓蒙君主・啓蒙思想

ボンの殿様、選帝侯マキシミリアン・フランツ(マックス・フランツ)は皇帝ヨゼフ二世の弟で、芸術や学問にも理解がある殿様だった。
この人はいわゆる「啓蒙君主」の一人だった。「啓蒙思想」は教会の権威や 封建制を否定する思想。各地の選帝侯は「神聖ローマ帝国(ハプスブルク)」から派遣されるので、教会であると同時に封建的な君主という二重に否定的な存在だ。支配者側の王族や貴族の中にも「啓蒙思想」に影響されて共感する者もこの当時多くいた。ハプスブルクのヨゼフ二世、マリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ、ロシアのエカテリーナなんかも啓蒙君主として有名だった。こーゆー人たちはものすごく教養があるから「啓蒙思想」の素晴らしさは理屈ではよ〜くわかっていたのだ。
格差が拡大し、民衆の不満が高まっていることも
強く感じていただろう。
でも自分たちはまさに権力側。
それを否定されるのは困る。それで国が混乱するのも嫌だ。
だから彼らにとって、
「自由平等博愛」の精神は君主から人民に与えらるもので、それはあくまでも「君主のもとでの自由平等博愛でなければならなかった。
こうした君主たちは彼らは知識人や芸術家たちの力を借りて、「自由平等博愛」を国民に授けるとゆー格好で啓蒙主義的な政策を打ち出してゆく。
マックス・フランツは教育の普及と芸術文化の振興に大いに力を入れた(マックス・フランツはモーツァルトの大ファンだった)。彼は温厚な人柄で「太っちょマックス」という愛称で呼ばれ、市民から人気のある殿様だった。戦争や争い事が嫌いな殿様。ボンはその恩恵を大いに受けたヨーロッパの中でも特に先進的な啓蒙都市なのだ。
ボンに居たからルートヴィヒはウィーンに派遣してもらえたし、大学で幅広く勉強もできた。
選帝侯マックスにも皇帝ヨゼフにも彼は心から感謝していたことだろう。


ルートヴィヒは、ボン大学に聴講生として入学した。ボン大学では貴族も平民も等しく教育を受けることができた。
当時、ドイツの国土は度重なる戦争でぺんぺん草も生えないほどの酷いダメージを受けていた。国の再生にはまず教育が大事だとゆーことを、こうした啓蒙君主たちはよく理解していた。
子供時代あまり学校に行かなかったルートヴィヒは音楽以外の勉強をあまりしてこなかった。ルートヴィヒはブロイニング家の環境の中で音楽以外の学問にも興味を持つようになったのだ。

ボン大学・啓蒙思想
ルートヴィヒはボン大学に入学して哲学、文学、芸術史を学びました。当時の大学ではシラーやゲーテの作品が広まっていて、啓蒙主義の影響も大きかったのです。ボンは小さな町だったけれど、学問や芸術の面ではとても先進的な街でした。彼は読書に没頭するようになり、読書サークル(レーゼゲゼルシャフト:読書協会)にも所属しました。読書協会はボンのフリーメイソン系の知識人の集まりです。読書と討論を通じて啓蒙思想を普及していこうというものでした。
読書協会のメンバーはブロイニング家のサロンにも出入りしていました。

ボン大学

ルートヴィヒは大学や読書協会で「啓蒙思想」について深く学んでいくことになるのです。

ナポレオンと啓蒙思想
ナポレオンも、もちろんルソーやヴォルテールは読んでいました。ルソーの「社会契約論」(1762)にはコルシカについても書かれています。ルソーは「コルシカ憲法草案」(1765)も著していて。コルシカ愛に燃えるナポレオンは、ルソーの思想に傾倒しました。
ルソーは「社会契約論」でコルシカの独立運動を高く評価し、「いつかこの島(コルシカ島)が世界を驚かせるような予感がする」と書いています。


シラーの頌歌「歓喜に寄す」をルートヴィヒが知ったのはこの読書協会です。
これは決定的な出会いでした。
もうこの頃から彼はこの詩に音楽をつけようと考えていました。そして、考えて考えて、考え続けて……
1834年。それが「自由・平等・博愛」の音化としての第九交響曲に記念碑的に結実するのです。

フランス革命

バスティーユ事件

この年、1789年7月にはフランス革命が勃発(バスティーユ事件)。
ボン大学では啓蒙思想の権威オイロギウス・シュナイダー教授が特別講義を行い、学生たちに熱狂的な興奮と感動を与えました。

オイロギウス・シュナイダー教授(1756-1794)


ルートヴィヒはシュナイダー教授の生徒でしたから、もちろんこの熱狂の中にいたのです。彼は思想以前に、もっと切実な思いでフランス革命を捉えていたでしょう。彼は虐げられて貧困の中で喘ぐ民衆の一人として心から共感を寄せたはずです。彼は、激動の時代の真っ只中で多感な青春時代を送った人です。ナポレオンもまた同様でした。

ところでモーツァルトは1789年7月に何をしていたか。33歳の彼は早い晩年を迎えていて(死の2年前です)、ひどい貧困状態の中でピアノソナタKV576を書いていた。
人生の最後の時期にフランス革命を体験した33歳のモーツァルト。それに対して多感な青年時代の真っ只中でフランス革命の衝撃を体験したベートーヴェン(とナポレオン)。
この差は決定的です。
ベートーヴェンはまさに「啓蒙の子」だったのです。

ナポレオンの場合
ナポレオンは勉強しまくって飛び級でどんどん進級して士官学校を卒業して1789年にはフランス軍の将校になっていた。
バスティーユ以降のフランスは全国各地で暴動が相次いで完全にパニック状態だった。いわゆる「大恐怖(グラン・プール la Grande Peur)」だ。

グラン・プール 1789

フランスのほとんどの農民が立ち上がった。ナポレオンはフランス軍の将校だから、自分の部隊を率いてこうした暴動を鎮圧するのが職務だった。
ナポレオンはこの革命でコルシカの独立もまた叶うかもしれないと考えながら、この混乱状態を冷静に見ていた。そうした中でナポレオンは休暇を利用してコルシカに頻繁に帰って独立運動に身を投じるようになる。彼は中佐としてコルシカの義勇兵大隊を指揮して戦闘に参加。
これがナポレオンの最初の戦闘経験になる。
ナポレオン24歳。
コルシカの彼の部隊はものすごく強かった…

国内の暴動を鎮圧するフランス軍の中には、革命の精神に賛同して革命側に回る者が多く出てくるようになっていた。ナポレオンが指揮する連隊も例外ではなかった。
ナポレオン自身もまた最も急進的な共和派のジャコバン派を熱狂的に支持するようになる。ここで彼は はっきりと革命側に舵を切ったのだ。架空の人物だけど、ベルばらのオスカルだってそうでしょ?
こうしてナポレオンは「自由平等博愛」の旗印のもとで戦うことになったのだ。


1789年以後、ルートヴィヒは大規模な作品を作曲するようになった。
まず大きいのは1790年に書かれたウィーンの皇帝ヨーゼフ二世追悼のための作品(皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータWoO87)だろう。ボンで行われる皇帝の追悼式のために依頼された。追悼の次はもちろん次の皇帝の戴冠だ。ルートヴィヒはレオポルド2世の即位を祝うカンタータも作曲した(皇帝レオポルト2世戴冠式カンタータ WoO 88)。
1792年、ルートヴィヒはボンに立ち寄ったハイドンに上記のカンタータのいずれか(または両方)の楽譜を見てもらうことができた。
ハイドンはルートヴィヒの才能を認め、ウィーンで勉強することを勧めてくれた。そしてハイドンはルートヴィヒのウィーン留学を選帝侯に進言してくれたのだ。
ハイドン優しい!

ウィーン 1792

ルートヴィヒはハイドンに会った後、ウィーンに向かった(1792年11月)。二回めの研修(給費留学)だった。この時に許可された滞在期間は少し長めで1年でした。しかしルートヴィヒはもうボンに戻ることはありませんでした。ベートーヴェンのウィーン時代の始まりです。

ベそれでもートーヴェンは生涯、常にボンを思い続けた。
「ぼくのふるさと、ぼくがこの世の光をはじめて見た美しい国、それはぼくがそこを去った時と同じように、いつもぼ区の眼の前に美しく、はっきり見える」
(1801年6月29日/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)

ルートヴィヒが乗った馬車はウィーンに向かう途中でフランス軍とヘッセン軍との戦闘の中を走りました。かなり危険な旅だったようです(゚ω゚)
革命の真っ只中。第一次対仏大同盟が組まれ、ほとんど全ヨーロッパを敵に回したフランスはオーストリアに宣戦布告し、戦争になっていました。
そーゆー時代だったんです。

ルートヴィヒはウィーンに着くとアルサー通り30番(かつての45番)の屋根裏部屋に入居した。
ここはリヒノウスキー侯爵の持ち家で、おそらくハイドンが紹介してくれたのだろうと言われている。
当時のウィーンは、ロンドンとパリに次ぐ人口の国際都市。東欧やイタリアなど様々な文化が混在する多民族都市だった。ボンの田舎から出てきたルートヴィヒにとっては、目も眩むような大都市だっただろう。
ルートヴィヒは早速ハイドンのレッスンを受け始めた。でも、ハイドンはロンドンに出かけたりして不在がちで、そのレッスンに彼は物足りなさを感じていた。そしてアルブレヒツベルガーやシェンクのレッスンにも通って基礎を学ぶようになった。

もちろんハイドンもちゃんとルートヴィヒには目を配っていたのだが、やはりあまりに多忙で基礎をじっくり見てあげるような余裕がなかったのだろう

アルブレヒツベルガー

聖シュテファン教会の楽長だったアルブレヒツベルガーも多忙だっただろうが、とても熱心に対位法の指導をしてくれた。ルートヴィヒは週2回くらいレッスンに通うこともあったようだ。その知名度ゆえにハイドンだけがクローズアップされがちだが、実質的にはアルブレヒツベルガーこそが恩師だったといえるかもしれない。
以下、参考までにアルブレヒツベルガーが対位法を駆使した作品を挙げておこう。(おれはミサ曲はなかなか素晴らしいと思う)
オルガンのための前奏曲ホ短調
バッハの名前による前奏曲とフーガ ト短調
聖母マリア被昇天のミサ


ピアニスト・ベートーヴェン

作曲の勉強を続けながら、ルートヴィヒはまずピアニストとして活動するようになりました。この「まずピアニストとして」とゆーところはモーツァルトも同じです。そーゆーケースは多いです。ヴァルトシュタイン伯爵の推薦状のおかげで、ルートヴィヒはウィーンの有力貴族たちのサロンに出入りするようになりました。ルートヴィヒはこうしたサロンでその素晴らしいピアノ演奏を披露してまずウィーンの上流階級の人々を魅了していったのです。ルートヴィヒはもちろん凄いヴィルトゥオーゾでしたが、人々を感動させたのは輝かしいヴィルトゥオジティだけではなく、むしろ深くて豊かなレガートとカンタービレだったのです。深い歌心。彼のピアノ演奏の特徴はまず「レガートとカンタービレ」でした。それまでの軽いタッチのエレガントなピアノ奏法(ロココ的な)とは全く異なるものでした。
ルートヴィヒはピアノの名手としてまたたく間に名声を博しました。

ツェルニーは以下のように証言している。
「ベートーヴェンがテンポの遅い、音を長く伸ばすようなパッセージを演奏すると、聴いている人は誰でも魔法にかけられたような感動を覚えた」

ベートーヴェンは指を丸めて「滑るような」スタイルで演奏したという。指は常に鍵盤に触れていた、と記録されている。彼のピアノ作品の楽譜には指使いの作曲者自身による指示がたくさん書き込まれている。この指使いを見るとその中には明らかにレガートやカンタービレを意図したものが多く含まれていることがわかる。

それ以上に特筆すべきなのは即興演奏の素晴らしさです。その即興演奏はとにかく圧倒的だったのです。同時代の名ピアニスト、ヨーゼフ・ゲリネクはルートヴィヒの即興演奏について次のように述べている
「ああ、彼は人間じゃない。彼は悪魔だ。彼は私たちをとことん参らせてしまう。それに、彼の即興演奏はなんてすごいんだ!」
のちにプラハでルートヴィヒの演奏を聴いたトマシェクもまた次のように述べている。
「ベートーヴェンの壮麗な演奏と、とりわけ彼の即興演奏の大胆な飛躍は、不思議なことに私の魂を奥深くまで揺るがした」

ナポレオンの場合
ベートーヴェンは、まずピアニストとしてウィーンを制圧した。同じ頃ナポレオンもまた一気に世界史の表舞台に登場する。彼は1793年、イギリスの手に落ちたトゥーロンの奪還作戦(攻囲戦)を成功させ、将軍に昇進した。
これは圧倒的な勝利だった。彼はこの作戦の成功で「戦争の天才」としての才能を広く知らしめた。この戦いがナポレオンの輝かしい戦歴の出発点になった。ナポレオンはただ戦闘の指揮をしていただけはなかった。彼は自らも大砲を撃ち、激戦の最前線で兵士たちを鼓舞しながら先頭に立って戦った。この戦闘でナポレオンは右太ももを槍で刺されて大怪我を負う。

1792年のナポレオン
トゥーロンの包囲戦1793年

彼はこの戦いの後、ロベスピエールなどの庇護により、昇進を重ねてゆく。
フランス軍はもう王の軍隊ではなく、
共和国の軍隊になっていた。
フランスはヨーロッパのほとんど全ての国を敵に回した
(各国の王室はそのほとんどが縁戚関係で複雑に繋がっているから無理もない)。オーストリア(ハプスブルク)、プロイセン、イギリス、ロシア….。
彼らは自国の体制を守るために、絶対に革命政権を容認するわけにはいかなかった。

ピアノソナタ第1番ヘ短調op2-1


これから聴いて頂くピアノソナタ第1番はそんな中で書かれました。同時期に書かれたピアノソナタ第2番と3番と三曲セットで作品2として1796年に出版されました(作品1は3つのピアノ三重奏曲です)。作曲は1793年から始まっています。変奏曲などはこの時期にいろいろ書かれていますが、それらの多くは作品番号を与えられていません。やはり作品番号をつけるとなると意気込みも違ったでしょう。作曲家としての本格的デビューってことになりますからね。

1796年に出版された3つのピアノソナタ0p2

この作品2の1番がピアノベートーヴェンのピアノソナタ全32曲のスタートになったのです。ソナタ第1番はヘ短調で書かれているのがまず大きな特徴です。ヘ短調については先ほどお話ししましたね。ハ短調よりもっと暗い調です。そして楽章構成が4楽章構成になったのが大きな特徴です(作品1のピアノ三重奏も同様)。この当時4楽章構成はピアノソナタの分野ではまだ珍しい時代でした。ハイドンやモーツァルトは交響曲や弦楽四重奏では4楽章構成で書きましたが、ピアノソナタの分野では4楽章は書いてません。ベートーヴェンは当時まだサロン的な音楽だったソナタに交響曲や弦楽四重奏のような規模の大きさを持ち込んだのです。
この作品2のピアノソナタ集はハイドンに献呈されています。
ではお願いします。


アンコール
七重奏曲(1799)はベートーヴェンの生前では最も人気のあった作品の一つ。3楽章のメヌエットは当時大流行した(大ヒット✨)。これはピアノソナタOp49-2の2楽章から取られたものです。リストのアレンジです。
リスト編曲七重奏曲Op20より第3楽章)


余談:ピアノ四重奏曲変ホ長調WoO36-1

ルートヴィヒは1785年には3曲のピアノ四重奏曲WoO36を作曲している。ルートヴィヒ15歳。これが彼の初めての室内楽作品になった。3曲とも堂々たる規模の意欲作だ。
この3曲はモーツァルトのピアノとヴァイオリンのためのソナタKV296, KV379, KV380をモデルにして作られたと考えられている。実際、様々な点がよく似ているのだが、ベートーヴェンの個性もよく出ている。後の自分の作品にこの作品の素材を使っているのも興味深い。
特に変ホ長調WoO36-1は3曲の中で最も優れた作品だ。この作品は遅い序奏付きのアレグロと変奏曲の二楽章構成から成っていて、モーツァルトのKV379と全く同じ構成(これを序奏の部分を独立した楽章として3楽章構成と見る場合もあるが….ここでは序奏付きの二楽章構成として考えよう)。
この序奏に続くアレグロが「変ホ短調」であるところがまずびっくりだ(転調のための経過ではなく!)。
むむー、変ホ短調って((;゚Д゚)
しかもこのテーマがピアノソナタ第1番Op2-1と全く同一なのもこれまたびっくりなのだ(動画の5m50sから)。つまりベートーヴェンは1785年から1793年くらいまで、8年くらいこのテーマをずっと温め続けていたとゆーことになる。比べて聴いてみるとWoO36-1は疾風怒濤な感じが強い(弦のシンコペーションの使い方はモーツァルトの交響曲25番ト短調と同じ。典型的に疾風怒濤だ)。比べるとOp2-1の方がシンプルに強靭に磨かれてストイックになっていることがわかると思う。



ピアノ四重奏曲WoO36アレグロのテーマ
ピアノソナタ第1番Op.2-1第1楽章テーマ

WoO36-1のアダージョのテーマもピアノソナタ第1番のアダージョにそのまま使われている。このアダージョは変奏曲で書かれている。ベートーヴェンにとって変奏曲形式は非常に重要だった。変奏曲は独立した楽曲ではなく、交響曲、ソナタ、室内楽曲に導入され、融合されてゆくことになる。これはその最初期の試みなのだ。

ピアノ四重奏曲WoO36アダージョのテーマ
ピアノソナタ第1番Op.2-1第2楽章テーマ

余談:変ホ短調


参考までに変ホ短調の曲を下にいくつか挙げておこう。
バッハはこれを平均律で使っているが(全調を使うのが目的だから…)、古典派ではあるかもしれないが、おれにはちょっと見当たらない。だいたいがロマン派以降で、しかもけっこう珍しい。
フランスバロックのシャルパンティエは、
変ホ短調を「恐ろしい」と言ったようだ。
どの近親調もフラットが多くて、解放感のある爽やかさとは違ってしまう。
以下の作品を聴いてみると、似たような感覚が漂っていることに気づくと思う。バッハからヤナーチェクまで全て!
落ち着いた中間色で描かれる哀しみ…なんとも微妙で曖昧なこの色合いは、「二元論」で物事を説明できなくなったロマン派以降じゃないとチョイスされない調だと言えると思う。これを初期の段階でソナタ形式のアレグロの主部に持ってくるベートーヴェンの感覚はものすごく特殊だとゆーことがよくわかる。

バッハ:平均律クラヴィーア曲集1巻8番
ショパン:ポロネーズ2番
ショパン:前奏曲Op10-6
ショパン:前奏曲Op28-14
リスト:カンツォーネS162-2、
リスト:ピアノ小品S692n
フォーレ:夜想曲Op33-1
ラフマニノフ:楽興の時
ラフマニノフ:音の絵Op39-5
スクリャービン:ソナタ9番「黒ミサ」
スクリャービン:前奏曲Op16-4
プロコフィエフ:交響曲第6番
ヤナーチェク:ソナタ1.X.1905


余談:ハ短調の交響曲楽章の草稿 Hess298

ベートーヴェンが書いた交響曲のスケッチ(111小節)が残っている。ヘスは1791-93年頃のものだと推定している(ちょうどウィーン進出の頃)。スケッチは「シンフォニア」と題され、ピアノ譜の形で書かれている。このテーマはピアノ四重奏曲WoO36-1、ピアノソナタOp2-1と同じものだ。彼はこのテーマに強くこだわっていたことがよくわかる。この交響曲のスケッチはピアノ四重奏と同様にモーツァルトの交響曲25番ト短調のようなシンコペーションが特徴的でハイドンやモーツァルトの「疾風怒濤」的な作品の雰囲気を纏っている。
この力強いテーマがOp2-1に結実するまでのピアノ四重奏→交響曲→という行程を辿るのは有意義なことだと思う
この時期のベートーヴェンが既にハ短調の交響曲を試みていたということもまた注目に値するだろう。
復元演奏を試みた動画が複数上がっているので、雰囲気を掴みたい方は参照するといいだろう↓
ピアノアレンジ
室内楽アレンジ
オーケストラアレンジ



余談:アルブレヒツベルガーのトロンボーン協奏曲

アルブレヒツベルガーの曲はあまり知られていないが、トロンボーンのための協奏曲だけは別だ。ヴァーゲンザイルの協奏曲レオポルド・モーツァルトミヒャエル・ハイドンの協奏曲と並んでトロンボーン業界では古典派協奏曲の貴重なレパートリーになっている(どれもアルトトロンボーンのための作品だ)。いわゆる「業界の有名曲」。そのどれもが古典派初期の作曲であることが興味深い。

トーク動画の合言葉

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