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ストラヴィンスキー:狐


1922年、セルゲイ・ディアギレフは前年の「眠りの森の美女」の大失敗で意気消沈していた。
バレエ・リュスは解散の危機にあった。
借金取りに追われる日々を彼はじっと耐えていた。
彼は電話に出ると「ディアギレフさんは留守です」と居留守を使い、外出するときには身を潜めながら抜き足差し足で逃げるようにこそこそと外に出る。そんな日々だった(^◇^;)
それでも一座を維持するためには興行を打たなければならない。ディアギレフは奮起して動き始めた。まずディアギレフの頭にあったのは1913年からずっとあたため続けているストラヴィンスキーの「結婚」だった。
ディアギレフは1922年4月にニジンスキーの妹・ブロニスラヴァ・ニジンスカに会って「君に結婚の振付を任せたい」と言った。ニジンスカは感激した(兄がやるはずだった演目!)。ディアギレフは早速ニジンスカをナターリャ・ゴンチャロワ(結婚の美術担当)のアトリエに連れていき、早くも「結婚」の制作がスタートした。ディアギレフは5月に初演したかったが、 ニジンスカは1ヶ月では無理だと言った。そりゃそうだ。
これを受けてディアギレフはポリニャック公爵夫人の邸宅の一室で上演するために書かれたストラヴィンスキーの小規模で短い「狐」を代わりに上演することにした。これをディアギレフは譲り受けたのだ。ディアギレフは「狐」に関して嫉妬で荒れ狂ったと言われている….その「狐」を譲って欲しいとポリニャック公爵夫人に頼む時には、ちょっと抵抗があったかもしれないなあ。夫人は「狐」の上演を許可してくれただけでなく、借金とりに追われるディアギレフのために金銭的な援助もしてくれたそうな。やさしい。
ニジンスカは「狐」の仕事を始めた。ストラヴィンスキーのスコアは例によって超難しかったが、彼女は三週間足らずで振付を完成させた。心配していたディアギレフはニジンスカの仕事ぶりを見てすぐに安心し、すっかり満足していた。
こうして作られたのが「狐」である。

初演は1922年5月パリオペラ座


バレエ・リュスの「狐」



振付はブロニスラヴァ・ニジンスカ。
ニジンスカは自身で狐を踊った。
振付&主演だった。

指揮はストラヴィンスキーの盟友、エルネスト・アンセルメが担当した。

エルネスト・アンセルメ(1924) 
マン・レイの撮影

この初演についてストラヴィンスキーは「本当に完璧」だったと述べている。ニジンスカの振付については「 ひらめきにあふれ機知と皮肉に富むもの」、彼女が演じた狐についても「 忘れがたいイメージを生み作り上げた」と述べて称賛している。
初演でストラヴィンスキーの「狐」はあまり理解されなかったようだが、今ではストラヴィンスキーの傑作のひとつとして高く評価されている。

「狐」はアファナシエフのロシア民話集のお話が元になっている。動物の民話は世界的に人気があるが、ロシアの民話もまた動物が出てくるお話の宝庫だ。

(岩波文庫の「ロシア民話集(上)」の「猫と雄鶏と狐」とゆーお話がそれだと思う。ストーリーも登場キャラもちょい違うが、たぶんこれでいいんじゃないかな….)

あらすじ
雌鳥が枝の上で鳴いている。雌鳥は狐におびき寄せられて2回捕まってしまうがそのたびに猫と山羊が助けてくれる。猫と山羊は狐を懲らしめ、しまいには狐の喉を掻き切ってしまう(ロシアの民話はしばしばこんな風に容赦なく残酷だ)。雌鶏と猫と山羊は喜んで歌い踊る。

副題は「歌い、演じられるバーレスク」
4人のダンサー(狐、雌鳥、猫、山羊)によるバレエ。ストラヴィンスキー自身の台本。
「狐」は「春の祭典」の翌年の1914年頃から、「結婚」と同じ時期に作曲が進められた。当時のストラヴィンスキーのスケッチ帳は「結婚」と「狐」の旋律の書き込みでいっぱいだった。「春の祭典」以降のストラヴィンスキーの音楽は簡素化・縮小化の方向に向かうが、逆に「ロシアへの思い」はむしろ深まり、ロシア的な作品を集中的に書いていた(結婚、狐、兵士の物語マヴラプリバウトキ….)。音楽の簡素化・縮小化は第一次大戦で大編成オーケストラの演奏が困難になったとゆーリアルな現実に起因するが、「ロシア愛」の深まりも戦争に起因するところが大きかった。戦争や革命で彼の愛国心は揺り動かされ、望郷の哀しみの中で彼は「ロシア的なるもの」に没頭していたのだ。だから「狐」は「結婚」や「プリバウトキ」「兵士の物語」と音楽的に共通点が多い。

オーケストラの編成は、大きな室内楽と言った方がいいくらいかもしれない
(兵士の物語より少し大きい程度)
Fl(picc)1、Ob(Ehrn)1、Cl1、Fg1、Hrn2、Tpt1、ツィンバロンまたはピアノ、Timp1、Perc.1、Vn2、Va1、Vc1、Cb1。
これに男声4人(テノール2&バリトン2)の独唱が付く。
ストラヴィンスキーはこの作品が「オペラと見間違われてはならない」と考えていた。
この独唱の4人には登場キャラは割り振られていない。ストラヴィンスキーは歌手が登場する動物と同一視されないように作曲した。

この作品ではツィンバロンが非常に効果的に用いられる。
この時期のストラヴィンスキーはツィンバロンにとても興味を持っていた。自分で購入して、練習までした。1918年の「11楽器のためのラグタイム」にもツィンバロンは使われている。「結婚」にもツィンバロンを入れようと考えたこともあった(1919年版)。


美術担当のラリオーノフは 丸太小屋、雪の積もった白樺の木のシンプルなセットを作った(このセットデザインは、ディアギレフが最初のスケッチを描いた)。衣装は動物の着ぐるみのようなものだった。こーゆーのをやらせたらラリオーノフの右に出るものはなかった(キキモラ

ラリオーノフによる「狐」のセットデザイン(1922)
ラリオーノフ「狐」のデザイン

ロシア語

初演のアンセルメのステレオ録音が聴けるのは幸いなことだが、英語による歌唱なのが惜しい。
ストラヴィンスキー自身の指揮の録音も残念ながら英語歌唱。この辺はリアリスティックな判断が行われたのかなと思う。たしかに英語人口の方が多いってこともあるだろう….
(初演もフランス語だった)
今はロシア語歌唱が主流だと思うが、少し前まではもう少し鷹揚だったとゆーことかな。外国映画をオリジナル言語&字幕で観るか吹き替えで観るかとゆー問題と似たようなところはあるかもしれない。
でも、特にストラヴィンスキーの「狐」や「結婚」とかになると、その音楽がロシア語によって導き出され、分かち難く結びついているので、おれはできるだけロシア語で聴きたいと思う。その方が楽しくて気持ちがいいから。
例えば、「3つの小さな歌: わが子供時代の思い出」(1913)
これのキャシー・バーベリアンとのレコーディングのリハーサル録音が残っている。これが滅法おもしろいのでぜひ聴いてほしい。
ストラヴィンスキー自ら歌唱(特にロシア語)の指導をキャシーにしていて、これが実に興味深いのだ。これを聴くとストラヴィンスキーのリズム感がいかにロシア語と分かち難く結びついているか本当によくわかる。このリハーサルを聴いてから「結婚(1923)」「狐(1922)」「プリバウトキ(1914)」などを聴くと、すごく納得させられる。

「狐」は歌いだしの"ky дa"の調子のいい繰り返しがとても印象的なのだが、ストラヴィンスキーの自演の録音はこれを"テャ!テャ!"みたいにしていて(ロバート・クラフトもそんな感じ)、その気持ちもわからんでもないが、おれはちょっとがっかりしてしまうのだ。
英語の"Oh where"もしっくりこない(アンセルメ盤)。
ラミュの仏語訳の”ou ça”(ブーレーズ盤)がおれはそれでも一番違和感ないかも。

ニジンスカ

ブロニスラヴァ・ニジンスカ(1891-1972)は ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹である。1909年 ニジンスカは兄を追ってバレエ・リュスに入った。彼女は「ペトルーシュカ」や「牧神の午後」に出演し、兄のニジンスキーの振付を手伝った。それはほとんど共同作業のようなものだった。彼女は振付にも興味があったのだ。


ブロニスラヴァ・ニジンスカ(1908)
「牧神の午後」のニジンスキーとニジンスカ


ニジンスキーの退団後、第一次大戦の頃はロシアに戻って、キエフでバレエを教えていた。 バレエリュスの後期の代表的なダンサー、セルジュ・リファールはこのときの彼女の教え子だった。1920年に彼女は ロシアを離れまた再びバレエリュスに戻った。 彼女は振り付けの確かな才能を持ち、モダンな感覚を持っていた。彼女は現代的でファッショナブルなバレエで大衆にアピールすることもできた。この辺は兄とだいぶ違う。ディアギレフは彼女が男だったならいいのにと思っていた。これは女性蔑視的な色合いも感じられるが、ゲイ的な欲望も感じられる。どっちだろう….
彼女は兄と同様に両性的な人物でもあった。

バレエ・リュスのニジンスカの時代は女性の時代でもあった。ニジンスカはナターリア・ゴンチャロワ(結婚)、マリー・ローランサン(牝鹿)、ココ・シャネル(青列車)と組んで素晴らしい作品を発表し続けた。彼女はバレエ・リュス初の女性振付師だった。ゲイカルチャーど真ん中のバレエ・リュスとしては異例とも言えるし、バレエ・リュスだから実現したとも言えるかもしれない。



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