リスト・ピアノチクルスvol.1
2021/07/31 長野市竹風堂大門ホール
バリトン:高橋宏典 ピアノ:山田えり子
フランツ・リストを語ることは非常にやっかいです。リストは音楽的にも人間的にもあまりにも複雑で巨大すぎて、とても難しいのです。
まず、そもそも国籍の点で難しさがあります。リストって何人なのか確信を持ってパッと答えられますか?みなさん、どうですか?ショパンはポーランド人!バッハはドイツ人!ドビュッシーはフランス人!ラフマニノフはロシア人!みたいに迷いなく答えられない人も多いかもしれません。
ハンガリー生まれのドイツ系だったリストはアイデンティティの確立の点でそもそも困難がありました。東欧の独立運動が燃え盛った時期です。学校の世界史で習うんですが、いわゆる「諸国民の春」ですよね。
リストは超絶的なピアニストで作曲家で、指揮者であり、教育者でもあり、評論家でもあり、宗教家でもあり、社会運動家でもあり思想家でもありました。そしてまたものすごいイケメンで魅力的な性格(いい奴)で、稀代のプレイボーイでもありました。ヨーロッパ中の女性がリストに夢中になって、リストのリサイタルでは熱狂した女性たちが失神してバタバタ倒れました。リストは、時には自分も演奏中に失神したりしてた(リストの場合は血管迷走神経発作とゆーやつだったらしいです...)。弾く方も聞く方も失神するとゆーすごい状況ですね。失神リサイタル(°_°) とにかくスケールが全然違う。リストに比べられるような人は、一人もいません。ショパンもまあイケメンでモテたけれど、リストみたいに熱狂的社会現象になるようなモテ方じゃなかった。
リストは1811年10/22当時ハンガリーの西橋ドヴォリャーン(現ライディング)のドイツ系の家に生まれました。ドイツ式の言い方だとフランツ・リスト、ハンガリー式だとリスト・フェンレンツになります。
↑青い点がライディングです。ライディングから車で北に25分ほど行くとハンガリーのショプロンという街があって、ショプロンからさらに車で一時間ほど北に行くとウィーンです。そんな位置関係の街でリストは生まれたんですね。ハンガリーとオーストリアが渾然一体となったようなところです。
ライディングは、エステルハージ家の所領でした。この地域の住民の過半数がドイツ語を話す人々でした。そもそもこの時期のハンガリーの公用語は、オーストリアの支配下だったのでもちろんドイツ語でした(チェコも同様です)。ハプスブルクですよね。こーゆー環境で生まれた芸術家ってのは、アイデンティティの点での難しさを生まれつき背負うことになりがちです。例えばカフカなんか典型ですね。カフカもプラハで生まれますけどユダヤ人でもあったので、アイデンティティの確立が困難でした。
自分はチェコ人だとゆー実感を得られないまま常にどこか居心地の悪さを感じていました。カフカは教育はドイツ語で受けたけれど、ドイツ語もなんとなくずっと不自由感があって、チェコ語も同じようになんとなく不自由感がある。どこか中途半端なんです。こーゆー中途半端な状態の不安感がカフカの作品によく表れているでしょう?音楽家だとマーラーもそうですね。マーラーもチェコ生まれのドイツ系ユダヤ人です。
チェコを代表する音楽家のスメタナも公用語のドイツ語で育ったので実はチェコ語は喋れなかった。
スメタナのチェコ語はあとから学んだものです。シベリウスのフィンランド語もそうですね。これもあとから学んだもの。シベリウスはスウェーデン語が母語だったんです(フィンランドは長くスウェーデンの支配下にありました)。そーゆーことは極めて19世紀的で、また極めて近代的な問題でもあります。その点ではショパンは幸せな人だったと言えるかもしれません。確固としたポーランドのアイデンティティがあって、なんの疑いもなく常に燃えるような愛国心でポーランドを思うことができました。そして、それこそが彼の心の拠り所で核心だった。ここのところがショパンに比べてリストは脆弱だったと言えるんです。身体が弱いショパンも、音楽で祖国の革命の先頭に立つことができた。
ショパンにとってポーランド人としてのアイデンティティは自然に備わったものだったけれど、リストはそうではなかった。出自がこーゆー感じだし、ヨーロッパ中を走り回るコスモポリタンだったですから。リストはそーゆーショパンのことが羨ましかったかもしれないですね。そして後年、自分のアイデンティティを確立しようとして、自分の中のハンガリーを発見してゆく、同時にまたカトリック信仰にのめりこんでゆくわけです。リストのアイデンティティとゆーのはショパンと違って苦しみながら人工的に獲得していったものとも言えるんです。
リストの父アダムはエステルハージ家に仕える役人でした。エステルハージ家はヨーゼフ・ハイドンが長く仕えたことで有名です。ここの殿様は芸術に理解があたんです。こうした環境の中でリストの才能は早くから発揮されて注目された。1820/11/26ポジョ二(今のスロヴァキアのブラティスラヴァ)でリスト最初のピアノ演奏会が開かれて大成功します。エステルハージ公を含む5人のハンガリーの貴族たちから6年間にわたる奨学金が出されることになったんです。リストはこれを機会に一家でウィーンへ出ることになりました。もう子供時代に外国に出ちゃったわけです。ショパンは多感な青少年年時代をちゃんとポーランドで過ごしてるからだいぶ違うんです。1822年から一家はウィーンで暮らすことになります。
大都会ウィーンで一家で暮らすには奨学金はちょっと不足していて、当初一家は生活に困ったらしいですが、でもリストの才能がそれをすぐに解決しました。ハンガリーの貴族たちの推薦状も物をいって、貴族の前で引く機会が増え、噂はウィーン中に広まっていきます。リストのギャラは上がっていって、金銭の心配はすぐになくなりました。
ウィーンではツェルニーとサリエリのレッスンも受けました。ツェルニーとサリエリはリストの才能をしっかり見抜いていました。
リストはローティーンの頃からヨーロッパ中をツアーして回りましたが、肉体的にも精神的にも非常にハードな毎日でした。そんなことをしているうちにリストは具合が悪くなってしまう。病んでしまったんです。芸術のためではなくて生活費のために自分が音楽をやっていることや、上流階級のサロンの雰囲気に嫌悪感を持つようになって、その上ものすごい失恋をしたりして、それで引きこもって厳格なカトリックにますます没頭し、読書にのめりこむようになるんですね。そもそも思春期で難しい時期だし、この時点でリストは本気で出家しようとまで思いつめていたんです。そして後年本当に聖職者になるわけですが...15歳のときお父さんが亡くなってしまう。リストは15歳でお母さんを抱えて、いきなり一家を背負って立つことにしまうわけです。とにかく家族のために演奏して稼がなければ....
リストは早くからピアノだけに集中してしまったので、中等以上の教育を受けていなくて、それがコンプレックスだったとゆーこともあって、それで読書に激しく没頭してゆくことになるわけです。家柄も貴族の使用人の家の出で、そーゆー階級のコンプレックスもありました。教養を身につけるべく古典から同時代の作品まで文学から思想書までとにかく手当たり次第に読みまくった。この時代にものすごい文学青年になって、それからパリのサロンでバルザックとかユゴーとかデュマとかジョルジュサンドとかものすごい人たちと交流するようになってますます文学にのめり込んでいくわけ。ジョルジュ・サンドと親しかったのが特に大きいでしょうね。
サンドとは親友というか同志というか、友達以上恋人未満みたいな関係でしたから。ここからの影響は大きい。
バルザックはジョルジュサンドとリストとリストの愛人マリー・ダグーの三人をモデルにした小説「ベアトリックス」を書いています。赤裸々な暴露小説っぽい作品です。この小説を読んだマリーは激怒したそうです。リストは特に反応せず冷静にマリーをたしなめていたようですが....。この小説はバルザック全集の中にしか入っていないのでちょっと手を出しにくいですが、ピアノの人には必読の小説です。図書館には必ずあるでしょう。
バルザックはリストに「ランジェ公爵夫人」を献呈しています。息苦しくなるような凄いラブストーリです。
「ランジェ公爵夫人」はジャック・リヴェット監督が映画化していて、こちらも素晴らしいです。
ショパンはサンドの愛人になりますが、文学や思想の方向には行かなかったですね。ひたすら音楽固有の抽象的表現を徹底しました。そーゆー点でショパンは古典主義者とも言えるんです。リストやシューマン、ベルリオーズといった文学的内面性も合わせ持つ音楽を好んで書いたロマン主義的的な人たちとは全然違った。対してリストは徹底的にロマン主義者です。文学も宗教も哲学も政治思想も全て呑み込んで音楽に取り込もうとした。19世紀ってのはそーゆー時代だったんです。その極端な代表例がリストなんです。特にリストは文学と音楽の融合を目指しました。それが「レ・プレリュード」をはじめとする交響詩や「ファウスト交響曲」などに繋がっていくんです。この方向がいわゆる新ドイツ派ですね。それはリストから始まったし、いつもリストがその中心でした。ワーグナー、リスト、ベルリオーズとかですね。その流れに対立していたのがブラームスを中心とした流れです。つまり音楽に文学的内容を持ち込まずに音楽だけで自立したいわゆる絶対音楽(交響曲やソナタなど)を最高のものとしていました。ショパンも音楽に文学を持ち込まなかったので、どっちかというとこちらですね。そうやって単純かつ乱暴に言い切ってしまうとリストは革新で、ブラームスは保守ということになるんですが、もちろん実際にはそんなに鮮明にくっきりとわかりやすくないんです。歴史的に流れをわかりやすくするために一応そーゆー風に言われてます。初歩的な音楽史ではそう説明するしかないんです。授業が終わらないから、複雑なところに入り込むわけにいきません(実はその複雑なところこそが豊かだし、おもしろいんですけどね)
リストは特にワーグナーのローエングリンとタンホイザーを理想としていました。この流れのなかでリストの標題音楽・交響詩というものが確立していくわけです。リストのこうした音楽を理解する上で重要な事の一つに英雄崇拝の思想があります。ニーチェの「超人」の思想に近いものです。リストは当時の社会的な運動(サン=シモン主義)の中で、芸術家には社会的な使命があると考えていました。芸術家には社会的な使命があるということですね。の考え方です。さらにここに「英雄崇拝」という考え方が加わっていくわけです。だからリストの標題音楽は英雄と結びつくことが多いんです。例えばプロメテウスもそうだしマゼッパもそうです。つまりリストはドイツの古典主義の天才たちやギリシャ神話の英雄などへの崇拝と英雄思想を結びつけていったんです。例えばワーグナーはここに古いドイツの神々たちを持ち出してきたわけです。一般庶民は英雄(天才)の邪魔しちゃいけないとゆー感じになりがちな考え方。国家中心主義思想もそうですね。これは極めてドイツ的な思想のあり方なのですが、この思想が無茶苦茶に極端で野蛮なところまで暴走するとナチスの思想にたどり着いてしまう。今のドイツはもちろんそんな感じは全然ないですけど、民族の思想的な基盤として、確実に地続きなところはあるのは押さえておいた方がいいと思います。
リストは、まあ、そういう人なので文学に題材を取った音楽も多いし、もちろん歌曲も多い。今年のチクルスは歌曲もたっぷり聴いていただきたいと思います。
リストの歌曲はそのほとんどがドイツ語です。リストにとってドイツ語が母語になります。でも、会話はフランス語が一番しっくりきてたようですね。リストはフランス語もイタリア語も普通にしゃべれましたのでフランス語の歌曲やイタリア語の歌曲も、まぁ後半イタリア語のもの、次の次にフランス語のものも聞いていただきますけれども、やっぱりドイツ語が多いですよね。会話と詩は違うんですかね。そしてまぁ19世紀のヨーロッパの芸術家にとってはみんなそうかも知れませんけれども、リストもゲーテを凄く尊敬してました。特にファウストですよね。ベルリオーズもシューマンもメンデルスゾーンもリストもワーグナーも、とにかくファウストに夢中だった。
↑のファウストの新訳、絶対に読みたいんですが、なかなか手が出ません。このチクルスやってるうちには手を出そうかなと思ってます。
バーンスタインがヤング・ピープルズ・コンサートの「リストと悪魔」はピアノ弾く人は必見です。バーンスタインがリストについて語っていることを聞いて欲しい。すごい説得力です。まあ、バーンスタイン自身が極めて「リスト的」な人物だったのだから、説得力があって当然でしょう。
(この動画は字幕が付けられるのでかなりのところまで理解できます。いやあ、いい時代になりましたねえ)
リストはベルリオーズに勧められて「ファウスト」を読んで以来ずーっと「ファウスト」に魅せられ続けることになり、リストの最高傑作「ファウスト交響曲」を完成させました。でもこれはあまりピアノの方の方々は聞かないんだろうな。いや、だいたいリストのピアノ曲以外の物を聴くのがあまりないって方の方が多いかもしれないですね。
ファウスト交響曲は本当にものすごい傑作です。どうしてもっと聴かれないのか、本当に不思議です....。ぜひもっと知られるようなって欲しい。ご存知の方、いらっしゃいますかね。ファウスト交響曲大好きなんて方はいらっしゃらないかな。どうだろう。
リストの歌曲(ドイツ語)
さて、前半はドイツ語の歌曲を聴いてみましょう。後半はイタリアです。
#おお、愛しうる限り愛せ "O lieb so lang du lieben kannst" S.298[フライリヒラート]
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