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若きベートーヴェンチクルス04

2024/07/15
竹風堂大門ホール
ピアノ:川口直希



1790年代後半になるとウィーンの音楽界ではベートーヴェンの名声は作曲家としてもピアニストとしても完全に確立されていました。弟子入りを希望する貴族の子弟が後をたちません。楽譜の収入もけっこうあったし、それに演奏のギャラなども合わせると、もう十分に安定した状態にありました。
ベートーヴェンは充実した作品(3つのヴァイオリンソナタOp12、6つの弦楽四重奏曲作品18 、七重奏曲や、ピアノと木管のための五重奏曲などなどなど)を次々に発表していきます。交響曲の作曲への試みも既にスタートしていましたし、記念碑的なピアノ協奏曲第3番ハ短調もこの時期には作曲がスタートしています。ベートーヴェンの「初期の終わり」の始まりであると同時に「中期の傑作の森への入り口=始まり」とも言える大事な時期の始まりです。
今日聴いていただく作品はちょうどそんな時期に書かれたものです。

1797年、イタリア侵攻を成功させたナポレオンの勢いは止まらず、オーストリア軍は惨敗を重ねました。無敵のナポレオンはフランスの偶像になっていました。その年の秋にはフランス軍はオーストリアの国境のチロル近郊まで迫ります。ウィーンの近くで戦闘が頻発するようになると、基本的にのんびりした快楽主義的な性質のウィーン市民もさすがに危機感を抱き始め、愛国的な雰囲気が一気に高まりました。義勇軍も組織されます。皇帝も市民に武器をとるように要請しました(徴兵じゃないところがポイントです!)

ウィーンの義勇兵たち1797

絵で見る限りではフランスの義勇兵に比べてウィーンの義勇兵たちは身なりもきれいでお洒落だ。装備もちゃんとしてるし…やっぱりウィーンは安定してたんだなあ。ウィーンの義勇軍は露営地で近くの村の娘たちとダンスパーティーをしたりとか(ウィーン人ですねえ!)、意外と楽しみもあったようです。フランス軍は猛烈なスピードで行軍するから夜は疲れていてダンスどころじゃなかっただろう(基本的に兵士たちは栄養状態も悪かったから疲労もすごかったはずだ)。何しろ敵地での露営ですからそんなことはできなかったでしょう…..

ベートーヴェンはウィーン市民について
「ビールとウィンナ・ソーセージを手に入れることができるなら、反乱を起こすことはしないと思う」
と言っています。でも、フランス革命がヨーロッパ諸国に与えた影響は非常に大きいものでした。ヨーロッパ諸国の人たちが「国家」「国民」を自分のこととして意識するようになったんです。人々はフランス革命で愛国心やナショナリズムに目覚めたんです。のんびりしたウィーンの人たちですら、ものすごいナショナリズムに燃え上がったのですから、凄いです。ウィーンは町中に義勇兵募集のg張り紙が貼られたそうですよ。
ベートーヴェンはこの時の義勇軍のために「ウィーン市民への別れの歌」WoO121軍歌「オーストリアの戦いの歌」WoO122を作曲しました。こうした愛国的な曲でベートーヴェンの名前はウィーン市民に更に広く浸透することになったのです。この時にはハイドンも愛国的な「皇帝讃歌(神よ、皇帝フランツを守り給え)」を書きました。みなさんよくご存知の今のオーストリアの国歌ですよね。ナショナリズムの時代の始まり。そーゆー時代でした。
ベートーヴェンは革命の「自由・平等・博愛」の精神は心から大切に思っていました。そしてナポレオンのことも大いに尊敬していました。
でも、ベートーヴェンは同時にオーストリアを愛する一般市民で、ごくふつうに愛国者でもあったんです。彼は貴族の友人も多かったし、オーストリアの君主制も普通の感覚で受け入れていました。日本人の我々も天皇制をごく自然に受け入れて生活してますよね。イギリスの人たちも同じです(イギリスは17世紀からずっと立憲君主制です)。特にベートーヴェンは宮廷楽師として少年時代からずっとハプスブルク家に仕えてきたのですから、ハプスブルク家への思いも一層深いものがあったでしょう。彼は自分のことを「共和主義者」であるなどと公言したことは一度もありません。ベートーヴェンは専制的で強圧的なことは大嫌いでしたが、教養ある貴族など上流階級の人々のことが好きで、逆に無学な労働者階級を軽蔑する発言をすることもありました(こういった傾向は当時としては普通のことで、特に驚くほどのことではありません)。モーツァルトもフリーメイソンだったから「自由平等博愛」の精神を尊重していたけれど、貴族社会のエレガンスや教養の高さも同時に心から愛していた。ベートーヴェンもモーツァルトと同じだろう。ベートーヴェン自身は政治家でもないし活動家でもないし思想家でもないのですから、思想的に矛盾があったり首尾一貫していなくても当たり前のことです。

音楽家なんですから。
彼は音楽で「自由平等博愛」を表現したんです。そう、暴力ではなく、一滴の血も流さずに、その音楽で全世界にその思想の尊さを訴えかけたんです。
フィデリオで、そして第九で…..
だからこそ尊いのです。

余談:カンポ・フェルミオ条約


1797年にオーストリアの敗北を受けてナポレオンは「カンポ・フェルミオ条約」をオーストリアと結び、フランスは多くのオーストリアの領土を獲得した。ウィーンの義勇軍は士気は高かったですが、情勢が講和の方向になるとフランス軍は撤退したので結局一発の弾丸も撃たずに終わったらしい。そーゆーところもまたなんだかウィーンっぽい感じがしておもろい。
これで第一次対仏大同盟は終結。フランスはこの条約でベルギーを獲得し、ライン河まで領土を拡張させる。そしてイタリアにおけるフランスの従属国(チザルビーナ共和国)の建国も認めさせた(首都・ミラノ)。
この条約は、フランスとしては不満が残るものだった(もちろんオーストリアにとっては屈辱的な内容だが)。しかし、王党派のクーデターのために帰国を急がなければならなかったナポレオンは本国の許可を得ないまま「独断で」条約を締結してしまう。ナポレオンの専制的な部分が出てきた。そーゆーナポレオンに不安を感じながらも本国政府は 国民の凄まじい高いナポレオン人気もあって、ナポレオンの行動をしぶしぶながらも認めざるを得なかった。実際、領土も増えたし、彼が戦利品として持ち帰ってくる高価な美術品などのおかげで、すっからかんだった国庫がだいぶ潤ったとゆーこともある。強く意見することができないのだ。


ロンド・ア・カプリッチョ ト長調
「なくした小銭への怒り」Op129


さて、一曲目ですね
オーパスが129(第九がOp125!)なので、まるで後期の作品みたいですけど、実はこの曲は1795年の作曲なので初期の作品なんです。出版の都合でそうなってるだけです。「なくした小銭への怒り」という変なタイトルは通称です。でも小銭を無くして怒るなんていかにも気難しいベートーヴェンがやりそうなことでおもしろいですが、そーゆー逸話は特に残っていません。曲の中盤から音楽がすごくいら立ってくる感じになるのは確かですけどね。これは技巧が前面に出たヴィルトゥオーゾ作品で、演奏ははっきり言って「困難」です(^^;;
曲の正式なタイトルは、「奇想曲的なハンガリー風のロンド」です。めっちゃハンガリー風です。
ハンガリーとオーストリアは長く一体だったので、ハンガリーの文化はウィーンに深く根付いていました。ベートーヴェンがちょうどこの時期に発表したピアノ協奏曲第2番のフィナーレもハンガリー風ロンドです。「ハンガリー風」はこの時期の彼のマイブームだったのかもしれませんね。

そうそう、ハイドンもハンガリー風ロンドを書いています。
ピアノ協奏曲ニ長調Hob.XVIII:11 の第3楽章
ピアノ三重奏曲ト長調 Hob. XV:25の第3楽章

ベートーヴェンはものすごく気難しくて怒りっぽい人で、すぐに喧嘩してしまう困った人でした。ベートーヴェンの理不尽な怒りによって絶交状態になった人も多いです。それも結構激しくて、お手伝いさんが気に入らないことをすると物を投げつけたりするみたいな暴力的な面もありました。
でもすごく愛情深く、優しくて冗談好きな陽気な面もあったんですけどね。
とても芸術家らしい人だとゆーことですね。

ベートーヴェンはこの曲を途中まで書いてそのまま放置していて、ベートーヴェンの死後に、校訂者(おそらくディアベリじゃないかと言われてます)によって補筆完成されて出版されています(1828年ウィーンのディアベリ社より)。

ちなみにこの曲の自筆譜の最後のページには交響曲第1番の素材が書き込まれています。

では聴いてみましょう。お願いします。


今日はソナタ5番と6番を聴いていただきます。ベートーヴェンは前回までに聴いてきたソナタ4番までの4曲でピアノソナタの拡大・拡張を試みてきました。それで5番のソナタから明らかに方向を変えたんです。様々な要素をてんこ盛りにして拡大するのではなく、5番からは無駄を省いて合理性を追求するようになってきました。おそらくベルリン旅行で書いた2つのチェロソナタがひとつのきっかけになったのだろうと思います。チェロソナタは二曲とも2楽章構成でコンパクトに構成されているんです。これの作曲で何か思うところがあったんでしょうね。前回聴いていただいた4 番のソナタは拡大化の頂点のような音楽だったんですが、その雄大な4番を書きながらも、ベートーヴェンは正反対のコンパクトで無駄のない5番のソナタを書いていたんです。ベートーヴェンはこーゆー正反対のベクトルを持つ作品を同時進行で書くことがよくありました。


ソナタ第5番ハ短調Op10-1
5番のソナタは「小さな悲愴」と呼ばれることもあります。悲愴ソナタと同じくハ短調ですしね。作曲技法的にも悲愴ソナタと共通するところもありますからね。
急緩急の三楽章形式です。メヌエットとかスケルツォのような楽章が欠けています。 非常に無駄がなく、簡潔にまとめられています。引き締まったプロポーションです。そのかわり、スケルツォの性格は3楽章に入ってます。形式の中身も展開部をカットしたり、再現を簡潔に済ませたり、とても経済的です。
いかにもベートーヴェンのハ短調らしい劇的で情熱的な音楽ですが、作りはものすごく緻密で無駄がありません。この方向性を極限まで推し進めたのが運命交響曲ということになるんです(その息苦しいほど無駄のない構築)。

2楽章は型通りの歌うアダージョです。プレスティッシモの3楽章はかなり短くてつむじ風のように一気に進んで意外なほどあっけなく終わってしまいます。楽章のバランスがアンバランスなところがおもしろいと思います。
では聴いてみましょう


プードルの死に寄せる哀歌 WoO110

今日もまたこの時期に書かれた歌曲を一曲聴いてみましょう。ベートーヴェンの歌曲の作曲がすごくノってきた頃です。この歌曲はタイトルだけ見るとちょっと軽い感じに見えるかもしれませんけど全然そんなことはなくて、かなり深い音楽です。
作詞家は不明ですが、たぶん、この詩を書いた人のわんちゃんが死んじゃったんでしょうね。やっぱりかわいがっていたわんちゃんとか、猫ちゃんが死ぬってとんでもなく悲しいことですよね。ただひたすらに純粋で愛らしい存在だけにその悲しみもまたとても深いものです。ベートーヴェンはそれを決して軽くとらえませんでした。これを非常に心のこもった音楽に仕上げました。
ではお願いします



休憩

ソナタ第6番へ長調Op10-2

6番のソナタはユニークな作品です。ソナタ2番とかなり似てます(冒頭なんかそっくりだ)。全体にすごく軽快でスケルツァンドな感覚で書かれていて、そしてゆっくりな楽章(緩徐楽章・歌謡楽章)がありません。アレグロとアレグレットとプレストだけなんです。
アレグレットはちょっと不思議な音楽で、聴いた感じはスケルツォっぽくないですけど、事実上のスケルツォです。
この緩徐楽章のない構成は交響曲第1番に似てます(この交響曲の第2楽章は一応緩徐楽章的ですが、ゆったり歌う音楽ではありません)。

ここからは私見だが….ベートーヴェンは、ソナタ全体をスケルツォな感覚で書いたのだろうと思う。だから全体のバランスを考えて緩徐楽章をカットして、スケルツォ楽章にあえて歌う感覚をちょっと加味したのだと思っているんだけど、どうかなあ(^◇^;)
ゆっくりな楽章がない代わりに全体に「歌」の要素を満遍なく散りばめていると見ることもできるだろう。

フィナーレのプレストはソナタ形式で書かれているのに、何と第二主題がない。単一主題のソナタ形式!うーん、シンプル!
では聴いてみましょう

カーテンコール
アンコール



余談:カンポ・フォルミオ条約、ラファイエット、フィデリオ


ナポレオンやフランスには悔しい面もあったカンポ・フォルミオ条約だが、ベートーヴェンにとってこの条約は大きな意味を持つことになった。ナポレオンはこの条約でオーストリアによって収監されていた英雄ラファイエット侯爵の釈放を要求し、ラファイエット侯はこの条約でようやく解放されたのだ。

ラファイエット侯爵(1757 - 1834)


ラファイエット将軍はアメリカに渡り、アメリカの独立戦争に参加。米軍の先頭に立って戦い、独立宣言の起草にも関わった伝説的な英雄だ。将軍はまさに独立宣言に謳われた「自由・平等」の精神を体現した人物だった。フランスに帰国後、フランス革命では「人間と市民の権利の宣言」を議会に提示。「立憲君主制」を主張して中道を守って孤立(これは混乱状態の国内の治安、秩序の維持のためだった)。そんな中で将軍はオーストリアに捕らえられて5年以上も監獄に入れられていたのだ。ラファイエット侯はフランスでは立憲君主を主張し、国王夫妻を守ったので「反革命」とみなされていたが、他国から見ればラファイエットは存在そのものが「自由・平等」だった。まさに生きているだけで自国の君主制を危うくする危険人物なのだった。

牢獄のラファイエット侯


ベートーヴェンは、バラック同然の牢獄に閉じ込められていたラファイエット将軍の境遇に心を痛めていたので、ナポレオンの要求には拍手喝采だったことだろう。
「フィデリオ」で熱狂的に表現される革命精神はラファイエット将軍に多くを負っているのだ。「フィデリオ」の監獄からの救出劇はラファイエット侯の脱獄計画や妻や娘との感動的な再会の実話はフィデリオに織り込まれている。

余談:ベルナドット将軍


ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット (1763 - 1844)

1798年、ベルナドット将軍がフランスの全権大使としてウィーンにやってきた。将軍は大使館を音楽サロンとして開放していた。ベートーヴェンはリヒノウスキー伯爵の紹介でサロンに出入りするようになった。
ベルナドット将軍とベートーヴェンは意気投合した。
ベルナドットはナポレオンと並び称される優秀な軍人だった。彼は革命時にはナポレオンと同様にジャコバン派支持だったので、急進的な革命勢力の一人だった。
ベルナドット将軍は戦争はめちゃくちゃ強かった。部下を励まし鼓舞することが得意で、ここのところはナポレオンに似ている。困難なタリアメント川越えや猛吹雪の中のアルプス越えを成功させた逸話は有名だ(ナポレオンのアルプス越えよりもベルナドットの方が早かった。)。
めちゃくちゃ勇敢だったのだ。
でも、ベルナドットは同時に優しく繊細で、一般民衆を尊重し、戦闘で民衆が被害を被らないよう細かく配慮をした。
「規律が無い軍隊は勝利を手にすることはできても、その勝利を活かすことができない」
がモットーで、部下の兵士たちが略奪や暴行を行わないよう厳格な規律を敷いた。もし自分達の戦闘で壊れた家があれば弁償もした。この辺が冷徹で非情なナポレオンと違うところだ(ナポレオンは兵士による略奪は容認していたし、フランス政府も略奪は当然という立場だった)だから、ベルナドットの率いる部隊は現地の住民に評判がとても良かった。
ベルナドットは兵士たちの食糧や健康にも気を配った。部下をすごく大事にする人だったのだ。戦闘でも三倍も四倍も大きな兵力のオーストリア軍と戦っても、あまり大きな犠牲を出さなかった。
ナポレオンはじわじわ評価を上げるベルナドットのことが気に入らない。ナポレオンは自分がヒーローになったイタリアでベルナドット将軍が勤務することが嫌でベルナドットをウィーン大使にしてしまう(-_-;)
当時のウィーンはナショナリズムが燃え盛り、反フランス感情が強かった。居心地は決して良くない…..いや、最悪だった。もっと言えば「危険」だった。実際ウィーン大使館が襲撃されたりもして、将軍が剣を抜く場面すらあったという….将軍は常に警察に監視されていた。
そんな雰囲気の中で将軍から直接聞いた革命の エピソードや英雄的な戦いの生々しい体験談からベートーヴェンは強い印象を受けたのだった。

フランス革命はそもそも「市民による暴力革命」だからグランプールやギロチンなどなど暴力と血にまみれた暗いエピソード満載だ。
革命はもちろんそれだけではなく、新しい未来に向かう希望に溢れた祝祭的な面もある。祝典行事もまた多かった。お祭り感。そうした革命後の祝典音楽の演奏の様子を聞けたこともベートーヴェンには大いに刺激になったことだろう。
ゴセックやメユールといった作曲家はこういった革命の祝典的な場面のために超特大編成の音楽を提供した。大きなお祭りなのでめっちゃでかい会場や広場での演奏が前提だ。だからでっかい音が必要、大編成にしよう。そして、みんなで一緒に歌えるのがいい。みんなで歌おう!みんなで歌うんだから誰にでも歌えるようにサビのメロディはできる限りシンプルに!これは第九の基本的なイメージそのものだ。この拡大化路線はベルリオーズまで繋がってゆくだろう。

例えば
フランソワ=ジョセフ・ゴセックのオペラ「共和制の勝利」を聴いてみてほしい👇
この音楽の基本的な印象は第九にかなり近い。


1790年、革命1周年を記念するために書かれたゴセックの「テ・デウム」👇は、1200人の歌手と300人の吹奏楽を必要とする音楽((;゚Д゚)….まさにベルリオーズの前例。


エティエンヌ=ニコラ・メユールの「門出の歌(自由への讃歌)」(1794)も革命の祝典用の作品。こうしたゴセックやメユールの革命祝典音楽の感覚は、第九と地続きのものだ。
「門出の歌」は今でも軍歌として現役の歌だ。
おめでたいイベントで歌われるのにふさわしい作品。

メユール「門出の歌」👇

こうした祝祭的な感覚が第九交響曲に生かされていく。

トーク動画の合言葉

👇が演奏後のトーク動画です
視聴には合言葉が必要です
最後まで読んで頂くと合言葉が書いてあります

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