ベートーヴェン:セレナード ニ長調 Op.25
ずっと以前に書いた解説原稿を大幅に改稿・加筆しました
■セレナード ニ長調 Op.25
1802年に出版されたこの作品は自筆譜が残っておらず、作曲年代を推定することが困難です。様式的な面から1795-6年という見方もあれば、1797年という推測もあったのですが、近年のスケッチ研究から1801年という説が有力になっています。フル−トとヴァイオリンとヴィオラという珍しい編成の曲を作曲した動機もわかっていません。どこかの貴族のサロンのために書いたのかもしれませんし、フルートを愛好する貴族に頼まれたのかもしれません。
モーツァルトのセレナードやディヴェルティメントに代表されるような典型的な娯楽音楽の書き方で作曲されていますから、いわゆる「ハウスムジーク(家庭音楽)」での需要も当て込んで書いたのかもしれません。産業革命→フランス革命と歴史が進んで、音楽は貴族や宮廷だけではなく中産階級の家庭でも楽しめる「娯楽」として成立するようになりました。そうした「ハウスムジーク」では、わかりやすくて楽しい小編成の作品が好まれました。ウィーンのような大都会では「ハウスムジーク」の需要は高かったので、ベートーヴェンはもちろんそういった傾向の音楽をたくさん書きました。音楽好きの人たちには楽しんで欲しいし、自分の生活もかかっている….。
当時の音楽愛好家は好んで自分で演奏をしたがり、家族や友人たちと合奏を楽しみました。だから様々な編成の家庭音楽用の楽譜が求められるようになっていました。こうして楽譜出版業は成長していったのです。
ベートーヴェンの室内楽でフルートがここまで活躍することは珍しく、フルートの古典派音楽のレパートリーとして貴重な存在になっています。ベートーヴェンが室内楽であまりフルートの曲を書かなかったのは、当時の家庭音楽(ハウスムジーク)ではフルートがそれほど普及していなかったこともあったでしょう(ベーム式のフルートはまだ出ていません)。
曲はセレナードの伝統に従って、行進曲風の楽章[Entrata=入場]が冒頭に置かれ、複数の舞曲的な楽章(メヌエット、スケルツォ)を含む6楽章で構成されています。書法としては旧来の伝統的なセレナードの枠からはみ出ることなく書かれており、ベートーヴェンとしてはかなり保守的な作風と言ってもいいかもしれません。そのため、この作品の評価はあまり高いものではありませんでした。しかし、その朗らかで愛らしい音楽は実に楽しいものですし、細部を検討してみると、伝統的な様式や限られた素材の中で様々な工夫を凝らしていることもわかります。ベートーヴェンはこうした娯楽的な親しみやすい作品を書きながら、作曲の技法もしっかり追求していたんですね。そうした中で生まれた最大の成果が七重奏曲Op20だと言えるでしょう。
ベートーヴェンは弦楽三重奏の編成で同じセレナードというタイトルの作品(Op.8)を作曲していますが、このOp.25のセレナードではフルートの明るい音が加わったことでよりカラフルで華やかなサウンドになっている。なお、この作品はフルートとピアノの二重奏用に編曲されている(Op.41)。ベートーヴェン自身の編曲ではなく、他人の編曲によるものです(おそらくフランツ・クサーファー・クラインハインツによるもの)。一応ベートーヴェンが監修して出版したものなので、この二重奏版はそれなりに由緒正しい版と言ってもいいでしょう。
■余談:アントン・ライヒャ
ベートーヴェンはウィーン時代にフルートの室内楽をあまり書かなかったが、彼にとってフルートは非常に身近な楽器だったと言える。ボンの宮廷楽団の同僚の名フルート奏者アントン・ライヒャとは親友で、同い年の二人は一緒にボン大学に入学して勉強した。だからベートーヴェンはフルートについてはよく知っていたはずだ。実際、ボン時代に書かれた習作のピアノ協奏曲変ホ長調WoO4やレオポルド皇帝のための祝典カンタータではフルートが非常に重要で大活躍する。ボン時代にはフルート入りの室内楽作品も書かれた。
フルートとファゴットとピアノのための三重奏曲ト長調WoO37
フルート、ファゴット、ピアノとオーケストラのロマンツェカンタービレHess13
やはりこれはアントン・ライヒャの存在が大きいだろう。どちらもなかなか素敵な作品だ。特に16歳のときに書かれた三重奏曲ト長調WoO37は全3楽章・演奏時間約23分の充実した作品。なかなか聞き応えがある。自筆譜のタイトルに「トリオ・コンチェルタンテ」とあるように、随所で名技性が発揮されて、華やかな仕上がりだ(何しろいつも一緒にいる親友がフルートの名人なのだから、自然にそうなるだろう)。室内楽の中にコンチェルタンテな要素を加える書き方は1799年の傑作・七重奏曲Op20と同様である(特にヴァイオリンの名技性!)。
フランス革命でボンの宮廷楽団が解散になると、アントン・ライヒャはハンブルクに移ってピアノ教師などで生活していたが、1801年ウィーンにやってきた。ベートーヴェンはさぞかしうれしかっただろう。ライヒャはウィーンに来ると、ハイドンの元で本格的に作曲の勉強を始めた。そしてライヒャは精力的に作曲を始める。フルートの名手らしく管楽器のための作品を多く残した。数多く残された木管五重奏曲(24曲もある!)は木管アンサンブルの重要なレパートリーとして今でもよく演奏される。どれも堅実にしっかり書かれていて、さすがベートーヴェンの親友って感じだ(どれも似た感じでちょっとマンネリ気味なところがあるのは惜しいけれど…)。
👇を聴いてみて欲しい。なかなかのかっこよさ!
木管五重奏曲ホ短調Op88-1
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