山田 耕筰ピアノチクルス(全6回) vol.1滝廉太郎
2022年01月22日
竹風堂大門ホール
バリトン:高橋宏典
ソプラノ:小島美穂子・メゾソプラノ:加藤文絵
テノール:上村亮
滝廉太郎と音楽取調掛
滝廉太郎は明治12年1879年に生まれました。
もしその誕生が一年でも遅れていれば「中学唱歌」に「荒城の月」や「箱根八里」は収録されず「幼稚園唱歌」にお正月も入らなかったはずです。そうすると彼の名作は教科書に載って広く歌われることもなく、滝廉太郎のあり方や評価は今と全く違ったものになったでしょう。
明治12年3月音楽取調掛の設置に関する意見発表が伊沢修二によってようやく行われます。
日本の教育水準を欧米に近づけるには日本人の美観(美的感覚)を高めなければならないというのが伊沢の考え方でした。それまでの武士道を基本とした教育が歌舞音曲を遊芸と決めつけていたこともあって、音楽は西洋音楽も邦楽も公教育の中心には入ってきませんでした。やっぱり大事なのは読み書きそろばん。男子は武芸。というのが教育の中心です。音楽は女子供の嗜み程度のものでよし、という認識だったんです。
伊沢の働きかけもあって明治12年にようやく設置された音楽取調掛の目標は次の3つでした。
1 東洋と西洋の音楽を折衷したものを作ること
2 将来は日本固有の音楽(国楽)を確立すること
3 諸学校に音楽教育を実施すること。
しかしこの時点では「唱歌」という言葉も確定しておらず、ピアノも国内にほとんどありません。家庭用のオルガンですら珍しい状態でした。そして、それを教えられる教員がいません。伊沢修二をリーダーとする音楽取調掛は猛然と準備し始めます。とにかく楽器を揃え、唱歌を準備して、教員養成のためのシステムもつくらなければならない。唱歌は日本固有のものは間に合わないのでとりあえず西欧の歌曲に日本語の歌詞をつけたものを用意したりする。これが「蛍の光」とか「埴生の宿」「故郷の空」とか「蝶々」「ローレライ」とか、そういったいわゆる翻訳唱歌ですよね。こういった翻訳唱歌は今では日本の曲とか外来の曲とかほとんど意識しないほど日本人の中に定着しています。やっぱり教科書に載るってすごいんですよね。浸透力が桁違いです。
明治12年に発足した音楽取調掛と滝廉太郎の成長は全く同じペースで進みました。これは決定的なことでした。
明治維新の日本。当時の日本には「国家」という概念がほとんどありませんでした。民衆にとっての国家への帰属意識は、居住している地域に限定され、大きく捉えることはあってもせいぜい「○○藩」、もう少し広くても「信州」とか「信濃の国」という程度のものでした。明治政府は「日本」を近代的な国民国家に作り変えることを目指していたんです。それにはまず国民のアイデンティティ・帰属意識を作り出すことが重要な課題でした。「諸国民の春」の時代、音楽は大きな役割を果たしました。例えばそれはラ・マルセイエーズだし、ショパンだし、フィンランディアだし、我が祖国だし….そういった国民楽派の音楽ですよね(音楽によって愛国心・郷土愛や連帯感は更に強まります)。国民的な音楽を共有することで帰属意識や連帯感、祖国愛が高まって近代的国家が出来上がっていったのです(愛国心が育っていない国は、国家として極めて脆弱です)。ショパンのポロネーズやスメタナの我が祖国がハートの中にあるからポーランドやチェコは苦難の歴史を切り抜けてこれた。フィンランドもフィンランディアがなかったらあれほど一致団結して勇敢に戦えたかどうか…そういった事例の様々を詳細に調査研究して(取り調べて)それをモデルに今後の国づくりに生かしていこうとゆーのが音楽取調掛だったわけです。
伊沢は美観(美的感覚)を問題にしましたが、政府レベルになると実際はもうそれほど美的な話でもなくて、残酷なリアリズムに徹した話になります。明治政府は音楽を国づくりのためのツールとして捉えていました。「唱歌」によって、国民の帰属意識を高め(郷土愛を育て)、軍楽(特にラッパ。太鼓)を導入することによって西洋式の強い軍隊を作り上げる必要があった。軍隊の行軍、訓練、規律の維持、命令の迅速な伝達などに音楽(軍楽)は絶対に必要だった。軍隊に入ったらすぐに進軍ラッパのリズムに反応できるようにしたい。辛い行軍だって皆で声を合わせて歌いながら、だと全然違うんですよね。リズムに合わせて歩くことは行軍(軍隊)の鉄則で基本です。ある目的のために大勢が合理的に動く時にはバラバラだと絶対ダメなんです….いざとゆーときに国民が列を作ることができなかったらどうでしょう。例えば避難所も、病院も、スーパーも何もかも崩壊してしまう。そのためにも整列の訓練が必須なんです。
そして、そーゆーことには地域性は邪魔です(全国的な均質化が必要です)。みんなで同じように声を合わせて歌うことができて、全国各地で同じように兵士を(国民を)訓練する必要がある。
さあ、急がなきゃ、急がなきゃ!西欧の植民地にされてしまうぞ!
それには音楽を教えられる人材を急いで育てて全国に配置する必要があった。 歌を歌うと血行もよくなるらしいし、健康のためにも良い(いいことづくめじゃんか!)。国家は国民が健康じゃないと困る。これはもちろん戦争のためだけじゃない。経済だって国民が健康でよく働くから発展する….国民の免疫力が高ければ医療費も抑えられて、いざってときには医療崩壊も防げるかもしれない…。例えば外交儀礼的にも、国歌をしっかり歌えて、相手の国歌も立派に(敬意を持って)演奏する必要があります。西欧基準の儀礼が世界共通のものになっているのだし、その「世界標準」に合わせなきゃいかん。なおなどなどなど……..
だから音楽取調掛は猛然と準備を進めたのです。
生い立ち
さて、滝廉太郎は音楽取調掛設立と同じ明治12年に生まれました。父の滝吉弘は大分の日出藩の侍でした。彼は廃藩置県で東京に出てきて内務省の官僚になりました、
彼はものすごく優秀な官僚で、大久保利通の秘書をつとめ、その右腕として仕事をしていました。超エリートです。西南戦争の頃ですよね。
このもの凄い激動の時期にいつも大久保利通の隣にいたのが滝吉弘です。幕末から明治維新の政治の中枢にいたんですね。意に反して幼なじみの西郷隆盛と戦わなければならなかった大久保利通の苦しみをすぐ側で見ていたのが滝吉弘です(西郷の死を知ると大久保は号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回り、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたらしい)。吉弘は温厚で実直な九州男児で人格高潔。大久保利通の信頼も厚かったそうです。まさに大久保の右腕でした。滝家は父親中心の昔ながらの家庭でした。根っからのサムライの家なんです。ちょっと先走って言うと、ここんところが山田耕筰とものすごく正反対なので、ぜひ押さえておいて頂きたいところです。滝廉太郎の家は父親中心。山田耕筰の家は徹底的に母親中心なんです。
滝廉太郎は東京で生まれました。上には姉が二人いました。廉太郎は体が丈夫じゃなかったので部屋で姉たちと遊ぶことが多かったようです。姉たちは女の子の嗜みとして琴やヴァイオリンを弾いていて、廉太郎は姉たちのそばでオルゴールをおもちゃにして遊んでいたそうです。父親中心の古風な家族でしたが、意外と西洋の楽器がうちの中に普通にあったりして、西欧の雰囲気はけっこう身近だったんです。おそらく、当時の標準的な家庭よりもだいぶハイカラだったでしょう。
官僚には転勤が付き物です。吉弘は富山に転勤になります。一家は富山に引っ越すことになりました。廉太郎は富山の小学校に通いました。富山にはそんなに長く住んだわけじゃないですが、富山の影響は廉太郎にとって非常に大きいものでした。北陸の冬は雪がすごいですよね。そーゆー印象が後年書かれる幼稚園唱歌に強く反映されてます。富山の生活はその影響が作品に はっきり出ている点で、廉太郎にとって非常に重要な場所です。「お正月」「雪やこんこん」なんかは代表例ですね。北陸は雪深いところです。九州から東京に出て来た滝家は基本的に雪には縁がありません。滝廉太郎はこんなものすごい雪を見るのは生まれて初めてでしたし、それはもう本当に印象的だったでしょう。雪に閉ざされると、もう外に出られませんから、そーゆーときはおばあちゃんが昔話を子どもたちに話してくれるんです。それが彼の中で美しい思い出になっていたんです。唱歌「桃太郎」や「かちかち山」が代表的ですね。廉太郎は小学校のお遊戯会で桃太郎の話をしてみせたことがあってこれがとても好評で先生も褒めてくれたんです。桃太郎は廉太郎が作詞もしてます。桃太郎の作詞をした彼は「富山時分が懐かしいものですから」と言ったそうです。「桃太郎」も「雁」も廉太郎の作詞です。廉太郎は文才があって、作詞もするんです。そうそう富山には滝廉太郎の記念館があります。ささやかですが、いい雰囲気の施設です。新幹線のおかげで富山近くなりましたからね。富山に行った際にはぜひ寄ってみてください。
幼稚園唱歌より
ではせっかく富山のことに触れたので富山に深く関わる滝廉太郎の唱歌を聴いてみましょう(これらは童謡ではありません。今は童謡も唱歌もごっちゃに感がられていますが、滝廉太郎が書いたのは「唱歌」です。この違いいについてはまたお話しますね)。
さて、富山の後は今度は九州・大分に転勤です。滝家としては故郷に帰った格好になりますね。大分の中でもまた異動があったりして、また廉太郎は転校したり、なかなか落ち着かない。やっぱりお役人は大変ですね。あまりに転校が多くて廉太郎はちょっと寂しかったりもすることもあったようですが、この大分で廉太郎ははっきりと音楽に目覚めることになります。まず、大分がすごくキリスト教の影響の強いところだってことがあります。大分はザビエルの時代から大友宗麟というお殿様がキリシタン大名だったこともあって、南蛮文化の影響の大きかったところなんです。廉太郎ものちに洗礼を受けています。こーゆーところは山田耕作との共通点になりますね。廉太郎は教会の合唱隊に入りたかったのですが、お父さんは許さなかったようですね。尺八なら良いと言ったそうです。 音楽など婦女子のするものだと思っていたんです。廉太郎はこの頃から近眼になりました。廉太郎は大分時代にバイオリンを弾いたりハーモニカや尺八を吹いて吹いたりするようになりました。大分 の学校に入った当初はひ弱で近眼の滝廉太郎はからかわれていましたが、そのうち滝廉太郎の力を同級生たちは認めるようになってきました。楽器を奏でたり器用に駒を回したり絵もめちゃくちゃうまかったです。 クラスでは廉太郎の周りにおともだちが集まるようになり、いつの間にか廉太郎は一目置かれて、人気者になっていました。父親は教会の合唱隊に入るのに反対したりしましたが、お父さんもさすがに滝廉太郎の音楽の才能に気がつき始めていました。 廉太郎はついに思い詰めてお父さんに「音楽の道に進みたいダメなら女形の役者になりたい」と談判します(病弱で華奢でしたからね)。するとお父さんは意外とあっさり「そいもよかろ」と言ってくれたそうです。お父さんは古風な頑固者だけど、理解するとめっちゃ早いんですよね。頭がスッキリした人なんです。当時大分県にはピアノは1台もありませんでしたが、オルガンはありました。でも 楽譜を読める先生もオルガン弾ける先生もほとんどいない。でも、ちょうどこの頃にオルガンが弾ける先生が大分に赴任してきます。ラッキーですねえ。廉太郎はこの先生の元で一生懸命オルガンを学び、楽譜の読み方も覚えました。この当時は 日清戦争の時代ですから、いろんなところで軍楽隊が演奏してました。町内会や運動会にも登場して演奏してました。戦意高揚の一環ですね。素人の楽隊ですから演奏は幼稚でしたが、それでも日本に西洋の軍楽を浸透させた功績は大きかった。日本の軍楽の基本はもちろんヨーロッパの軍隊の音楽・マーチですからね。日本人は軍楽から西洋の音楽に触れていったという面もあるわけです。廉太郎ももちろんこうした軍楽からも大いに刺激を受けたことでしょう。このあたりも山田耕作と全く一緒です。
1894年、16歳の滝廉太郎は東京学校の予科に無事に合格しました。本科に入るための予備の課程です。ちょうど日清戦争が始まった年です。最年少の合格者でした。この頃の音楽学校の受験者はだいたい二十歳を過ぎた者が普通で、16で合格した廉太郎は異色の存在でした。予科の時には廉太郎は成績不振でちょっと大変だったようですが、あまりに若すぎて授業についていけない部分があったことと脚気を患ったこともあったようです(脚気は明治時代に大流行しました)。音楽学校の小山作之助が学業も体調もパッとしない廉太郎にすごく良くしてくれて、これでもう退学みたいなところまでいきそうなのを庇ってくれたりとかしたようですね。で、廉太郎は無事に本科に進むことができたんです。
小山作之助は温厚で優しい人柄で、非常に熱心な先生で生徒たちの信頼も厚かったようです。この先生が見捨てずに指導したので、滝廉太郎は大成したと言えるんです。小山作之助の代表作はなんと言っても皆さんよくご存知の「夏は来ぬ」でしょう。そう、あの「夏は来ぬ」の作曲者が滝廉太郎の最大の恩師なんです。滝廉太郎の音楽の中には先生のDNAが強く受け継がれているんです。廉太郎は小山作之助のもとで一生懸命勉強しました。
https://www.youtube.com/embed/q69UH4vho20?rel=0
小山先生は軍歌でも超有名なのがあります。「敵は幾万」ですね。
この時期の音楽学校には専攻として作曲コースはまだありません。そこで滝廉太郎はピアノと声楽を主に学びました。一生懸命勉強して、成績優秀で卒業して、研究科に進みます。学校に残って勉強しながら非常勤講師みたいな感じでピアノを教えたりもしていた、と、そーゆー時代です。ドイツ留学の話も決まった頃です。ソプラノの三浦環は滝廉太郎にピアノを教わったそうです。三浦環は廉太郎からプロポーズされたと言ってるんですが、真偽のほどはよくわかりません。三浦環は廉太郎の片想いだと言ってますけど、これも三浦環が言ってるだけなのでわかんないですね。でも意外とわからんですよ。三浦環ってものすごく魅力的な人だったし、三浦環だって、滝廉太郎はドイツ留学も決まって学校内でもトップの男ですからね、ちょっといいなと思って一瞬恋人っぽい雰囲気になっても不思議じゃないです。レッスン室の中だけの先生と生徒の感情の微妙な感情のやりとりだけだったら、他の人にはほとんどわかんないです。これは今も昔も変わりません。
日清戦争の時代なので軍歌が必要とされていました。とにかくもう沢山必要だったんです。軍歌の時代です。政府も戦意高揚・国民連帯強化のために軍歌を徹底的に利用しました。滝廉太郎は小山作之助を始めとする教員から唱歌や軍歌の作曲の指導も受けました。ご時世ですよね。日清戦争が連戦連勝で盛り上がっていた時期です。滝廉太郎は明治30年1897「日本男児」を作曲しました。ではこれを聞いてみましょうか、無伴奏の曲です。
「日本男児そは何ぞ、そは誰ぞ」さて、そは誰かとゆーと、シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタの木口小平です。
「日本男児」を加筆修正した「我神州」も作っています。こちらは「百練経たる日本刀 抜くや秋水影寒し 大和男児が此(この)刀 提げ持ちて敵軍を 右に左に斬り捲(まく)る 卍(まんじ)巴(ともへ)に斬り回る 行けや壮夫魁けて 朝日の御旗翳しつゝ」とゆー超勇ましい内容になってます。
明治33年1900年廉太郎の創造力がほとんどなんの前触れもなくいきなり大爆発します。22歳でした。まず組歌「四季」、続いて「荒城の月」、「箱根八里」「お正月」といった名作が立て続けに生み出されるんです。この時期の大きな出来事として、廉太郎が洗礼を受けてキリスト教徒になったことは一応あげておかないとまずいですね。山田耕作もクリスチャンなので、ここは共通しています。
箱根八里、荒城の月、荒城の月による変奏曲
では、「箱根八里」と「荒城の月」を聴いていただきます。どちらも「中学唱歌」のために書かれた作品です。本来は無伴奏の作品です。中学唱歌は東京音楽学校の編纂なので、まず東京音楽学校で募集がありました。選定委員会が選ぶので、まあ、学内コンクールみたいな格好ですね。この時に提出したのが豊太閤、箱根八里、荒城の月の三曲だったんです。幼稚園唱歌は簡単な伴奏が付いてますけど、中学唱歌は本来、無伴奏です。
荒城の月の作曲にあたって滝廉太郎は「富山城」と九州竹田の「岡城」をイメージしたでしょう。しかし歌詞を書いた詩人の土井晩翠のイメージは仙台の「青葉城」です。東北人の土井晩翠は戊辰戦争のイメージを「青葉城」に託したのです。あまりにもむごたらしく悲劇的だった若松城の籠城戦の敗北、徳川時代の終わり、武士道の終わり。荒城の月は、滅びのイメージなんです。廉太郎も武士の家の生まれですから、青葉城や会津城を知らなくても、戊辰戦争の悲惨さを知らなくても、そーゆー「滅び」ということに対するサムライの感覚は持っていたでしょう。幕末の中枢にいたサムライである父親の背中を見て育ってますしね。だから土井晩翠の滅びのイメージを本能的に理解することができたと言えるでしょう。
今日聴いて頂く箱根八里のピアノは畑中良輔編曲、荒城の月は山田耕作の編曲です。箱根八里も荒城の月も元々伴奏はありません。そこで、当時の名歌手の三浦環が荒城の月を歌う時無伴奏じゃ寂しいから伴奏をつけて欲しいと山田耕筰に依頼したんですね。山田はピアノ伴奏を付けただけではなく、荒城の月の持つ性格を決定してしまうような決定的な編曲も施しています。我々日本人が持つ荒城の月のイメージは「山田耕作の編曲のイメージ」だと言っていいんです。山田耕作は重厚な伴奏を付けて滝廉太郎が八分音符で書いた比較的あっさりしたテンポを四分音符のゆったりしたテンポに変えました。山田は「荒城の月」の持つ日本的にウェットな感覚を強調したということになりますね。あと大きな音の変更が一点あります。「はなのえーんー」の部分の半音の動きを全音に変えたことです。この変更でこの作品の日本的情緒が強調されることになったんです。たった一音なんですけど、この変更は作品全体に影響を及ぼすほどの大きな変更になりましたね。山田耕筰がやったことはテンポ感、半音を全音にしたこと、重厚なピアノ伴奏をつけたこと。の三つなんですが、この三つだけで、山田は曲全体の印象を大きく変えてしまった(いやこの曲に元々あった要素を強調したとも言えるかもしれないです)。このことを廉太郎はどう思っているかは分かりませんが、これによってより広く親しまれるようになった面も大きいと思うので、なんとも言えないですね。実際ほとんどの人が荒城の月は山田耕作のアレンジでイメージが定着してるわけですしね。このイメージはもう日本人のDNAレベルまで浸透していますから、もう、オリジナルはああだったとかこうだったとかいうような段階でもないわけです。
今日はアンコールで滝廉太郎のオリジナルの形で荒城の月を聞いていただきますので、印象の違いを感じていただけるかなと思います。
では、箱根八里と荒城の月を続けて聞いていただきます。箱根八里は畑中良輔先生のピアノ編曲、荒城の月はもちろん山田耕作の編曲版です。その後続けて山田耕作の荒城の月による変奏曲を聴いてみましょう。山田耕作の滝廉太郎へのこだわりって、かなりすごいんです。これから聞いていただく変奏曲もそうですしね、後半聴いていただく「秋の月」などの編曲もありますし....他の曲の中にも滝廉太郎のメロディを織り込んでみたりもしてます。
では、箱根八里、荒城の月を歌っていただいて、山田 耕筰の「荒城の月変奏曲」を聴いて前半を締めましょう。
休憩
さて、廉太郎はいよいよドイツに留学します。1901年、明治34年のことです。夏目漱石が前の年にイギリス留学に出発してます(森鴎外はもう少し前です)。ちょうどそんな時代です。廉太郎も漱石も鴎外も国費留学なので責任重大です。特に廉太郎はまだ若かったですから、その責任の重さに押しつぶされるような感じだったに違いありません。まさに国家のために留学するわけですからね。山田耕作もドイツに留学してるので、ここは共通してますけど、廉太郎が国費の留学だったのに対して山田耕作は、財閥のお金・つまり民間のお金で留学したので、そーゆー凄まじい国家の重みみたいなものは感じないで、もっと楽な気分で留学することができたんじゃないでしょうか。ここんところが同じ留学でも大きく違います。鴎外や漱石と永井荷風の違いも同じですね。山田 耕筰と同じで永井荷風は国費じゃなかった・
組歌「四季」
では滝廉太郎の記念碑的な代表作、組歌「四季」を聴いていただきましょう。廉太郎は組歌・四季と名付けている通り4曲セットで考えていたに違いないのですが、この4曲は一曲ずつ編成が異なっているためにこれをセットで演奏する必要は無いと言う意見もあります。一曲目の「花」だけが飛び抜けてよく演奏されるので、ちょっと滝廉太郎の意図から外れた形で今は愛好されているってことになりますね。これを本来の4曲セットの格好で聴くことはほとんどありません。やっぱり編成の問題は大きいんですね。編成として経済的じゃないんです。まず、よくご存知の花は女声二重唱。納涼が独唱。月が無伴奏混声四重唱、雪が混声四重唱にピアノが入るという具合ですからね。こーゆーことだから全曲の演奏機会が少ないんですよね。だから「花」だけしか知られていないということになってるんですね。ちなみに3曲めの月は廉太郎自身の作詞です。今日は全曲を滝廉太郎の意図通りに聴ける非常に珍しい機会になります
この記念碑的な作品で滝廉太郎の才能は突然爆発的に花開いたともいわれますが。実はそれに先立ってその前触れのような傑作を書いていました
四季の瀧は明治32年1899年の作品。彼は四季の一年前にとんでもない傑作を書いていたんです。「四季の瀧」は川辺の春夏秋冬を一曲の中にコンパクトに写し取った作品で、ここには滝廉太郎独特の音楽性がはっきり出ています。非常に感動的な音楽です。ここではっきりと現れた廉太郎らしさが荒城の月、「四季」、といった作品に確実に受け継がれていくわけです。この四季の瀧の感覚が組歌「四季」に拡大して、荒城の月に結晶したのだとと言ってもいいかもしれません。
では組歌「四季」に先立って、同時期に作られた廉太郎の初のピアノ曲「メヌエット」と「四季の瀧」を聴いていただいてから組歌「四季」をじっくり聴いていただきましょう。
メヌエット、四季の瀧
https://www.youtube.com/embed/OK5hfhN2rw4?rel=0
では、滝廉太郎の代表作、組歌「四季」全曲を聴いていただきましょう。準備がよければお願いします。花、納涼、月、雪と4曲続けて聴いていただきます。
ドイツ留学と帰国
四季の2年後に廉太郎はドイツのライプツィヒの音楽院に留学して張り切って勉強を始めます。国費留学です。国のお金で行くわけですから責任は非常に重いです。日本での廉太郎への期待は一層高まっていました。しかし冬になると廉太郎は体調が悪くなって入院することになってしまう。肺結核でした。廉太郎の病状を見た井上ドイツ大使が文部省に知らせて、それで帰国命令が出て廉太郎は夏にはドイツを離れました。留学仲間たちも廉太郎の帰国を悲しみました。廉太郎はいい奴だったし、一番年も若くてみんなに可愛がられていたんですね。人気者でした。僅か数ヶ月の留学生活。どんな気持ちだったでしょう。日本側も期待が大きかっただけに、落胆は激しかったようです。日本の音楽界にとって大きな損失です。廉太郎の気持ちを考えると辛いですね。国の期待を背負って税金を使って留学したのに、ほとんど勉強しないまま病気で帰国しなければならないこの状況。どんなに辛かったでしょう。
10月に日本に戻った廉太郎は冬になる前に東京を離れて温暖な大分で療養することになりました。この頃はご両親がちょうど大分だったのでよかったですね。
廉太郎は時には調子がいい時もあったようですが、結局快方に向かうことはありませんでした。家族の看護も虚しく廉太郎は翌年の1903年・6月に廉太郎は亡くなってしまう。23歳でした。
秋の月、荒磯、憾
では、「四季」の中の第三曲の月を山田耕作が独唱用に編曲した「秋の月」を聴いていただいてから、大分の療養中に書いた「荒磯」を聴いていただきます。荒磯は徳川光圀、つまり水戸光圀の詩です。黄門様の詩です。これは短い曲ですが、非常に痛切で身を切られるような魂の叫びのような曲です。絶唱ですね。
荒城の月や「四季」から僅か二年あまりで、彼は凄まじい表現力を獲得していました。ただし、自分の死と引き換えに...
そして荒磯の後に、絶筆のピアノ曲「うらみ」を聴いて終わりにしたいと思います。白鳥の歌です。廉太郎の死の僅か二ヶ月前の曲です。これはなんと言いますか、凄まじい音楽です。荒磯と併せて聴いていただくとよくわかると思うんですが、死の直前の廉太郎の音楽は、本当にものすごい領域まで上り詰めていたんです。その上り詰めた頂点で彼は亡くなった。彼はもちろん自分の死をはっきり意識していたでしょう。当時の結核は難病です。それにしてもここに表現される感情は筆舌に尽くし難いものです。。死の恐怖、20代前半で死ななければならない痛恨の思い、愛する音楽との別れ、愛する家族や大好きな人たちと別れなければならない悲しみ...それらを廉太郎は本当に音楽でしかできないやり方で表現しています。
この「憾む」は、お化けの「恨めしや〜」の恨みではなくて、「残念に思う」というようなニュアンスで使われます。 この憾という字の場合は「自分の未熟さを憾む」「運の悪さを憾む」というような使い方をします。
「荒磯」「 憾・うらみ」と続けて聴くのはかなりつらいんですけど聴いてみましょう。これが死を前にした23歳の天才の心からの最後の叫びだったんです。みなさんどう感じられるでしょうか....
そしてアンコールには荒城の月をオリジナル無伴奏の格好で歌って頂きます。
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