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若きベートーヴェンチクルスvol.6

2024年12月14日
ピアノ:水澤未来


今日で「若きベートーヴェンチクルス」は最終回です。
「悲愴ソナタ」の回。重要なポイントです!
悲愴は「初期の終わり」であり「中期の始まり」でもあります。

今日聴いていただく二つのソナタが書かれたのはベートーヴェンが29歳くらい。この先ベートーヴェンは30代の中年期・壮年期に入って、もの凄い傑作を次々と書いていきます。いわゆる「傑作の森」と言われる時代になります。我々がイメージするベートーヴェンはまさにこの「傑作の森」の作品のイメージから来てるんです。今年は一年かけて「悲愴」へのプロセスをじっくり辿ってみたわけです。

さて、
ベートーヴェンは今日聴いて頂くソナタを書いていた頃には
既に「高度難聴」の状態でした。
「ものすごく聴こえてない」です。
音楽家生命の危機。
演奏家としてはほとんど絶望です。
「高度難聴」というのはだいたいどういった状態かとゆーと、他の人の普通の話言葉が聞き取れず、耳元で大声で話してもらわないとわからないとゆーレベルです。

つまり29歳とか30歳の時点で彼は既に、
「ほとんど聴こえない」状態でした。
他人との会話は、少しわかるところがあったとしても、非常に困難だったでしょう。常に雑音がゴウゴウと鳴っていました。酷い耳鳴りです。この状態だと今の日本なら障害者として公に認定されて、すぐに障害者手帳が交付されるでしょう。
会話ができないし難聴を知られたくないので、ベートーヴェンは人と会うことを避けるようになりました。絶望の中で孤独の中にどんどん閉じこもってゆくしかなかったのです…..。彼はただでさえ気難しい人物でしたが、更に気難しい印象を他人に与えるようになってしまう。
悪循環です…(-_-;)
もちろんベートーヴェンも複数のお医者さん(少なくとも4人)のところに行って診てもらったのですが、治療はうまくいきません。
難聴は悪化する一方。
ベートーヴェンはひどく悩み、苦しみ、
鬱病になってしまいます。
そりゃ鬱にもなるでしょう。
自殺も考えるようになります。死にたくもなるさ。
1802年には遺書まで書きました。有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」です。
難聴はどんどん悪化し
40くらいになるとベートーヴェンは全く聴こえなくなります。
「重度難聴」「全聾」
です。

ベートーヴェンは当初、難聴のことを懸命に隠そうとしていましたが1800年頃になってついに親しい友人にだけ難聴のことをカミングアウトしました。ヴェーゲラーとアメンダです。
ヴェーゲラーに宛ててベートーヴェンは1800年6月に次のように書いています
「この3年(つまり1797以降の3年)で、ぼくの聴覚はどんどん衰えている。….ぼくの耳は昼も夜も変わらずザワザワ・ゴウゴ鳴っている」「この2年ほどはほとんど社交の場から遠ざかっている。」「ぼくは惨めな生活を送っているというべきだろう。ぼくは自分が聾(つんぼ)だとはとても人に言えない。楽器や歌声の高い音は少し離れるともう聞こえない…..低い声で話している話声は大抵ほとんど聞こえない」
難聴と同時に以前からの腹部の不調もまた悪化していました。(潰瘍性大腸炎、腸カタル)です。お腹の調子はいつも最悪でした。難病です。非常につらい病気です(安倍元首相もこれで2回も辞職してますね。)
当時のベートーヴェンは多数の作曲の注文をてんてこ舞いでこなし、演奏も忙しくまさに「上り調子」の頃でした。まさに人生これからって時です。
どんなに辛かったことでしょう。
本当に、言葉もありません。
今日聴くソナタはそーゆー状況の中で書かれたものだとゆーことを頭に置いて聴いていただけたらいいなと思います。

ソナタ第10番 ト長調 Op14-2

今日はまずソナタ10番から聴いて頂きます。悲愴と同じ時期の作曲ですが同一人物とは思えないほど曲の性格が違います。
非常に愛らしく美しい簡素なソナタです。
ちょっと聴いた感じは初心者用のソナチネをイメージする方もいらっしゃるかもしれません。まあ、実際ピアノ教室で生徒さんが勉強することもあるようですね。この時期のベートーヴェンは音楽を切り詰めて書く傾向がありました。そういった書き方は、例えば芥川龍之介の「蜘蛛の糸」といった童話や北原白秋の童謡にも通じる方向ですよね。子供でも読めるように表現をシンプルにしていくということは表現を限界まで磨いて削ぎ落としてゆくとゆーことと同じですからね。
芸術的には悲愴に全く引けを取らない出来栄えです(それはもう作品10のソナタからずっとそうなんですけれども…)。深刻で暗い方が立派に見えたりするし印象も強烈ではありますが、それが喜劇か悲劇かってことで芸術作品としての優劣を論じることはできません。
シンドラーはこのソナタについて「男女の対話」のようだと言っています。確かに男女の親密な対話の様です。オペラのデュエットのように聴こえるところさえあります。そんな感じの外見なのに、中味は非常に過激で前衛的です。

彼は1801年のソナタ12番では「1.変奏曲、2.スケルツォ、3.葬送行進曲 4.ロンド」とゆーとんでもない構成で「ソナタ」を書いているのだから、「フィナーレはスケルツォしかない!」とかやりかねないと思う。だって彼はめっちゃ危険な男👿なのだから。

第2楽章が変奏曲になっているのが非常に大きな特徴です。ベートーヴェンがピアノソナタに変奏曲を導入するのはこれが初です。
ついに出た!変奏曲!って感じですね。
ご存知の通り、変奏曲は中期以降のベートーヴェンのソナタや交響曲で非常に重要になってきます。
このソナタの変奏曲は緩徐楽章ではなくて、可愛らしいマーチです。とても悪戯っぽくユーモラス。まるでおもちゃの兵隊の行進のようです。スケルツォっぽい性格も併せ持ってます。ジョーク満載の実に愉快な音楽です。こーゆーのを悲愴と同時期にかいてるのがおもしろいです。人間ってホントに複雑だ

そして3楽章にはなんと
「スケルツォ」
と書いてあります((;゚Д゚)
終楽章をスケルツォにしちゃいけない。
反則です。
だからこれはスケルツォではなく、スケルツォ的な性格のロンドだとゆー感じで解説では説明されたりもします…が…
おれはそーゆー中途半端な言い方は嫌いだ。
ベートーヴェンが「〇〇・スケルツァンド(スケルツォのような〇〇)」と書かずに
「スケルツォ」
とズバリ書いたのは確信犯だと思う。ベートーヴェンはフィナーレにスケルツォを持ってきちゃいけないなんてことは百も承知で、敢えて「スケルツォ」と書いた。彼は本気で「スケルツォ」でフィナーレを書いたとおれは思う。彼は1801年のソナタ12番では「1.変奏曲、2.スケルツォ、3.葬送行進曲 4.ロンド」とゆーとんでもない構成で「ソナタ」を書いているのだから、「フィナーレはスケルツォしかない!」とかやるでしょう。だって彼は表現のためなら規則破りも辞さないめっちゃ危険な男👿なのだから。
まあ、たしかに構造はロンド的だろうけれども、音楽はどーゆー風に聴いても「スケルツォ」じゃん….
だから、もうはっきりとスケルツォって書こうよ。
「構造はロンド」とか言って無理にソナタの伝統の枠の中で説明しなくていい。


ではお願いします

休憩


ソナタ第8番 ヘ短調 Op13「悲愴」



後半は有名な「悲愴」を聴いて頂きます。ベートーヴェンは作品に自分でタイトルを与えることはほとんどなかったです。運命も英雄も皇帝も大公も月光もみんな他人がつけたニックネームです。、でもこの「悲愴」は例外的にベートーヴェンが自分でつけたタイトルです。


出版された時のタイトルは"Grande Sonate pathétique"でした
「悲愴大ソナタ」ということになります。

pathétiqueは非常に強い言葉です。
だからこれは本当に特別な音楽なんです。この作品には、当時のベートーヴェンの絶望と苦悩・悲しみが叩きつけられるように表現されています。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」のような感覚の音楽です。そう!それはウェルテルのように青春そのものです。その激情も憧れに満ちた歌も。ベートーヴェンは音楽だけじゃなくて、タイトルでも更に自分自身の気持ちを伝えようとしました。これは非常にロマン的な考え方です(個人の主観を重視するのがロマン主義ですから)。
ここまでベートーヴェンが試行錯誤して磨き上げてきた高度な作曲技術が、音楽の悲劇性や深い精神性、個人的な絶望とも結びついて、真にベートーヴェンらしい表現を確立したんです。でも絶望一辺倒ではなくその中にはそれでも前進しようとする決意とパワーも込められています。だから感動するんですよね
そしてあまりにも美しい第二楽章の宗教的な安らぎ、青年の憧れの思い・・。
ベートーヴェンは交響曲や室内楽などよりもピアノソナタの分野で一歩も二歩も先んじて新しい表現を確立してきました。やっぱり根っからのピアノ弾きなんですねえ。ピアノだと自由自在に振る舞えて、思い切ったことができた。ベートーヴェンが交響曲で真に自分らしい表現を確立するのは1804年の交響曲第3番「英雄」と言っていいでしょう。悲愴ソナタは1798年ですから、英雄交響曲よりも6年も早いんですよね。

悲愴ソナタの構造や音楽的な性格は今回のチクルスの一回めに聴いていただいた選帝侯ソナタ第2番とほぼ同じです。つまりベートーヴェンは13歳の頃からずっと心の中にこの悲愴ソナタの原型(種)を持ち続けていたことになります。そこから7曲のピアノソナタなど様々な作品で作曲技術を磨き、フランス革命や自分の難聴などの様々な経験を経た上で、圧倒的な出来栄えで結実したのが悲愴ソナタなんです。それは今まで誰も聴いたことのない種類の音楽でした。

悲愴ソナタはあまりにも異常で独創的で前衛的だったため、凄まじい賛否両論に晒されました。発表直後の評価は熱狂的な絶賛と全否定の両極端でした。でも、この曲は結局広く認められるようになってベートーヴェンの名声を高めることになりました。

ものすごく強烈で劇的な音楽なので、そう感じない人も多いかもしれませんが、このソナタは実は技術的にはそれほど難しく書かれていません。特に二楽章はそこそこ弾けます(もちろん音楽は超難しいですよ!お客様に聞いていただくようにするにのは困難です)。このソナタもまた5番のソナタ以降ベートーヴェンが徹底的に無駄を省いて合理性を追求してきた果てに到達した世界だったのです。だから自然と技術的にもシンプルになったわけです。
でもそれは修行僧のように厳しくストイックな作曲でした。
悲愴ソナタはそうした合理性の追求があったからこそ実現できた作品なんです。

ではお願いします。


カーテンコール


よきところでアンコール、
交響曲第1番の第三楽章

悲愴ソナタの後、
ベートーヴェンはついに最初の交響曲を発表し、偉大な交響曲作家としての道を歩み始めたのです….



余談:商売の問題


ベートーヴェンのピアノソナタは5番以降になると、一気にシンプルになる。それは芸術上の問題でもあっただろうけれども「商売」の問題でもあった。ベートーヴェンは1番〜4番のソナタで楽曲の拡大化にチャレンジし続けた。音楽の規模だけでなく、音楽的にも技術的にも多くを盛り込んでいった。結果的にそれらのソナタは技術的に異常に難しくなってしまった。特に2、3、4番の3曲はあまりに複雑すぎてものすごく技術レベルの高い人じゃないと弾けない作品になってしまった。でも楽譜を売る場合、それじゃ困る。ごく少数の人にしか買ってもらえない。広くたくさん売れなきゃ儲かりません。売れないと出版社も商売にならないし、ベートーヴェンだって生活があるからもちろん困る。ここら辺でリアルな判断があっても不思議じゃない。出版社は「もう少し弾きやすくシンプルにお願いしますよ〜(泣)」という様なリクエストをしたことだろう。だから5番からしばらくすごくシンプルになったとゆー風にも考えられるのだ。
やっぱり「悲愴ソナタ」の2楽章みたいに素晴らしくキャッチーな曲想で、初心者でも一応音が並んで気分良く弾ける曲を出版社は求めているのだ。ヒット曲ってのはだいたいシンプルにできてることが多いものだし。
ちょっとピアノ弾ける方は部分的にでもいいので楽譜用意してチャレンジしてみるといいとい思いますよ。絶対気持ちいいですから✨
市民社会の到来で音楽は一部の貴族や演奏家のものではなくなっていた。一般の大衆のことも強く意識せざるを得なくなっていた….
高邁な理想だけでは商売にならない….

でもベートーヴェンはそーゆー身も蓋もない「商売」の事情も自分の芸術を磨き上げていくために利用することができたのだ。合理的で経済的な音構造の構築!時代も味方したといえましょう
商売の考え方も意外と悪いことばかりではなかったとゆーことでしょうか。


余談:「市民社会」と個人の自由と尊厳

フランス革命で「自由平等博愛」の精神が掲げられると、「市民社会」が成立し、国家や君主よりも個人の自由と尊厳が尊重されるようになっていく。なによりもまず個人の人間性を尊重する「ロマン主義的な芸術」が生み出されるようになっていった。芸術も宮廷のものではなく市民のものになった。ゲーテの「ウェルテル」のように作者の個人的な失恋体験がベースになった「私小説」や、作曲者の個人的な悲劇をベースにした悲愴ソナタといった作品が書かれる。ロマン派の始まり。啓蒙主義、フランス革命があったからこそこうした流れが出てきたのだ。絶対君主の時代に、市民の個人的な思いを芸術作品として発表するなんてことは、ほとんどあり得ないことだっただろう。 モーツァルトにも個人的な心情が表れた作品はあるものの、「悲愴ソナタ」のようにそれを赤裸々に打ち出すことはなかった。モーツァルトはそーゆー点ではやはりまだ革命前の世代の音楽家だったと言えるだろう。

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