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ドビュッシー・ピアノチクルスvol.2


[2008年7月27日竹風堂大門ホール]
ピアノ:深沢雅美

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ハイドン/ピアノソナタ ハ短調 Hob.XVI:20

 本日はようこそおいで下さいました。今回はドビュッシーのチクルス全6回の、第2回めのレクチャーコンサートになります。今回のチクルスは、作曲年代順にピアノのための作品を聴いていただきながら、ドビュッシーの生涯を順番にたどってみよう、ということになっております。


前回は連弾の作品がメインでしたのでちょっと違ったのですが、今回からはドビュッシーの作品の他に、最初に聴いていただいたように、ハイドンのソナタを1曲ピアニストのみなさんにチョイスしていただいて最初に弾いていただいて、更に、プログラムの最後にドビュッシーが作曲した「ハイドンをたたえて」という小品をアンコールで弾いていただいて、演奏会を締める、という趣向になってます。ハイドンのピアノソナタ ハ短調はシュトゥルム・ウント・ドラング時代を代表する短調のソナタとして有名です、1771年の作曲です。初期の鍵盤作品はチェンバロやクラヴィコード用に書かれていますが、この曲はフォルテピアノ用に書かれています。交響的で大規模。細かい強弱記号がつけられロマン派的な音楽です。




さて、5月の第1回は1862年から1891年、ドビュッシーが生まれてから29歳までのお話をさせていただきました。なぜ1回めで約30年も扱ったのかといいますと、ピアノの作品があまりないからなんです。彼は、ピアノ音楽史上極めて重要な作曲家として扱われていますが、意外なことに30歳くらいまでのドビュッシーはピアノ音楽を自分にとって重要なジャンルだと思っていなかったふしがあるんです。では、それまで何を作曲していたかとゆーと、歌曲を書いていたんですね。際立って歌曲が多い。30歳頃までに、だいたい60曲くらい歌曲を書いてます。それに比べるとピアノ独奏のための作品なんか1897年までで10曲に満たないわけですから、作品の数だけ見ても圧倒的な差がありますし、質の方も歌曲の方がはるかに高いんです。なぜ歌曲といいますと、ドビュッシーが文学青年だったということもありますし、当時ドビュッシーと恋愛関係とゆーか不倫関係にあった女性がプロ顔負けの素晴らしい歌手だったという、男子としては極めてわかりやすいシンプルな事情もあるんですね。

■「ベルガマスク組曲」


そんなわけで、ドビュッシーが本格的にピアノのための作品を書き始めたのは、作品でいいますと、ちょうど今回取り上げる、「ベルガマスク組曲」、「ピアノのために」以降からと言っていいでしょう。
 これから聴いていただく「ベルガマスク組曲」は1890年に一旦作曲され、その後1905年に出版される際にかなり手が加えられたようです。そのために、音楽学的に詳しく見ていくと、少し様式的にはばらつきがあるようですが、まぁ、ふつうに聴いてる分には特に関係ないと思います。タイトルの「ベルガマスク」ですが、ベルガモ風という意味ですね。ベルガモってのはイタリアの都市で、ミラノから電車で北東に1時間くらい行ったあたりです。イタリアレストランなんかに行くと、メニューに○○のベルガモ風なんて料理があったりしますよね。ドビュッシーは、作曲で『ローマ賞』というのを取って、イタリアに留学してたので、そのときにベルガモを訪れたときの印象をもとに、これを書いたんじゃないかとか、なんて説があったりもるんですが、これについては否定的な意見の方が多いんです。実際はそんな単純なことではなく、詩人ヴェルレーヌの影響下で作曲されたピアノ曲だという見方の方がはるかに優勢です。前回詳しくお話ししたのですが、ドビュッシーは文学青年でもあったりして、20歳代はピアノ作品などほぼ見向きもせずに、歌曲の作曲に没頭していたのですね。その歌曲の中でも、ヴェルレーヌの詩によるものはかなり多いんです。

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特にドビュッシーがこだわっていたのがヴェルレーヌの「艶なる宴」という詩集です。ドビュッシーはこの「艶なる宴」を繰り返しとりあげて、歌曲を作っています。

「艶なる宴」というのは、ルイ王朝のフランスの貴族たちの優雅な野外での催しで、イタリア喜劇『コメディア・デラルテ』の扮装をして、マンドリンなんかの伴奏で楽しく歌い踊り、飲み食いをするとゆーものです。もう、「超・ロココ」ですね。『コメディア・デラルテ』というのは16世紀中頃にヴェネツィアで始まった仮面劇で、ピエロ、アルルカン、パンタロンにコロンビーヌ、スカラムーシュやプルチネルラなどの決まりもののキャラクターがあって、滑稽な演技で大いに観客を笑わせたんですね。

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これが、ルイ王朝時代にひじょうにもてはやされて、画家のワトー(ワトーって人は、ドビュッシーの喜びの島の元ネタになったシテール島への船出を描いた人ですね)なんかの絵の題材になったりしたわけです。

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ヴェルレーヌは、詩集「艶なる宴」で、こうしたコメディア・デラルテの仮面をつけた登場人物たちの様子を、生き生きと描写したんです。「ベルガマスク組曲」の世界は、まさにこの「艶なる宴」の世界なんですね。メヌエットやパスピエという古い雅やかな舞曲を題材にして、ちょっと古風な作曲の仕方をしているのも、まさに超ロココな「艶なる宴」へのオマージュでしょう。有名な「月の光」に至っては、はっきりとヴェルレーヌの「艶なる宴」の中の同名の詩に由来するものです。ドビュッシーは歌曲でも2つのバージョンを残すほど、この「月の光」という詩がお気に入りでした。そうした文学への傾斜がはっきりとピアノ作品に現れて、またそれまでの歌曲と同じような質の高さで初めて書かれたピアノ独奏曲が、この「ベルガマスク組曲」なのんですね。 では、聴いて頂く前に、ヴェルレーヌの「月の光」の詩を読んでみましょうか。


『あなたの心の中はとびきりの景色だ
そこではお洒落なマスクとベルガモ風の(ベルガマスクな)衣装が行き交い
リュートを弾き、踊っているけれど
奇抜な仮装の下で彼らはどこか悲しげだ

短調の調べで歌うのは
勝ち誇った愛や成功した人生
だが自らの幸せを信じることなく
その歌声は月の光に溶けてゆく

悲しくも美しい月の光の静けさが
梢の鳥たちに夢を見させ
そして噴水をうっとりとすすり泣かせる
大理石の間でやさしく吹き上げる噴水を』


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====休憩====

「節約できない男」

 さて、後半です。今日扱っている年代あたりのドビュッシーの生活ぶりから、まずお話をしておかないといけませんね。ドビュッシーは長く両親の家で暮らしていたんですが、1892年になってようやく両親の家を出て、小さな家具付きのアパルトマンを借ります。少し前から付き合っていたガブリエル・デュポンというすごい美人(通称・ギャビー)と同棲を始めます。このアパルトマンはパリのサン=ラザール駅の裏手にあるんですが、この辺はいわゆる昔からの娼婦街です。今でも娼婦が街頭に立って客引きをしていて、まぁ、治安がいいとは言えないような場所です。女性ひとりでは、ちょっと怖い場所かもしれません。当時のドビュッシーはお金がなく、かなりつらい生活をしていたようです。ギャビーはアクセサリーのお店に勤めて献身的に家計を支えていましたが、食事はパンとココアだけなんてこともしばしばあったようです。ドビュッシーの仕事がまだ軌道に乗ったとはいえない状態の上、ドビュッシーの父親が失業状態でそのこともあったりしたのでしょうが、ドビュッシー自身の問題もやはりあったでしょう。つまり、節約できない男なんです。収入に応じた、身の丈に合ったつつましやかな生活ができない。ドビュッシー自身も

『お金という果てしない心配と、”節約”と呼ばれるものをまったく知らない点ではバルザックと同じ』

などと開き直ったようなことを述べています。バルザックと比べてどうする。まぁ、モーツァルトもそうですし、ショパンもシベリウスも、いろんな作曲家と同じですね。典型的です。芸術なんかやってる男と付き合うと、ろくなことありません。当然、同棲相手ともいろいろケンカになったりするわけです。ギャビーはのちにドビュッシーとの生活について『我々は、お金がないことから来る耐えがたいいさかいを何度も経験した』と語っています。で、更に悪いことに、ドビュッシーは金もないのに、浮気を繰り返します。同棲して2年めに、テレーズ・ロジェというソプラノ歌手に一目惚れして、こともあろうに婚約してしまう。ギャビーの存在を隠しての婚約だったんですが、それが先方にバレて、破談になります。当たり前です。

で、ギャビーと元の鞘におさまったかに見えたのですが、やっぱり浮気は続く、ドビュッシーは性懲りもなくほかの女性にプロポーズしたりしてます(馬鹿なの?)。そんなことをドビュッシーが繰り返してるうちに、1897年にギャビーが拳銃で自殺未遂をするという事件を起こしてしまいます。ここまで行ってしまうと、元の関係に戻るのはほんとうに難しい。結局、翌1898年にドビュッシーはギャビーと別れることになりました。
 私生活はこんなふうに「むちゃくちゃ」だったわけですが、創作面はそれと全く逆に、極めて充実しています。

この時期のドビュッシーは素晴らしいオペラ『ペレアスとメリザンド』の作曲に没頭していましたし、詩人マラルメとの出会いから傑作「牧神の午後への前奏曲」が書かれたのもこの時期です。


オーケストラのための「夜想曲」も、

有名な弦楽四重奏曲もこの時期。


彼の場合、旺盛な創作欲は、セックスと密接な関係があるのかもしれない。

オペラにかなり時間を取られているので、この時期の作品の数はそんなに多くないですが、質がすごい!充実した出来映えの傑作揃いです。この辺の作品について語りたいことは山ほどあるのですが、やりはじめたらきりがないですし、今回はピアノチクルスですので、やめておきます。交友関係の方も、華やかです。ショーソンに気に入られて、すごく世話になったりですね、

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みなさんもよくご存知のエリック・サティと友人になったり、文学者や画家など、重要な人物たちとの交流は彼の芸術に大きな影響を与えたはずです。

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ピアノ曲の方はといいますと、これもまた数が少ないです。夜想曲と3曲からなる「忘れられた映像」、そしてこれから聴いていただく「ピアノのために」ということになりますね。あと、2台のピアノのための「リンダラハ」という大傑作があるんですが、

これはピアノが2台必要なので今回は聴いていただけないんです。

残念です。

■「ピアノのために」


 さて「ピアノのために」ですが、1894年頃から個別に書かれた小品を1901年にまとめたものと考えられます。3つの曲は、プレリュード、サラバンド、トッカータと、極めて古典的なタイトルとスタイルで作曲されてます。

これも「ベルガマスク組曲」と同様に、ピエロやアルルカン、コロンビーヌが活躍するヴェルレーヌの「艶なる宴」の精神で書かれた作品と言っていいでしょう。つまり、古き良きロココ時代のクラヴサン(チェンバロ)のイメージで書かれているのですね。しかし、その古典的な外見の内部に隠されているのは、極めて斬新で革新的な音楽なんです。伝統的なクラシカルの感覚だと、不協和音は必ず協和音へ向かって解決すべきものですが、ドビュッシーの場合はそうとも限りません。全音音階や五音音階(日本的な)が多用され、調性感もあいまいな場面が多く、和声感覚もドビュッシーらしく非常に斬新です。たぶん、ちょっとサティを思わせる第2曲のサラバンドが、そうした革新性がいちばんわかりやすく現れているかもしれませんね。ここに聴かれる独特の浮遊するような感覚とゆーのは、旧来の伝統的な和声では絶対に出てこないものなんです。
(旧来の和声感というのは、必ず解決する方向に向かうんですが、ドビュッシーはわざとそうしない方向に持っていこうとするわけです。)


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