見出し画像

ドビュッシー・ピアノチクルスvol.1

[2008年5月25日竹風堂大門ホール]

ピアノ:高橋早紀子&坂原美菜

画像8


 本日はようこそおいで下さいました。今年のチクルスは、作曲年代順にピアノのための作品を聴いていただきながら、ドビュッシーの生涯を順番にたどってみよう、ということになっております。順番ですから、選曲についてピアニストの自由はほとんどありません。ピアニストのみなさんには、こちらで指定した作品を粛々と演奏していただくことになってます。

画像1


 第1回目である今回は1862年から1891年、ドビュッシーが生まれてから29歳までのお話をさせていただきたいと思います。1回目だけで約30年を扱うなんて、ずいぶん幅広いなと思うかもしれませんが、これはドビュッシーのピアノ音楽を語る上でも非常に大事なところなので、しっかりお話ししておきたいと思います。

ドビュッシーは、音楽史に残る有名ピアノ曲が沢山あるので、何となくピアノ音楽の作曲家みたいな気がしてしまいます。しかし、実は彼が本格的にピアノのための作品を書き始めたのは、すごく遅いんです。作品でいいますと、1890年から95年に書かれた「ベルガマスク組曲」(有名な『月の光』を含む組曲です)や1894から1901年に書かれた「ピアノのために」以降からです。つまり、30歳を過ぎてからですね。それまでドビュッシーは、どうも、ピアノのための音楽とゆーのを自分にとって重要なジャンルだと思っていなかったふしがあるんです。

「ベルガマスク組曲」と「ピアノのために」には、ぼくが敬愛するブルーノ・カニーノの動画があったので貼っておきます。明晰!素敵だ。

個人的には「ピアノのために」はすごく好きな曲です。ぼくは学生時代サンソン・フランソワのLPを愛聴していて、「ベルガマスク」よりも「ピアノのために」ばかり聴いていた。偏愛していたと言っていいかも。

では、彼は30歳過ぎまで何を作曲していたかとゆーと、歌曲を書いていたんです。際立って歌曲が多い。1891年までに、だいたい60曲くらい書いてます。それに比べるとピアノ独奏のための作品は1897年までで10曲に満たないわけですから、作品の数だけ見ても圧倒的な差があります。

しかも、当時作曲されたピアノ作品に比べると、歌曲の方が際立って個性的で質が高いんです。特に6曲からなるヴェルレーヌによる「忘れられた小唄」(1885-88)や

ボードレールの5つの詩」(1887-89)などは大変な傑作で、よく演奏会でも取り上げられます。鳥肌が立つほど素晴らしいです。「忘れられた小唄」や「ボードレールの5つの詩」に比べたら「ベルガマスク」も「ピアノのために」も、ごく普通の音楽に感じられてしまう...

 さて、ここからが本題です。今年はドビュッシーの生涯をたどりながらピアノの作品を聴いていただくことになります。今回は扱う年代が極めて広いのでちょっと駆け足になってしまうのですが、できるだけポイントを絞ってお話ししたいと思います。

「生い立ち・少年時代」

ドビュッシーの祖先はブルゴーニュ地方(ボルドーと並ぶワインの銘醸地)の出です。  その家系にはとくに変わったことはありません。農家であったり、職人さんだったり、一族はずっとごくふつうの慎ましいふつうの職業で生計を立ててきていて、特に音楽や芸術に秀でた人物がいたわけじゃありません。
 クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月に、パリの西約20キロの町サン・ジェルマン・アン・レで陶器店を営んでいた両親の長男として生まれました。両親の陶器店はうまくいかなくて、1864年には商売をやめて、父親が家庭雑貨の職を始めたのを機に、一家はパリに引っ越しました。1870年までは一家は裕福とはいえないまでも比較的平穏な生活を送っていたといえるでしょう。ドビュッシーが8歳の頃までです。

画像3


 1870年は、フランスがプロイセンに宣戦布告して『普仏戦争』が始まったことで歴史的に有名な年ですが、ドビュッシーにとっても重要な年です。この年、ドビュッシーはカンヌの伯母クレマンティーヌのところに滞在しました。ここで彼は初めてピアノのレッスンを受けたんです。ジャン・セルッティというイタリア人のヴァイオリン弾きに教わったのですが、この先生はドビュッシーの才能にはまったく気がつかなかったようです。

画像4

でも、南フランスの素晴らしい青い空や、広がる海を見て過ごした体験はドビュッシーにとって一生忘れられない強烈な体験で、後年にこのカンヌ滞在時の思い出を素晴らしい文章で手紙に書いています。そして、ドビュッシー家にとって大変な出来事が翌1871年に起きてしまいます。父親は普仏戦争のおかげで職を失い、コミューン側の国民軍に入隊するのですが、派兵先で捕虜になり、ヴェルサイユの南西にあるサトリの収容所に入れられてしまいます。長男のドビュッシーを含めて4人の子どもをかかえた母親は収入のすべてを断たれ、苦境に陥ります。しかも、コミューンは負けてしまいましたから、父親は賊軍の兵、つまり犯罪者ということになり、一家はそうした意味でも非常に惨めでつらい境遇にありました。ドビュッシーにとってこの一件はトラウマになったようで、晩年になってもこの頃のことについては固く口を閉ざしたままだったそうです。

「コンセルヴァトワール時代」

でも、そんな状況の中でもひとつだけいいことがありました。父親はサトリの収容所で、シヴリという若い音楽家と知り合い、そのつてでドビュッシーはシヴリの母親であるモテ夫人にピアノを習えることになったのです。モテ夫人はドビュッシーの才能に気づき、非常に熱心に面倒を見て、そのわずか一年後に彼は1872年にはパリのコンセルヴァトワールに入ることになるんです。彼は後年に回想しているように、極めて反抗的で自分が絶対正しいと信じているような子どもで、頑固な上にコミニュケーションが下手で協調性もなかったそうです。明らかにコミュ障ですね。最初の年から級友だったピエルネによるとドビュッシーの対人関係の不器用さや臆病さは病的で異常なものだったそうです。ドビュッシーはコンセルヴァトワールに入るまで、学校を体験したことがなく、対人関係で揉まれたことがなかったのもありますし、父親のことでつらい境遇にあったことも、一層そうした性質に拍車をかけたといえるでしょう。でも、彼の担当教官だったマルモンテル先生は、忍耐強くドビュッシーを教えました。この先生も彼の反抗的で難しい性質に惑わされずにちゃんとその才能を見抜いていて、最初の試験のとき既に、

「魅力的な子供、正真正銘の芸術家的な気質、優れた音楽家になるだろう」

と評価しています。1874年、12歳のときにはショパンのバラード1番を試験で弾いて1等を取ってます。はじめてピアノをちゃんと習ったのが8歳のときですから、いい先生に恵まれたとはいえ、わずか4年でここまできたのはどうなんですかね、会場にいらっしゃるピアノの先生方いかがですか?4年でショパンのバラ1弾けるようになってコンヴァトの試験で1等とるって普通は可能でしょうか?。やっぱり天才だったんでしょうねえ。
 ここから、ドビュッシーはがんばってピアノを勉強したんですが、伸びなやんでしまいます。ドビュッシーは14歳からデュランという先生の和声のクラスでも学び始めたのですが、ここで彼は完全に問題児になってしまいます。和声というのは、伝統的な規則を学ぶ授業なんですが、ドビュッシーにとってはそれがすべて反発したくなるような規則で、まぁ、何と言いますか、とにかく自分が美しいと思った通り、めちゃくちゃ書く訳です。やっちゃいけないよ、と言われるような禁じられた和音の進行を、もう、自由にどんどん書く。成績は当然、悪い。先生のデュランとしてはこうしたものは認めるわけにいかないので、当然こてんぱんに言うわけです。でも、最後には小声でこう付け加えたそうです

『もちろん、こうしたものはすべて、あまり正統的ではない。でもとても創意に富んではいるね』と。

けっこういい先生ですよね。                     ドビュッシーのこうした態度は、コンセルヴァトワールを離れるまで、ずっと変わらないどころか、更に伝統和声を離れる方向に向かいます。ワーグナーに夢中になり、その後1889年のパリの万国博でジャワのガムランなどを聴いて、ますます伝統的な和声から離れていくことになるわけです。

画像5

「ボヘミア風舞曲」


1879年、17歳の頃にドビュッシーはついに作曲を始めます。1880年18歳の頃には初めてのピアノ独奏曲である『ボヘミア風舞曲』が生まれます。

この頃ドビュッシーはチャイコフスキーの後援者として有名なナジェージダ・フォン・メック夫人と知り合い、彼女の子供たちにピアノのレッスンをし、夫人の連弾の相手をしていました。

画像6

ここにはドビュッシーらしさはほとんど見られません。確かにありふれた感じの曲です。メック夫人はこの作品をチャイコフスキーに見せました。


チャイコフスキーのこの作品に対するコメントはこうです。 

 『まずまずの作品ですが、あまりにも短すぎますし、主題は目的を達成しておらず、形式は統一性に欠けていて、ぐちゃぐちゃしています』

普通に楽しい感じの曲ですけど、確かに形式の統一性も感じられないし、主題が目的を達してないってのもそーゆー感じも否めないですね。

「ローマ大賞を目指して」

この曲は、後ほど「2つのアラベスク」と一緒に聴いていただきましょう。
この曲のあと約10年、ドビュッシーはピアノ独奏曲を書いていません。  では何をしていたかというと、権威あるローマ大賞を獲得するために、大規模なオーケストラ付きのカンタータを書き、あとは冒頭でもお話しした通り歌曲をたくさん書いてます。ほかの分野にはほとんど見向きもしてません。なんでこんなに歌曲にのめり込んだのかといいますと、恋をしたからなんですね。相手はマリー・ヴァニエというたいへんな美人で、付き合い始めたとき彼女は32歳。ドビュッシーは19歳でしたから、ひと回りくらい年上ってことになります。はっきり言ってしまうと、美しい年上の女性との目眩くようなセックスにのめり込んでいたということです。

画像2

マリーは結婚していて、10歳と12歳になる子供の母親でした。もちろん100%不倫です。彼女はプロではないんですが、かなり上手に歌を歌いました。だからドビュッシーは彼女のためにまるで恋文を書くようにせっせと歌曲を作曲したんです。実にわかりやすいです。

彼は図々しくヴァニエ邸に通いつめ、いつの間にか家族同様の付き合いになります。 マリーの夫は寛容な人だったんですねぇ(それとも、鈍かったのか...)。普通、その関係に気づかないわけがないと思うんですが...。ドビュッシーが3度目の正直でめでたくローマ大賞を獲得して、ローマ留学から帰ってしばらくして別れてしまったのですが、それでも5年以上になりますから、けっこう長く続きましたね。

「ボヘミア風舞曲」、「2つのアラベスク」


 1890年、28歳の年から、ようやくドビュッシーはピアノ独奏のための作品を書き始めるわけですが。ここで、この年に書かれた有名な「2つのアラベスク」と、それに先立って、その10年前に書かれた「ボヘミア風舞曲」を聴いていただこうと思います。「アラベスク」の1曲目は非常に有名な作品なんですが、ドビュッシー自身はこれを粗悪な作品と思っていたようですね。


どうでしょう。こうやって続けて聴くと、10年の開きってのがいかに大きいか、すごくよくわかりますよね?

「夢」

次に「夢」と「バラード」を聴いていただきます。

「夢」も1890年の出版ですが、もう少し以前の作品のようですね。これまたドビュッシー自身は駄作と言ってますが、工夫が凝らされた美しい作品で、決して駄作ではありません。調性がグラグラと不安定なところが非常に美しく、まさに夢見てる感じで素晴らしいです。

「バラード」

続いて聴いていただく「バラード」ですが、当初は「スラブ風のバラード」というタイトルでした。

この曲はたった一つの主題で作られている変奏曲のような作品なんですが、そのメロディがちょっとロシア民謡的なんですね。それでスラブ風ということだったんでしょう。でもピアノ的なレイアウトは非常にフランス的です。


休憩- - - - - - - - - - - - - -

「小組曲」

後半は連弾の作品を2曲聴いていただきます。ドビュッシーの初期にはあまりピアノのソロ曲ってのはないんですが、なぜか連弾の作品は意外に多いんですね。ソロ作品とだいたい同じ数、あります。
中でも「小組曲」は名高い作品。1888年から89年にかけて作曲されました。

ちょうどその頃はワーグナーの作品に夢中になり、パリの万国博でジャワのガムランなどを聴いて、ヨーロッパのクラシックとは全く違う音楽に刺激を受けたりしてた時期にあたりますね。あと、大事なのは、先にもお話ししましたが、歌曲を一生懸命書いていて、それに付随してボードレールやヴェルレーヌやマラルメなどといった文学の方にも激しくのめり込んでいたということも重要な要素です。作曲家であると同時にほとんど文学者のようでもあったわけですね。「小組曲」や「アラベスク」と同時期に作曲された歌曲「ボードレールの5つの詩」などは、その最高の成果です。ぜひ一度聴いていただきたいのですが、これが「小組曲」や「アラベスク」と同じ時期の作品とはちょっと信じられないくらい、歌曲の方がいろんな点で抜群に個性的で、初期の作品とはとても思えないんです。歌曲の分野では、ドビュッシーは圧倒的に先へ進んでいたんですね。「小組曲」はそれに比べるとずっとすっきりわかりやすい作品ですが、だからといって「小組曲」がダメかというとそうではありません。初期のピアノ独奏曲では自ら「駄作」などと言って卑下していたドビュッシーでしたが、「小組曲」については非常にその出来映えにとても満足していたようです。スタイルは違いますが、やはりヴェルレーヌの影がちらほら見えていて、「小舟にて」と「行列」は当時ドビュッシーがはまっていたヴェルレーヌの詩のタイトルと同じです。また、音楽的にも同時代のフォーレやシャブリエなどの影響下にある作品ですが、ドビュッシーの個性もしっかり前面に出ており、これはやはり傑作と言っていいんじゃないでしょうか。ビュッセルによるオーケストラの編曲もよく演奏されますし、ドビュッシーの全作品の中でもかなりポピュラーなものだといえるでしょう。ビュッセル自身の録音があるので貼っておきます


「民謡の主題によるスコットランド行進曲」は、スコットランドの旧家であるロス伯爵家の子孫であるリード将軍からの委嘱で、1890年に作曲されました。当時、ドビュッシーはものすごくお金がなくて困ってましたから、これはかなりうれしい仕事だったことでしょう。

ドビュッシーは非常に素朴で簡素な民謡のメロディに基づいて、この行進曲を仕上げました。なお、この作品はのちに作曲者自身によってオーケストラ用に編曲されています。大学オケとかでたまに取り上げられたりしてますが、あまり演奏機会の多い曲とはいえないですね。


画像8

余談・「全員死刑」「バラード」

おれはドビュッシーの「バラード」は大好きな曲だ。

そういえば近年の映画では、小林勇貴監督の「全員死刑」(2017)で「バラード」が印象的に使われていて、おれは超うれしかった。

ここから先は

1,226字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?