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ドビュッシー・ピアノチクルスvol.4


[2008年11月30日竹風堂大門ホール]

ピアノ:宮本千津

本日はようこそおいで下さいました。今回はドビュッシーのチクルス全6回の、第4回めのレクチャーコンサートになります。今回のチクルスは、作曲年代順にピアノのための作品を聴いていただきながら、ドビュッシーの生涯を順番にたどってみよう、ということになっております。

今回はちょっとした趣向として、ドビュッシーの作品の他に、今聴いていただいたように、ハイドンのソナタを1曲ピアニストのみなさんに選んでいただいて、弾いていただくことにしてます。実は、来年2009年はハイドン没後200年を記念する、いわゆる「ハイドン・イヤー」でもあるんですね。更に、プログラムの最後にドビュッシーが作曲した「ハイドンをたたえて」という小品をアンコールで弾いていただいて、演奏会を締める、というようなことになっております。なお、お話の方は、『ピアノだけ聴きたい』とゆー方には大変に申し訳ないのですが大変に長めになっております。すいません。悪しからずご了承下さい。

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 ではまずオープニングのハイドンを聴いて頂きましょう。

ハイドン:ピアノソナタ 変ホ長調 Hob.XVI:28

さて、ここからドビュッシーです。
前回の第3回では、「版画」「仮面」と「喜びの島」を聴いて頂きました。年代としてはだいたい1899年から1904年くらいですから、だいたいドビュッシーが37歳から42歳の頃。今どきの言い方ですと、まさにアラフォーの頃のドビュッシーの時期のお話をさせていただいたわけです。アラフォー以前のドビュッシーは、むちゃくちゃピアノがうまかったくせにピアノ曲の作曲には熱心ではなく、それ以外のジャンル(とりわけ歌曲!)などピアノ以外のジャンルに没頭してました。ドビュッシーは文学青年でもありましたから、(『文学者』と言ってしまっても不思議じゃないほどです)テクストが伴う音楽に関心が向かうのは当然のことだったでしょう。ドビュッシーが本格的にピアノ作品をある程度のペースで書き始めるのは、前回聴いていただいた「版画」「喜びの島」あたりが作曲された時期以降、『アラフォー』以後なんです。ここからピアノ曲の傑作がどんどん生み出されていきます。今日聴いていただく「映像」第1集、第2集も非常に充実した出来映えで、ドビュッシーの代表的な作品として極めて有名な作品です。


 「映像」という作品はシリーズとしてドビュッシーが1901年頃からずっと温めていた企画です。1901年と言いますのは、前々回に聴いていただいた「ピアノのために」が出版された年になりますから、ずいぶん前から考えていたんですね。ドビュッシーはこの計画をより具体化させて、1903年夏に出版社デュランと出版契約を交わしました。その契約によりますと「映像」のシリーズは6曲ずつの2集から成っておりまして、各曲集の前半3曲がピアノ独奏用、後半3曲が2台のピアノ用かあるいは管弦楽用という計画になっていました。タイトルも第2集の後半3曲が未定になっておりますけれども、それ以外はすべて1903年の時点で決定してます。この計画のピアノ独奏用の部分は、タイトルも含めてきちんと契約の通りに実現され、今日聴いていただく「映像」の第1集と第2集として成立したわけです。では残りの部分はどうなったかといいますと、計画の第1集の4、5、6曲めは管弦楽のための「映像」ということで、タイトルもほぼそのままの形でちゃんと作曲されました。残りのタイトル未定の部分は残念ながらそのまま作曲されずに終わってしまったのですね。

「映像」第1集
 ではこれから、その計画の中で一番最初に完成した3曲、「映像」の第1集を聴いていただきましょう。この3曲のうち「水の反映」と「運動」は1901年の12月に出来ていたようですが、最終的に「映像」第1集として完成したのは1905年でした。1905年は、まず有名な管弦楽作品「海」が完成・初演された年としても特筆すべき年なんですが、その年に「映像」の第1集の推敲と作曲にも取り組んでいたわけです。完成の直前に「水の反映」が気に入らなくなったドビュッシーは『新しい素材により、またごく最近発見した和声の化学に従って』まったく別の曲を作る事にしたと書いています。そして完成した「映像」第1集について、ドビュッシーは以下のように出版社のデュランに書き送ってます。『この3つの曲は全体によくまとまっていると思います。これらはピアノ曲の歴史の中で、しかるべき位置を占めるでしょう。シューマンの左側かショパンの右側か......』
ここまではっきりと自負を表明するのはドビュッシーでも珍しいことです。かなり自信があったんでしょうね。
第1曲め「水の反映」は、題名の通りに水辺の風物が、水面に映ってさまざまに姿を変えていくような音楽ですが、その構造は極めて精密にまとめられています。各部分を構成する小節の数が、数学で言う綺麗な黄金分割比をなしているというような説すらあります。第2曲めの「ラモーをたたえて」ですが、ラモーはフランス・バロックを代表する作曲家ジャン・フィリップ・ラモーのことで、ドビュッシーのラモーに対する敬意はなみなみならぬものがあったようです。



曲はバロックのゆっくりな舞曲『サラバンド』のように書かれておりまして、前々回聴いていただいた「ピアノのために」の中のサラバンドと同じスタイルの作品です。第3曲の「運動」は非常に抽象的な音楽です。感情や物語などの人間的な何かとは切り離されたた、音の動きそれ自体を楽しむ音楽で、後のオネゲルの管弦楽曲「パシフィック231」(機関車の動きをモチーフにした音楽)やモソロフのバレエ音楽「鉄工場」(工場の機械の動きをモチーフに)などを予見したような作品です。



では、映像の1集を聴いていただきましょう。

「映像」第1集

録音ではやっぱりミケランジェリのこのアルバムが決定盤でしょう。

凄いです。超名演。

=休憩15分=


 後半はまず、この当時のドビュッシーが何をしていたかについてお話させていただきたいと思います。前回までドビュッシーの女関係のむちゃくちゃさについて事細かに話してきました。はじめての恋愛からして年上の人妻との不倫ですし、その後も浮気を日常的に繰り返す生活。前回聴いていただいた1904年の「喜びの島」などは、ダブル不倫旅行でエンマ・バルダックという裕福な人妻と滞在していたイギリス海峡のジャージー島で書かれた作品だったりします。「喜びの島」の音楽はたしかに、めくるめくような喜びと官能性に満ちた実に輝かしいもので、疑いもなく傑作なのですが、ドビュッシーの奥さん=リリー・テクシエのことを考えるとちょっと複雑なものがありますね。そのことを知ったリリーは1904年の10月にピストル自殺をはかってお腹を打ち抜いてしまうのですが、幸い一命をとりとめます。同情はもちろんリリーに集まり、ドビュッシーの周囲からも友人がどんどん離れてしまう(自業自得)。ドビュッシーは金持ち女と暮らすために、自分の伴侶のもとを去る。糟糠の妻を捨てたとんでもない男だと思われたわけですね。実際リリーは、身体は弱かったですけど、金のないドビュッシーをよく支えてきた、とてもいい妻だったわけで、まぁ、これはもう何を言われてもしょうがないと思いますね。恋愛っつーのは魔物ですから、どうにもならないときもありますけれども、ドビュッシーの一番悪いところはですね。とんでもなく優柔不断なところです。他に好きな人ができたことをきちんと奥さんに伝えることができないのが、一番まずい部分なんです。後回し、後回しにして、ウソを重ねて、その結果最悪の状態を迎えてしまう。 とゆーところまでが前回までのお話でした。
そんなわけで、孤立してしまったドビュッシーは離婚が認められるまで、そうした状況から逃れるかのようにして管弦楽曲「海」(傑作です!)に没頭し、完成させます。

余談・交響詩「海」

海は本当に傑作。この作品の色彩の奔流は尋常ではない。太陽に照らされて光り輝く波。海の飛沫の水滴のひとつひとつまでがキラキラと輝き複雑に乱反射し続けているようなサウンド。そして圧倒的なパワーで屹立するクライマックス。おれは中高生の頃、この作品に本当にのめり込んでいた。

おれが愛聴していたレコードはシャルル・ミュンシュのLPだった。繊細でカラフルなのにむちゃくちゃ豪快で男性的なところが気に入っていた。アルザス人の血とゆーことだろうか。


「海」の作曲は明らかに一種の逃避だったわけですが、出来上がった作品は超絶素晴らしいので、まぁ、良しとしましょう。離婚は難航しましたが、非はすべてドビュッシ-にあるとゆー結論(当然でしょう)で、ようやく1905年の7月に離婚が認められることになりました。離婚が認められるやいなや、ドビュッシーは妊娠したエンマを連れて、逃げるようにイギリスの海岸のイーストボーンへ旅立ちます。懲りない男...(-_-;)

前半に聴いていただいた「映像」第1集はこのイーストボーンの滞在中の作品になりますね。9月にイギリスから戻ると、10月のエンマの出産に備えて一戸建ての住宅を借りて引っ越しました。10月末に生まれたのは女の子で(クロード=エンマ)、シュシュという愛称で呼ばれるようになります。ドビュッシー43歳のときでした。このシュシュのために作曲されたのがあの有名な「子どもの領分」なんですが、これは次回に聴いていただくことになっております。
 離婚して生活が落ち着き、子宝にも恵まれて、ふつうに考えればますます作曲の筆が進みそうですが、ドビュッシーの創作活動はこの時期完全にストップしてしまいます。まず、「海」の失敗が大きかったようですね。現在では傑作として名高い作品ですが、初演当時はこの音楽の真価は理解されず、その評価は散々なものだったんです。それに次いで、音楽誌などでの論戦がドビュッシーをますます消耗させることになったりして、彼の作曲の筆は止まったままになってしまいます。実際この当時のドビュッシーは手紙で『とても少ししか音楽を』書いておらず、『虚無の工場の中で腐り果て続けて』おり、『躊躇(ちゅうちょ)の病』に苦しんでいると述べています。1906年は、管弦楽用の「映像」の中の「イベリア」などにも着手したりもするのですが、結局仕上がったのは後に「子どもの領分」に組み入れられることになるピアノ小品「人形へのセレナード」だけでした。翌1907年もドビュッシーは管弦楽用の「映像」の作曲に苦しんだり、新しいオペラの創作を試みるもののうまくはかどらなかったりなど、相変わらずの状態でしたが、作曲の筆は徐々に進むようになったようで、1907年の10月にはピアノ独奏用の「映像」第2集が完成しました。後半はこれを聴いていただこうと思います。

「映像」第2集


 「映像」第2集は前半の第1集以上に繊細に研ぎすまされた感覚で作曲された、極めて精緻な音楽です。この作品の楽譜を見て視覚的にまずびっくりするのは、楽譜が3段で書かれていることです。ご存知の通り、ふつうピアノの楽譜というのは右手と左手で上下2段で書かれていますが、これは3段。あまりにも複雑で緻密に書かれているので、2段だとちょっと書き表せないというか、無理矢理2段で書いてもゴチャゴチャして楽曲の構造が視覚的にわかりにくくなってしまうのですね。3段の方がずっとすっきりして理解しやすくなっているわけです。まず、この3段譜というところを押さえておきたいですね。


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 まず1曲めが「葉ずえを渡る鐘の音」です。イギリスの研究家ロックスペイザーはこの曲について次のように述べています。『木の葉がさらさらと音をたてて散っていく風景の中に、遠くにある鐘の音が響き渡ってくるような幻覚を呼び起こす。ある秋の風景の、眠りを誘うような雰囲気をあらわそうとしたもの』  とにかく、えも言われぬ美しい音楽で、ドビュッシーの全作品の中でも最も美しいものの一つとまで書く研究家もいるほどです。2曲めは「そして月は廃寺に落ちる」。1曲目と同様に非常に美しい詩的なタイトルですね。ドビュッシーのスケッチ帳の中に、この曲のモチーフの原型のひとつが記されているのですが、そのモチーフの上には『ブッダ』と記されているそうです。実はこの時期のドビュッシーは『シッダールタ』という仏教劇の作曲を試みたこともあるんです。ドビュッシーの教えを受けたピアニストのマルグリット・ロンはこの曲について、『息苦しさによって静寂の印象を与える音楽の新しい逆説』と述べていますが、ぼくは個人的にすごく好きな言葉です。3曲目は「金色の魚」はドビュッシーの仕事部屋にあった日本の漆の盆からとられたタイトルです。その漆の盆には柳の木の下で泳ぐ二尾の金色の魚が描かれていたんですね。この第2集の「映像」の3曲に共通しているのは『東洋』です。ドビュッシーの東洋への関心の深さについては、このチクルスでも再三触れてきましたので、もう詳しくは語りませんが、当時のヨーロッパはジャポニズムまっさかりで、北斎の浮世絵などが大きな影響を与えるなど、東洋趣味は大流行でした。(ゴッホなんかもそうですよね。)ドビュッシーも、ジャワのガムランに強い影響を受けていますし、先ほどからお話ししています管弦楽曲「海」の初版の表紙に北斎の波を描いた有名な版画を使ったり、まさに東洋にどっぷりだったといえます。

「映像」第2集


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