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連弾チクルス04

2016年 7月31日・竹風堂大門ホール
ピアノ:深沢雅美・松橋朋潤

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みなさまようこそおいで下さいました。今年は一年間「連弾」をテーマにお話しながら、長野のピアニストのみなさんの様々な組み合わせによる演奏をお楽しみいただいてます。11月の最終回はピアニストが8人登場してお祭りみたいな楽しいコンサートを企画してます。ピアニストが多いのし舞台も客席もここではさすがに手狭ですのでこの回だけは特別に長野市芸術館で開催させて頂きます。なお、最終回はぼくはあまり関わっていなくて、今日出演の松橋くんにプロデュースしてもらってだいぶ楽させてもらってます。
みなさまぜひともご来場ください。

さて、今日のピアニストはその松橋朋潤(ともひろ)くんと深沢雅美さんのペアです。男女のペアですね。松橋さんはつい最近まで学生さんだったので、深沢さんとはちょうどお姉さんと若者のペアという感じになりますね。今回は男女のペアという以上に、お姉さんと若者の組み合わせという点でも、どんな感じの演奏になるのかなあと思います。

さあ、連弾ですね。毎回お話してますけどやはり一応「連弾」の定義について簡単におさらいしておきましょう。一台のピアノの鍵盤に向かって二人の奏者が並んで弾くのが「連弾」です。
次に「連弾」というジャンルの大きな特徴を2つ、まず、ひとつめの特徴です。非常に「親密」で「家庭的」なジャンルであるということです。二つ目の特徴は「オーケストラ的」であるということです。「親密」という語感と正反対のイメージですよね連弾は「親密」な形態でありながら、同時にシンフォニックな方向性を常に求められてきた独特なジャンルなんです。

第一回からブラームスのハンガリー舞曲全21曲、ドヴォルジャークのスラブ舞曲全16曲すべてを全部リレーして弾いてもらっています。ハンガリー舞曲もスラブ舞曲も今日がゴールです。

ブラームス:ハンガリー舞曲集・第1集(第1番〜5番)

まず聴いて頂くのは、ブラームスのハンガリー舞曲の第1集です(第1番〜5番)。いちばん有名なやつですね。ハンガリー舞曲集はブラームスの生涯最大のヒット作です。本当に爆発的ヒットでした。ブラームスは若い頃にレメーニというハンガリーのヴァイオリン弾きとよく一緒演奏していました。このレメーニとゆー人がめっちゃくちゃジプシーというかロマの音楽に詳しくてですね、ふつうにみなさんジプシーと言ってますけど、ドイツならツィゴイナーって言います。でも、ロマというのが正確な言い方ですね。ジプシーって言い方は、現在の日本では差別的な用語ってことになっていて、近年はロマと言い直すようになってきてます。レメーニって人はロマのヴァイオリン弾きの独特な弾き方を取り入れて演奏したりするようなちょっとおもしろい音楽家だったんです。この人がブラームスにいろいろとロマの音楽を弾いて聴かせてあげていて、これをブラームスがメモしていて、それをもとに書いたのがハンガリー舞曲集だったわけです。ブラームス自身もこの曲集をハンガリー舞曲集と言ってますけど、本当はロマ舞曲集と言ったほうが正しいです。これらの音楽はハンガリー古来の音楽ではなく、ロマの人々の音楽です。ハンガリーではすごくロマの人々の音楽が受け入れられて人気がありました。ハンガリーではよく演奏されていたので、なんとなくハンガリーの音楽のような気がしてるだけなんです。実は全然違います。それでブラームスがロマの音楽をハンガリー舞曲なんてタイトルで発表して定着させちゃったので、ますます全世界的に誤解が広がって定着して今に至っているわけです。リストのハンガリー狂詩曲もそうですね。スペインの代表的な音楽・フラメンコも実はロマの音楽が入っています。フラメンコは、インドを起源として西に流れてきたロマ族と、スペインにかつて君臨したアラブ系民族、そして在来のアンダルシ ア人の民族芸能が融合してできたものなんです。興味のある方はドキュメンタリー映画「サクロモンテの丘」をぜひご覧下さい。

ロマの音楽は独特の哀愁があって情熱的で、そんなところにヨーロッパのクラシックにない濃厚で暗い情感や高揚感があったので、ものすごく影響力が強かったんです。だからブラームスもハンガリー舞曲を書いたし、リストもハンガリー狂詩曲を書いて、サラサーテもチゴイネルワイゼンを書きました。ぜんぶロマの音楽です。もちろんビゼーのカルメンのヒロイン カルメンもロマの女性です。
ロマの人々はヨーロッパに多く暮らしてるので、ヨーロッパの民族だと思われる人も多いんじゃないですかね。実はロマの民族はもともとインドから出てきた人たちです。ロマの人々は国土を持たず一箇所に定住しないで常に移動してる人たちなので、一箇所に落ち着いて商売したりとかはしないわけです。だから街角で占いをしたりとか、旅芸人みたいなことやったり、音楽やダンスをやったりとかそうやって生きてきたわけですね。だからミュージシャンも多い。そーゆーライフスタイルだからふつうにその辺に野宿しちゃったりして風呂も入れなかったりするからあんまり身なりも小綺麗にできなかったりする。ロマの子供たちは生きるために時にはかっぱらいや万引きもしちゃったりしてた。定住しないからロマの人々はしっかり学校にも通えない。そんな感じなので、ずーっと差別されてきました。実際に今も差別されてます。ナチスの時代もユダヤの人々と一緒にロマの人々も劣等民族だということでナチスはユダヤ人と同じく収容所に送ってどんどん殺しました。ナチスは障害を持つ人たちも収容所に送って、ユダヤ人やロマの人々と同じように容赦なく殺しました。日本でもひどい事件がありましたね(相模原の障害者施設の殺人)。あれは殺人事件という以前に思想的な事件でもありますね。いわゆる優生思想というやつです。ナチスの思想です。ハンデのある人や自分たちの気に入らない民族は「生きるに値しない命」だからこの世から消しても良し、という非常に危険な考え方です。
余談ですが、チャップリンのことはご存知でしょう。20世紀最高のコメディアン。彼もロマの血をひいてます。実はチャップリンはヴァイオリンがめちゃくちゃうまくて、作曲も天才的です(天才的メロディメーカーとしての才能はスマイル1曲だけでも明らかでしょう。)。👇の「ライムライト」のチャップリンとバスター・キートンの演奏シーンはご存じの方も多いでしょう。

やっぱりこれはロマの血でしょうね。チャップリンは自分でもロマの血をひいていることを誇りにしていました。

今日聴いていただく第1集は特に有名なナンバーばかりですからきっと楽しんでいただけると思いますよ。早速聴いてみましょう。ではお願いします。




さて後半です。

ドヴォルジャークのスラヴ舞曲ですね。
チェコはみなさんご存知の通り大変な国です。東欧の国々はみんなそうですけど、ずーっと他国の支配下または強い影響下にありました。特にハプスブルク帝国の支配下にあった期間が長いわけですが、つい最近までほんとにいろいろありましたね。第二次大戦ではドイツとソ連に相次いで占領されちゃいましたし、ソ連軍が侵攻してきていきなりチェコを占領しちゃったプラハの春の事件なんてのは1968年ですからつい最近のことです。東欧諸国はみんなそうですけれども、ほんとにチェコも大変でした。
他国に支配されるとめっちゃ大変ですが(最近の日本でも、沖縄の例を見ればよくわかるでしょう)、それでもハプスブルク帝国の一部だった時代はそれでもまだマシだったと言えるかもしれない。ハプスブルク帝国はもちろん帝国としての格好を維持するためにある程度同化的な政策を取っていましたが、その政策はそれでも比較的鷹揚さと言いますか、緩さがあったと言っていいかもしれません。貴族的な余裕かもしれないです。ハプスブルク帝国の東欧諸国の中ではチェコとハンガリーのふたつの国が大国だったわけですが、ハンガリーは政治的にうまく立ち回ることができて、ハプスブルク帝国に大幅にハンガリーの自治を認めさせることに成功しました。ここで「オーストリア/ハンガリー二重帝国」が成立することになるわけです。チェコはもちろんそれが超うらやましい。自分たちもハンガリーのようにオーストリアと対等の立場になって自治を認めて欲しいと思っちゃう。ここで当然のように一層独立運動が燃え上がることになります。でも、やっぱり良い職業につきたいならドイツ語じゃなきゃダメだし、出世もできない。役所の公用語は必然的にドイツ語です。ドイツ語は必須なんです。学校も子供たちの将来を考えたらドイツ語を教えないといけない。こんな風にしていれば特に同化政策を押し付けなくても、徐々にチェコの言葉は廃れて文化も消えてゆくんです。日本のアイヌだって琉球だって同じようなものです。
ドヴォルジャークはそういう中で、失われつつあったチェコ独自の音楽文化を取り戻そうとして、「民族の闘争の中で音楽の役割とは何か」と常に自分に問い続け、悩み抜いてきた人です。自分の祖国の舞曲や民謡を作品に取り込んで発表して、チェコ語のオペラや歌曲を作ってその音楽や言語の素晴らしさを世界に発信するとともに、チェコの人々に祖国の歴史や文化に対する誇りを持ってもらってアイデンティティの拠り所にしてもらいたいという強い願いが込められているわけです。「モルダウ」で有名なスメタナがチェコ一国に徹底的にこだわってどちらかとゆーとちょっと原理主義的に活動したのに対して、ドヴォルジャークの関心はチェコだけでなくチェコ周辺の国々にも広く向けられていました。例えばウクライナやスロヴァキア、ポーランド、ブルガリア。ロシアもそうです。いわゆるチェコという一国だけではなくて、もっと広い言語学的な分類のスラヴ語系の民族全体に広がっていました。だから「チェコ」舞曲ではなくて「スラヴ」舞曲と言ってるんです。
東欧の国々は小国が多いので大国に占領されたり、強い影響下に置かれざるをえない場合が多かった。そんなわけで19世紀には今のヨーロッパのEUみたいな構想が持ち上がったりしてました。スラブ語系の東欧の小国が連合して今のEUみたいに、各国の自治をちゃんと保障した大きな連合を作ろうという運動。そうすればそれなりの国土面積になるし、経済の規模だってそこそこになるだろうってことなんです。または、自分たちにはまだ力が足りないから、当面はハプスブルク帝国の傘の下で守ってもらいながらパワーを蓄えながら東欧諸国で力を合わせてやっていこうよ。とゆー考え方もありました。こんな風にすればドイツやトルコやロシアみたいな大国に囲まれていても、なんとか飲み込まれずにやっていけるんじゃないかとゆー構想が19世紀には実際にいくつかあったわけです。汎スラヴ主義とかドナウ連合構想なんてのがそうですね。19世紀には東欧でEUの東欧版のような動きがあったわけです。ドヴォルジャークとゆー人はどちらかというと、そっちの方の感覚が強い人だったと言えます。なので、このスラヴ舞曲集にはチェコだけではなくいろんな国の音楽が取り入れられているわけです。ポーランドのポロネーズやマズルカ、ウクライナのドゥムカ。クロアチアのコロとかほんとに様々です。スメタナ寄りのやや原理主義的な考え方の人たちは、そういったドヴォルジャークの態度を批判したりすることもあったようですね。チェコの音楽界はスメタナ派とドヴォルジャーク派に分かれていて、お互いに批判したりされたりってことがあったらしいです。ドヴォルジャークという人はどちらかとゆーと穏健派・保守派だと言っていいと思います。スメタナは急進派のシンボルと言っていいでしょう。ドヴォルジャークは民族ということについて、少し幅広くゆったりと理想主義的に考えているところがあって、そこがチェコという国への強い愛情にひたすら熱狂的に突き動かされていた原理主義的進歩派な人にはちょっとゆるく感じられるわけです。スメタナやドヴォルジャークの時代ってのはチェコは熱狂的な民族的文化的な復興期でしたから、ものすごく生真面目に突き詰めて熱心になりすぎちゃって、結果として寛容さに欠けてちょっと排他的になってしまう人も中にはいるわけです。みんなそれぞれ国のことを思ってただ一生懸命なだけなんです。だからドヴォルジャークはそーゆー人たちの批判の的になっちゃうこともあったわけなんです。ドヴォルジャークにはチェコ一国だけにとらわれないような鷹揚な感覚があったので、アメリカに行った時にアメリカの先住民や黒人たちの音楽に心を寄せて、新世界交響曲なんかを書くことができたわけです。ぼくは個人的にはこうやって「みんなで仲良くやろうよ」ってゆー理想や夢を音楽で語ることができたドヴォルジャークはなかなか立派な男じゃないかと思いますけどね。しかも彼は夢見てるだけじゃなくて、すごいリアリストでもあった。
でも、チェコの独立を命がけでやってる急進的な熱い人たちは、ドヴォルジャークはチェコ人のくせに、なぜこの民族闘争の大切な時期に、スメタナのようにチェコ人として、チェコの音楽に徹底してこだわり抜いて戦わないのかとゆー風に思ったりする。だから、今もチェコではスメタナは圧倒的なチェコ民族の英雄として、チェコの国内ではドヴォルジャークよりもちょびっとだけ格上の扱いを受けてるわけですね(スメタナは燃える革命の闘士なんです)。「新世界交響曲」や「スラブ舞曲」よりも、チェコでは、どうしてもひたすら純粋にチェコのこと「だけ」を謳いあげたスメタナの「わが祖国」が圧倒的に国民的な音楽なんです。実際スメタナは他民族の舞曲を使った作品など書きませんでした。
結局チェコは皆さんもご存知のようにスロヴァキアと一緒に合体してチェコ-スロヴァキアという複合国家として独立してた時期もありましたけど、結局うまくいきませんでしたね。こーゆーのはなかなか大変です。今は分かれてとチェコとスロヴァキアそれぞれが一つの国として独立してます。チェコ語とスロヴァキア語は通訳なしで会話が成立します。お隣だし風土も似てる。でもやっぱり根底で大きく違うところがあるんですよね。
例えばですね、長野と松本は方言もきつくなくて言葉もだいたい似てるし、そば食うし、おやきも食うし、地理的にも南信ほどは遠くないんだし、それじゃいっそのこと合併して同じ市になりましょう!とか言ったらできますか?とゆー話ですよ。たぶんうまくいかないでしょ?たしかに同じような言葉をしゃべってるし、山が多くて海がないから風景もまあ、似てるし、似たようなものを食ってる。でも、他の県の人にはよくわからないだろうけれど、皆さんもよくご存知の通り、長野は寺町文化で松本は城下町の文化だし、いろいろと細かく根底のところで簡単に埋められないほどの決定的な違いがある。県庁所在地の問題から始まって過去の問題も微妙にちょっとずつ引きずったりもしてる。明治の頃は長野県と筑摩県とあって、筑摩県の方の県庁所在地は松本だった。その後、チェコとスロヴァキアのように二つの県が合併して長野県になって、その県庁所在地が松本ではなく長野になってしまうとかね。それ以外にもちょっとした小競り合いみたいなことはずーっと繰り返してきてる。今もやってますよね。まあ、ほとんど風物詩みたいにやってますけどね。そういえば今日のピアニストは雅美さんが長野で松橋くんは松本ですよね。でも、こうやって心を一つにして体を寄せ合って仲良く素晴らしい演奏ができるんですから、長野はけっこう大丈夫なんじゃないかな。長野ってのは他の県の人にはわかりにくいですけど面積が広いから北信中信南信とものすごく文化が違います。皆さんもご存知の通りですけど、その違いは違いで何となく受け入れて、いい距離感を保ちつつそれでも一応県としての一体感を保って、何かあればみんなで信濃の国を仲良く歌ってまあまあ普通に同じ県民として平穏に暮らしてるわけですよね。ヽ(´▽`)/

東欧はユーゴやウクライナみたいに内戦になって血で血を洗うどうしようもない戦いになったりしてます。民族の問題はほんとに難しいです。ユーゴやウクライナは国家としてそこまで成熟してないので、簡単に内戦になってしまう。例えばウクライナは国家としてまだちゃんとしていなくて統治能力も弱いのですぐめちゃくちゃになってしまう。だから、「ハプスブルク帝国の時代を見直そう」なんて動きも出たりする。統治能力のない未成熟な小国が見切り発車的に独立すると本当に不幸な事態になる危険性も高いのです。

ではスラブ舞曲を聴いていただきましょう。

後半

ドビュッシー:小組曲

後半はフランスのドビュッシーの初期の名作「小組曲」を聴いていただきます。


ドビュッシーの初期には意外なことにピアノ独奏の曲ってのはないんですが、なぜか連弾の作品は多いんです。独奏曲とだいたい同じ数、あります。
中でも「小組曲」は名高い作品です。1888年から89年にかけて作曲されました。ちょうどその頃はワーグナーの作品に夢中になり、パリの万国博でジャワのガムランなどを聴いて、ヨーロッパのクラシックとは全く違う音楽に刺激を受けたりしてた時期にあたりますね。あと、大事なのは、歌曲を一生懸命書いていて、それに付随してボードレールやヴェルレーヌやマラルメなどといった文学の方にも激しくのめり込んでいたということも重要です。作曲家であると同時にほとんど文学者みたいだったわけですね。「小組曲」と同時期に作曲された歌曲「ボードレールの5つの詩」などは、その最高の成果です。ぜひ一度聴いていただきたいのですが、これが「小組曲」と同じ時期の作品とはちょっと信じられないくらい、歌曲の方がいろんな点で抜群に個性的で、初期の作品とはとても思えないんです。歌曲の分野で、ドビュッシーは圧倒的に先へ進んでいたんですね。「小組曲」はそれに比べるとずっとすっきりしていてわかりやすい作品です。だからといって「小組曲」がダメかというとそうではありません。初期のピアノ独奏曲では自ら「駄作」などと言って卑下していたドビュッシーでしたが、「小組曲」についてはその出来映えにとても満足していたようです。作品はやはりヴェルレーヌの影響が大きくて、「小舟にて」と「行列」はヴェルレーヌの詩のタイトルと同じです。そのヴァルレーヌに影響を与えたヴァトーの絵画の影響も大きいようです。音楽的にはまだ初期の作品ですから先輩フォーレやシャブリエなどの影響が感じられますが、ドビュッシーの個性もしっかり前面に出ており、これはやはり傑作と言っていいんじゃないでしょうか。ビュッセルによるオーケストラの編曲もよく演奏されます。ドビュッシーの全作品の中でもかなりポピュラーなものだといえるでしょう。

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