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モーツァルト:演奏会用アリア「ああ、私の思ったとおりだわ 〜 ああ、どこかへ消えておしまい」KV272、演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528
モーツァルトとプラハ
モーツァルトはプラハと縁の深い作曲家だ。
プラハでは1786年に「フィガロの結婚」が上演され、とんでもない大ヒットになった。1787年末にプラハに招待されたモーツァルトは、プラハのとんでもない「フィガロフィーバー」に驚愕する。到着するやいなや大歓迎を受け、休む暇もないほどの忙しさだった。この当時ウィーンではモーツァルトの人気はすでに衰えていたので、栄光に満ちたプラハの滞在はさぞかし楽しいものだっただろう。
モーツァルトはプラハではいつもドゥシーク夫婦(フランティシェク・クサヴェル・ドゥシークとヨゼーファ・ドゥシーク)の屋敷・ベルトラムカ荘に滞在した。この美しい建物は現存していて、見学もできるようだ。
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父・レオポルドの死などもあって作曲が遅れていたオペラ「ドン・ジョヴァンニ」はこのベルトラムカ荘でも作曲が進められた。モーツァルトは頑張って仕事をしたが序曲は間に合わず、初演の前の日にベルトラムカ荘で大車輪で書き上げた。超ギリギリだー。
映画「プラハのモーツァルト」(2016)ではこの序曲の作曲のシーンがあるので、ぜひご覧頂きたい。モーツァルトは、ほぼ軟禁状態で五線譜に向かい、モーツァルトの周りに陣取った写譜屋さんたちが書きあがったスコアを流れ作業で大急ぎでパート譜にするとゆー状況。オケピットの奏者たちはまだインクも乾いていないパート譜をピットで受け取ってすぐに上演開始とゆー 超恐ろしい状態((;゚Д゚)がコンパクトに描かれている。
1787年10/27、「ドン・ジョヴァンニ」はプラハで初演され、大成功を収めた。交響曲第38番KV504「プラハ」もまた1787年の1/19にモーツァルト自身の指揮でプラハで初演されていた。
モーツァルトは以下のように書いていてる
「(舞踏会で)人々がコントルダンスやドイツ舞曲に編曲したぼくのフィガロの音楽に乗って心から楽しそうに飛び跳ねているのを見て、ぼくはすっかりうれしくなった。…なにしろここでは、フィガロの話題で持ちきり…。…明けても暮れてもフィガロ、フィガロ。たしかにぼくにとっては大変な名誉だ(1787/01/15)」
6つのドイツ舞曲KV509
プラハでモーツァルトは「ありとあらゆる丁寧な扱いと名誉」を受けることができた。 自分の興行もすべて大成功となり、ひと月たらずの滞在で1000グルデンもの大金を手にし、さらに新しいオペラ作曲の契約(100ドゥカーテンの作曲料と公演1回分の売上金)という収穫もあった。
当時のグルデンが今の日本だといくらに相当するかとゆーのは非常に難しい問題だ。検索しても1グルデン3000円〜10000円まで幅が大きい。その最低額1グルデン3000円で計算しても、一ヶ月の収入としてはかなり大きい額になる。それなのにこのわずか2年後にはモーツァルトは経済的に逼迫した状態になってしまう。
なんで??
6つのドイツ舞曲KV509は、同地のパハタ伯爵に依頼されていたものだ。 しかしモーツァルトがなかなか書かないので伯爵はモーツァルトを部屋に閉じ込め、無理やり曲を仕上げさせたのだった。 部屋には五線紙、ペン、インクが置かれたデスクが用意されていた。モーツァルトは約1時間でこの舞曲を作曲したという。スコアはほとんど訂正なく、一気に書き上げられているそうだ。大急ぎで一気に書かれたこの舞曲の弾けるような楽しさは、得意の絶頂にあった超ご機嫌なモーツァルトの気分がそのままの勢いで反映されているようだ。
なお、この作品はピアノ用にもアレンジされている。
ドゥシーク夫婦(フランティシェク・クサヴェル・ドゥシークとヨゼーファ・ドゥシーク)はモーツァルトと深い友情で結ばれていた。
作曲家フランツ・クサーヴァー・ドゥシークの妻ヨゼファの母親のドミニカ・ヴァイザーはザルツブルク出身なのでザルツブルクはヨゼファの実家になる。1777年にザルツブルクを訪れた新婚のクサーヴァーとヨゼファは、モーツァルトと会う。ヨゼファは子供の頃からモーツァルトを知っていたが、これは久しぶりの再会だっただろう。ヨゼファの実家ヴァイザー家は元々モーツァルト家と親しい間柄だった。
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モーツァルトのオラトリオ「第一戒律の責務」K.35 の作詞をした文筆家でザルツブルク市長も務めたイグナツ・アントン・ヴァイザー(Ignaz Anton Weiser, 1701-85)はヨゼファの祖父だ。つまりヨゼファはザルツブルクの名家出身のお嬢さんなのだ。
ちなみに、レオポルド・モーツァルトもまた1753年にヴァイザーのテクストで典礼カンタータ
"DER MENSCH, EIN GOTTESMOERDER"
を作曲している。
1777年にモーツァルトはヨゼファの歌を聴いて触発され、彼女のために演奏会用アリア「ああ、私の思ったとおりだわ 〜 ああ、どこかへ消えておしまい」KV272を作曲した。ヨゼファは非常に優秀な歌手だった。このアリアは同時期のモーツァルトの作品としては異様なほどに激しい表出力を持つ大曲で、際立った印象を与える。
演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528
モーツァルトはその後もヨゼファのコンサートでピアニストを務めたり、1787年には演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528も作曲した。やはりこのアリアもまた、非常に劇的な大曲だ。ドン・ジョヴァンニの劇性がそのまま反映されたような音楽には圧倒される。これらの曲を見ると、ヨゼファがいかに才能溢れる歌手だったかよくわかるだろう。
ヨゼファは頼んでいたアリアができてこないので、滞在中だったモーツァルトを部屋に閉じ込めて鍵をかけて作曲させた。モーツァルトは超絶技巧なアリアを一気に書き上げて、ヨゼファに向かって「これを初見で正確に歌えなかったら渡さない」と言ったそうな(意地悪いなー・笑)。
演奏会用アリア「とどまってください、ああいとしい人よ」
KV528
どうだったのかな。彼女は正確に歌えたんだろうか….。
それにしてもプラハのモーツァルトは閉じ込められがちだ…
まあ、それだけ多忙だったとゆーことか。
ベートーヴェンも1796年のプラハ旅行にヨゼファと知り合う。そして彼女のためにアリア「ああ、不実な人」Op65を書き上げた。これまた劇的な作品だ。
https://youtu.be/kKIYejD6CQo?si=t4KaGa8gYMbM_Qwo
ヨゼファが歌って初演している。おそらくベートーヴェンはプラハでのモーツァルトの思い出をドゥシーク夫妻から聞かせてもらって刺激を受けたことだろう。モーツァルトの親友ヨゼファのために書くのだから、当然モーツァルトのことを意識して張り切って書いたことだろう。
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