モーツァルト・レクイエムKV626
だいぶ前に書いた解説原稿をweb用に大幅に加筆修正してます。モーツァルト・ピアノソナタチクルスのレクチャーの補強と、自分のアタマの体操のために書いています。
レクイエムの依頼
1791年、モーツァルト死の年、背の高い痩せた無愛想な男が突然モーツァルトの住まいに現れました。男は自分の名を明かさず「使いの者だ」とだけ言って、注文主の名も明かさないままレクイエム(死者のためのミサ曲)の作曲をモーツァルトに依頼しました。男は気前よく前金で50ドゥカーテン(日本円に換算してだいたい50万円程度でしょうか)を提示し、曲が完成したら更に50ドゥカーテンを支払うと約束しました。当時借金だらけで経済的に土俵際だったモーツァルトにとってこの依頼はありがたいものでした。
モーツァルトはそれから天国的な美しさをたたえたモテット『アヴェ ヴェルム コルプス』KV618を書き上げると、「謎めいた男」に依頼されたレクイエムにとりかかりました。モーツァルトはこの「謎めいた男」は死の国からの使者で、自分自身のためのレクイエムを書くように命じていったのだ、という考えに取り憑かれるようになったようです。レクイエムに取りかかった頃のモーツァルトは全体に調子が良くなかったので、この訪問者が死の国の使いだと考えるようになったのも無理もないかもしれません。
ヴァルゼック伯爵
しかし、実はこの「謎の男」は素性のはっきりした至極まっとうな紳士であって、もちろん死の国からの使いなどではなく、謎めいたところは一切ありません。この人はオーストリアの音楽好きの貴族ヴァルゼック伯爵の使いで、ライトゲープというごく普通の人でした。自分の名を明かさず注文主の名も明かさずに依頼したのには訳がありました。ヴァルゼック伯爵はプロの作曲家に書かせた作品を自分の作曲だと言って演奏するのが趣味だったらしく、つまり、モーツァルトに「ゴーストライター」をやらせようとしたんです。そんな事情ですから、使者をつとめたライトゲープも言いにくいことも多かったでしょう。どうしても謎めいた感じの歯切れの悪い依頼になってしまうわけです。同時代のホフマイスターやドゥヴィエンヌといった作曲家もヴァルゼック伯爵の「ゴーストライター」を務めた形跡があります。モーツァルトに依頼した「レクイエム」は、1791年冬に亡くなったヴァルゼック伯爵の妻を追悼するために、伯爵が「自分の作品」として演奏する予定でした。そんな経緯で、謎めいた死の使者がレクイエムの依頼に訪れるという「レクイエム伝説」が生まれることになったのです。
ミロシュ・フォアマン監督の映画「アマデウス」(1984)でも、謎の使者のレクイエムの依頼のシーンがあります。ミロシュ・フォアマンはこの場面で歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の音楽を使って、ドン・ジョヴァンニを地獄に落とす騎士の石像(=死)のイメージを重ね合わせました。
シュテファン大聖堂副楽長
晩年のモーツァルトはバッハの作品をはじめ、バロックの教会音楽への関心を深め、研究に熱中していました。モーツァルトは1791年の春にはシュテファン大聖堂の副楽長に任命されています。モーツァルトはこうした研究を踏まえてフーガなどの対位法を駆使した音楽を沢山書いています。こうした対位法技術の探求が、ジュピター交響曲のフィナーレやピアノソナタKV576「レクイエム」といった傑作に結実していくのです。
シュテファン大聖堂の副楽長というポストは無給でしたが、将来的には楽長の座が約束された地位でした、当時のモーツァルトは調子が悪く、死の想念に取り憑かれたようになることもありましたが、100%絶望的になっていたわけではありません。「レクイエム」のほかにクラリネット協奏曲、歌劇「魔笛」「皇帝ティートの慈悲」などを手がけるなど創作意欲も極めて旺盛で、同時に、将来の聖シュテファン大聖堂の楽長就任も見据えて、教会音楽の研究もしようとしていたのでした。死ぬ予定じゃなかった。未来もちゃんと見ていたのです。そうしたモーツァルトにとって「レクイエム」の依頼は、多少怪しげであったとしても、教会音楽の勉強にもなる。しっかりした額の謝礼でもあることだし、「渡りに船」だったと言えるでしょう。
1791年秋になるとモーツァルトの体調は目に見えて悪化していきましたが、レクイエムの作曲は弟子(助手と言った方がいいかもしれません)のジュスマイヤーに手伝わせたりしながら続けていました。
モーツァルトの死
しかしモーツァルトは回復することなく、1791年12月5日に亡くなりました。35歳でした。
☝️の画像はフランツ・シュラムによる 1857年のリトグラフです。モーツァルトは膝にレクイエムのスコアを広げて、弟子のジュスマイヤーに指示を与えています。入り口には謎の使者が描かれています。この絵を見ると19世紀半ばにはもう「レクイエム伝説」が世の中に広まっていたことがよくわかります。
1791年12月4日、死の前日のモーツァルトは、午後の早い時間に見舞いに来ていた劇場の親しい歌手3人と病床のモーツァルト自身の4人で、「レクイエム」の書き上がっていた部分を通して歌ってみました(モーツァルトはアルトのパートを担当したそうです)。8小節で中断していたラクリモーサに差しかかるとモーツァルトは激しく泣き出し、楽譜を投げ出してしまいました。この日の夜、モーツァルトの熱は恐ろしいほど上がり、12月5日に入ってすぐ、午前零時55分に亡くなりました。
「レクイエム」は残念ながら未完成のまま残されました。彼が完成させることができた部分は「イントロイトゥス」全部、「キリエ」から「オッフェルトリウム」までの歌唱声部とバス。そしてオーケストラの主要な音型(ラクリモーサは第8小節で中断)以上の部分でした。最終的に「レクイエム」を完成させたのは同じく弟子のジュスマイヤーでした。ジュスマイヤーは補筆できるところは補筆し、補筆が不可能なところは作曲を行って全曲を完成させました。このジュスマイヤー版は当初から物議をかもし1820年台には真贋論争を引き起こしています。1970年代以降になるとジュスマイヤー版に代わる様々な補筆の試みが行われるようになり、(バイヤー版、モーンダー版、ランドン版、レヴィン版など。)現在は版が乱立気味で、やや混乱した状態にあるといえるでしょう。
版の問題
いろいろ問題はあっても実際にモーツァルトの側で作曲の手助けをし、自分の死後にレクイエムをどう完成するかについて病床で直接指示を受けたであろう弟子のジュスマイヤーの版の優位は変わることはなさそうです。この素晴らしい感動的な作品を前にすると。誰が何をどう補筆したか などということは瑣末でつまらないことのようにすら思えてきます。研究者はいろいろ考えてしまうのでしょうけれど...
以上のように問題は多々ありますが、「レクイエム」は間違いなくモーツァルトの宗教的作品の中でも、音楽史上の宗教作品の中でも最高峰に位置する天才的な傑作です。非常に独創的で革新的でありながら、その音楽はバッハやヘンデル以来の伝統の上に立脚して作曲されています。彼は伝統を破壊するのではなく伝統を見直し、大切にすることによって、より新しくなり、より独創的であろうとしたのです。この作品の大きな特徴は合唱の重視です。ひたすら合唱中心です。独唱は4人いますけれども、非常にストイックに扱われていて、モーツァルトがかつてミサ曲で書いていたようなオペラアリアみたいな独唱は出てきません。
初演とその後
なお、このレクイエムの初演については本来の注文主ヴァルゼック伯爵による演奏に先立ち、残された妻・コンスタンツェのために1793年の1月に行われたという説もあります。依頼主だったヴァルゼック伯爵は、予定通り伯爵自身の指揮で亡き妻への記念としてジュスマイヤーが完成させたこのレクイエムを「自作のレクイエム」として演奏しました。伯爵は残りの報酬を未亡人のコンスタンツェに「きちんと」支払いました。(伯爵はちょっと困った人でしたが、しっかりした人だったようです)。コンスタンツェはこの「レクイエム」をはじめ夫の遺した作品によって沢山お金が入ったので、あっという間に夫の残した莫大な借金を完済することができたそうです。晩年のモーツァルトは借金だらけでしたが、残されたコンスタンツェが苦労することのないようにして、きれいに天国に旅立っていったのです。
余談
伝統的なスタイルの動画なら、ぼくはコリン・デイヴィスの1984年のものを偏愛してます(何度でも書きます)。コリン・デイヴィスの映像は2002年が多いのですが、ぼくは1984年の演奏がずっと好きです。例えば有名なカール・ベームの演奏などは今ではさすがに古さを感じますが、コリン・デイヴィスの演奏は伝統的なやり方なのに、ぼくは古さを感じません
ガーディナーの全曲の動画は、ソリストにバーバラ・ボニーとフォン・オッターが参加してるので(ファンです❤️)、個人的にめっちゃ好きです。コーラスもめっちゃうまいし…
最近の小編成のコーラスでは☝️の動画が凄い。圧巻のコーラス。指揮の先生も個性的で超おもろい。
今人気のクルレンツィスの演奏もなかなか素晴らしい。かっこいい👏