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連弾チクルス03

2016年 5月22日・竹風堂大門ホール

ピアノ:小井土愛美・坂原美菜
 
みなさまようこそおいで下さいました。今年は一年間「連弾」をテーマにお話しながら、長野のピアニストのみなさんの様々な組み合わせによる演奏をお楽しみいただきたいと思っています。最終回はピアニストが8人登場してお祭りのような楽しいコンサートを企画してます。ピアニストが多いのでステージも客席もここではさすがに手狭ですのでこの回だけは特別に市民芸術館で開催させて頂きますのでどうかお間違えのないようにお願いいたします。

さて今日のピアニストは小井土愛美さんと坂原美菜さんのペアです。このお二人はよく連弾でも共演されてますのできっと息のあった演奏を聴かせてくれるんじゃないかなと思います。

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さて、まず「連弾」の定義について簡単におさらいしておきましょう。一台のピアノの鍵盤に向かって二人の奏者が並んで弾くことを「連弾」と言います。これは漢字を使う言語である日本語ならではの、「日本だけ」の言い方です。「連れ弾き」ですよね。趣があっていい言葉です。昔の人はうまい言葉を考えついたものだなあと思います。定義としては一台の楽器の「鍵盤」に対して二人が並んで一緒に弾くのが「連弾」ということになりましょう。
次に「連弾」というジャンルの特徴です。2つあります。まず、「親密」で「家庭的」なジャンルであるということ。音楽の分野でこれ以上奏者同士が接近して肩寄せ合って寄り添って演奏するスタイルはありません。二つ目の特徴は「オーケストラ的」であるということ。19世紀の頃、おうちでオーケストラの曲を楽しむためにオケの曲を連弾に編曲した楽譜もたくさん出版されたんです。連弾だとピアノ一台でもオケっぽく豊かに鳴るんです。こーゆー楽譜が当時のヨーロッパではよく売れました。楽譜が売れるから、オケ曲の連弾への編曲の仕事は作曲家たちのいいアルバイトにもなってました。今日聴いていただくハンガリー舞曲もスラヴ舞曲もマメールロワも元は連弾の曲ですが、オーケストラのアレンジもオリジナルの連弾版もどちらも同じように違和感なく広く愛されてます。これは家庭的で「親密」な形態でありながらも、同時にシンフォニックな方向性を常に求められてきたジャンルでもあるという「連弾」特有の現象です。この相反するような二つの特徴を同時に併せ持っているところが連弾というジャンルのおもしろさなんです

ブラームス:ハンガリー舞曲第2集(第6〜10番)

さて、まずはブラームスのハンガリー舞曲の第2集(第6〜10番)です。ハンガリー舞曲集はブラームスの生涯最大のヒット作です。全21曲を4つに分けて出版しました。ハンガリー舞曲についての説明は前回に詳しく行いましたので、早速演奏を聴いてみましょう。今日聴いていただく中では6番が一番有名です。そして、その次に有名なのが7番と8番でしょうね。9番と10番はいい曲ですが、6,7,8に比べるとあまり人気がないです。いい曲ですけどね。

ではお願いします。


オケや他の編の動画もいろいろありますが、ここでは6番と7番の楽しい動画をご覧ください。ユーリ・シモノフの指揮が超絶おもろいのでぜひぜひ!

7番はヴェンゲーロフがアバド指揮のオケ伴奏で弾いてる動画が超ご機嫌です。とにかくもうやたらといろんなアレンジがあるのがハンガリー舞曲なんです。でもやっぱりヴァイオリンが一番ハマりますね。すごくヴァイオリン節なので…


スラヴ舞曲集 第2集 Op.72より(第1番〜4番)

そしてドヴォルジャークのスラヴ舞曲です、
ドヴォルジャークは音楽学的に言うといわゆる「国民楽派」に属する作曲家です。その音楽は「民族問題」や「民族運動」「国家の独立運動」と切って離すことはできません。
チェコはみなさんご存知の通り大変な国です。ずーっとオーストリアやらポーランドとかドイツなど他国の支配下または強い影響下にありました。つい最近までほんとにいろいろありましたね。ソ連軍が侵攻してきてチェコを占領しちゃったプラハの春の事件なんて1968年ですから、つい最近です。ほんとにもうチェコは大変でした。

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他国に支配されるとどうなるかとゆーと、まずその国の独自の言語を奪われ独自の文化や習慣を奪われてしまいます。同化政策ってやつですよね。
ドヴォルジャークは失われつつあったチェコ独自の音楽文化を取り戻そうとして、ものすごくがんばった人です。それはもうとんでもないがんばりでした。ドヴォルジャークはずっと「民族の闘争の中で音楽の役割とは何か」ということを常に自分に問い続け、悩み抜いてきた人です。自分の祖国の舞曲や民謡を作品に取り込んで発表して、チェコ語のオペラや歌曲を作ってその音楽や言語の素晴らしさを世界に発信するとともに、チェコの人々に祖国の文化に対する誇りを持ってもらってアイデンティティの拠り所にしてもらいたいという強い願いが込められているわけです。「モルダウ」で有名なスメタナがチェコ一国に徹底的にこだわって、やや原理主義的に活動したのに対して、ドヴォルジャークの関心はチェコだけでなくチェコ周辺の国々にも広く向けられていました。
ウクライナやスロバキア、ポーランド人、ブルガリア人、ロシア人もそうですが、いわゆるチェコという一国だけではなくて、もっと広い言語学的な分類のスラブ語系の民族全体に広がっていたのです。だからチェコ舞曲ではなくてスラブ舞曲なんですね。
チェコも含まれるいわゆる東欧の国々は小国が多いので大国に占領されたりとか、強い影響下に置かれざるをえない場合が多かったりしたわけです。例えばウクライナは今もなおその渦中にあって混迷を極めてますね。そんなわけで19世紀には東欧にも今のヨーロッパのEUみたいな構想が持ち上がったりしてました。スラブ語系の東欧の小国が連合して、各国の自治を確実に保障した大きな連合を作ればそれなりの面積になるし経済の規模だって集まればそれなりの規模になるじゃんってことなんです。そうすればロシア、ドイツ、オスマントルコといった圧倒的な強国に挟まれていても、なんとか飲み込まれずにやっていけるんじゃないかとゆー構想が19世紀には実際にいくつかあったわけです。19世紀には東欧でもうEUの先駆けのような動きがあったわけですね。ドヴォルジャークとゆー人はどちらかというと、そっちの方の感覚が強い人だったと言えます。なので、このスラヴ舞曲集にはチェコだけではなくいろんな国の音楽が取り入れられているわけです。ポーランドのポロネーズやマズルカ、ウクライナのドゥムカ。ユーゴスラヴィアのコロとかほんとに様々です。スメタナ寄りのやや原理主義的な考え方の人たちは、そういったドヴォルジャークの態度を「甘い」と言って批判したりすることもあったようですね。ドヴォルジャークという人は民族ということについて、もう少し幅広くゆったり考えているところがあって、そこがチェコという国への強い愛情にひたすら熱狂的に突き動かされていた原理主義的な人には気に入らないわけです(そのくらい熱く強烈じゃないと革命や独立などできない、とゆーのもまた真理ですけどね…)。スメタナやドヴォルジャークの時代ってのはチェコは熱狂的な民族的文化的な復興期でしたから、ものすごく熱心に生真面目に突き詰めて、熱心になりすぎちゃって結果として寛容さに欠けてちょっと排他的になってしまう人も中にはいるわけです。みんなそれぞれ祖国のことを思ってただ一生懸命なだけなんです。ドヴォルジャークはそーゆー人たちの批判の的になっちゃうこともあったわけなんです。
今日聴いて頂く中で一番有名なのはOp46の2番です。誰もが知ってる曲です。この曲はウクライナのドゥムカです。スラヴ的哀愁の極地です。

例えばこれまた有名なOp72の2番はマズルカです。

ご存知の通りマズルカはポーランドの民族舞曲です。ショパンがいっぱい書きましたね。 チェコの独立を命がけでやってる人たちは、ドヴォルジャークはチェコ人のくせに、なぜポーランドとかウクライナの音楽なんかやるのか。なぜこの民族闘争の大切な時期に、スメタナのようにチェコ人として、チェコの音楽に徹底してこだわり抜かないのかとゆーことです。結局チェコは皆さんもご存知のようにスロヴァキアと一緒に合体してチェコ-スロヴァキアという複合国家として独立してた時期もありましたけど、結局うまくいきませんでしたね。チェコ一国として独立してます。二つの国が合体してもいろいろ細かく問題があってうまくいかなかった。だから(チェコだけにこだわり抜いたから...)、今でもチェコではスメタナは圧倒的なチェコ民族の英雄としてチェコではドヴォルジャークよりもちょっぴり格上の扱いを受けてるわけですね。「新世界交響曲」や「アメリカ」「スラブ舞曲」よりもチェコではやっぱり、なんと言ってもひたすら純粋にチェコを謳いあげたスメタナの「わが祖国」が国民的な音楽なんですよね。
ではスラブ舞曲を聴いていただきましょう。

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実際、スメタナも舞曲集を書いてます。ピアノソロのための「チェコ舞曲集」です。2集から成っています。もちろん「スラヴ」ではないんですよね。絶対に「チェコ」でなければならなかった。だからスメタナのチェコ舞曲集には外来の音楽は入ってきません。

舞曲の内容はポルカ、フリアント、ソウセツカーのほかほとんど名前も聞いたことのないようなチェコの舞曲の数々[スレピチカ、オヴェス、メドヴィエト、ツィブリチカ、ドゥパーク、ドゥパーク、フラーン、オプクロチャーク、スコチナー]がズラッと並びます。


ラヴェル:「マ・メール・ロワ」


後半はラヴェルのオリジナルの連弾作品。1908年に作曲されたピアノ連弾のための「マ・メール・ロワ」を聴いていただきます。ラヴェルは自分の作品はもちろん、他人の作品もたくさん編曲しています。ラヴェルはオーケストラの扱いが天才的でしたから、そーゆー仕事をたくさんしてます。ロシアのムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」の見事なオーケストラ用のアレンジはもしかすると原曲よりもポピュラーになっているといってもいいかもしれません。逆に、オーケストラの曲をピアノ連弾やピアノ独奏用に編曲することもやってました。
「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾のために書かれた連弾のオリジナルの作品です。「マ・メール・ロワ」はオーケストラ用の組曲にも編曲され、バレエ用のヴァージョンも存在します。オーケストラ版は極めて美しくて、とてもよく演奏され広く親しまれています。これから聴いていただくオリジナルの連弾の版も本当によく演奏されます。この作品は本来は子どものためのピアノ連弾曲で、おとぎ話に基づく5曲から成る組曲です。この組曲を書くにあたって、ラヴェルはシャルル・ペロー、ドーノア伯爵夫人マリー・カトリーヌ、マリー・ルプランス・ド・ボーモンら3人の作家の子供向けの物語を参照しました。ラヴェルにとってはこの3人の中ではペローが最も重要でした。ペローの名前はみなさんも聴いたことがあるかもしれません。『長靴をはいた猫』や『眠りの森の美女』『赤ずきんちゃん』を書いた作家です、ボーモンは「美女と野獣」を書いた人ですね。なお、マ・メール・ロワというのは「マザーグース」という意味です。
2曲めの「親指小僧」はこんなお話です。『森で道しるべにパン屑をまき散らしておいたのに、いざ帰ろうとしてびっくり。パン屑は鳥がみーんな食べてしまいましたとさ』というお話です。そんな情景を思い浮かべて聴いていただければと思います。
3曲めの「パゴダの女王レドロネット」は。こんな情景です。『女王レドロネットが服を脱いでお風呂に入ると、人形たちはくるみやアーモンドで作った楽器を弾いて。歌い始める』この人形たちは中国風の人形なので、音楽も中国風の五音音階を使って作曲されているので、中国風になっています。
第4曲の「美女と野獣の対話」はこんな風です『野獣は醜い
だが心は美しい。野獣は美女にわたしの妻になって下さい、と言う。美女はためらう。野獣は命をかける。美女はついに受け入れる。すると美女の前には野獣ではなく美しい王子が立っていた。』


ところで、フランスの指揮者でラヴェルに作曲を師事したマニュエル・ロザンタールはこう述べています『ラヴェルの最も輝やかしい才能というのは常に深い優しさを表現し得たことだろう。思うにラヴェルこそ優しさを持った作曲家ではなかったか。ドビュッシーは愛の作曲家だが暴力的なものや猜疑心もあり、嫉妬の感情も持ち合わせている。』『ラヴェルの多くの作品の中に存在しているこのような素晴らしい「優しさという感情」こそ敬服すべきものだろう。ラヴェルが誰にも増して子供の母へのピュアな愛情の深さを表現できたのはこのためです』ロザンタールのこの言葉は「マ・メール・ロワ」を語る上でも鑑賞する上でも大事な言葉だと思います。ラヴェルの音楽の優しさは子供のように純粋で汚れがないのです。そうしたラヴェルの音楽の「無垢な優しさ」が最も良い形で結実した作品が「マ・メール・ロワ」の最後の楽章、「妖精の園」だと言っていいでしょう。この作品を聴いて涙を押さえられない人はとても多いと思います。ぼくはたぶんこの曲を実際に聴かなくても思い浮かべただけで泣くことができると思います。先ほどご紹介したマニュエル・ロザンタールはこう述べています

『初めてラヴェルがマ・メール・ロワを聴かせてくれたとき、「妖精の園」の最後の和音になってもみなだまりこくったままで何も反応しなかったという。ラヴェルは(たぶん誤解して)そこに敵意のようなものを感じたらしく、楽譜を携えて出ていってしまったのです。一言もあいさつもせず、さよならも言わずに。階段を降りるラヴェルの足音が聞こえなくなると、みなは泣き出してしまった。マ・メール・ロワの輝くような優しさは極めて簡素な手段だけで巧みに得られたもので、これは真の巨匠だけが発見できるものだろう。こういった簡素さは誤解を招いてしまう。新しさとはつねに複雑で、骨の折れるものだと思われていることが多いからだ。極めて洗練された音楽家だからこそ最小限のシンプルな手段で「妖精の園」のような音楽を書くことができたわけだ。こんなに単純な曲が天国的なものを喚起しているとなればどうして無関心でいられようか。ハ長調で2、3の旋律以外はなく込み入った対位法もなく複雑な和声の操作もない…仮にラヴェルがどんな作曲家であるかを手短に述べるとしたら、次のように言うべきだろう。彼の音楽こそ、どんなときでもどんな状況にあっても、優しさからできているのだ。と。それゆえ彼は現在でもすばらしい作曲家だとみなされているのである。
彼は結局自分自身の中に豊かさと神秘性にあふれたピュアな子供時代を保つことができた』


以上のようなロザンタールの言葉を踏まえてこれから「マ・メール・ロワ」を聴いていただけると一層この作品の素晴らしさがわかっていただけるのではないかなと思います。ではこの感動的な作品を聴いていただきましょう。マ・メール・ロワのこういった特徴についてお話ししていくと、ある大作曲家のことを思い浮かべざるをえませんね。それはモーツァルトです。ラヴェルはモーツァルトのことをいつも心から尊敬していました。ラヴェルのこうしたピュアな音楽はやはりモーツァルトのそれを思い起こさせます。
では聴いていただきましょう。


おまけ動画など

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