一貫性の狂気
私は九段下パルチザンというnoteを購読している。このnoteのアカウントとは別のアカウントだが、課金して購読している。ふと何に課金しているのかと考えるとこれは長くなりそうなのでまた別の機会に考えるとする。
次にそもそもなぜ『あなこ』がnoteを書いているかということであるが、これは本来「note始めました!!」などとツイートしながら初回に書くべき記事だと思うのだけど、たまたまそのような順序で気が向かなかったせいでありそれ以上の理由は無いので、これもまた次回以降ということでご容赦いただきたい。
今回は以下の九段下パルチザンの記事を読んでいて頭に浮かんだことをTwitterに書いていたら思わず長くなってしまったがためにnoteに書いた次第である。それ以上の理由は無い。
過度の一貫性や統一感というものを希求すると狂う
人は生きている限り変わる生き物だし、変われないことは自然界においても社会においても不利である。その一方記事には以下のような記載もある。
ブランドとは統一感である
文中で触れられているように商品におけるブランドは品質の一貫性の担保で、昔インドに行ったときなど「一番安心して飲めるのはコカ・コーラ」などと言われていた。この場合コカ・コーラは「世界中どこに行ってもとりあえず安全な水分」の目印である。
さて、近年SNSの発達等でアカデミックな世界とまで行かなくても仕事上での個人のブランディングというものが身近になりつつある。個人のブランディングにあたって一貫性を担保するものは何か。商品と同様に考えればアウトプットの質である。
ところが今はSNS全盛の世であり、仕事としての公式なアウトプット以外にも他者に向かって非公式な自身を露出する機会が大幅に増えている。発言、行った場所、食べたもの、アップロードした写真の一枚一枚まで。
仕事にかかる部分だけを見ても、公式に発信している内容と非公式な発言や行動が容易に照合できるようになってきている。
一つ前の九段下パルチザンの記事への感想ツイートでも触れたが人の強みは柔軟性である。ただしそれは常に次の一手として正確に正解を選び続けるようなものではなく、暗闇の中をもがくように試行錯誤していくものであり、次にあるべき一手までの間に何十手何百手もの無駄や誤りを含むものである。しかし本人が望むと望まざるとに限らず、SNSはそれらの試行錯誤も可視化させてしまう。
ここに個人のブランディングの難しさがある。名前に紐付けて露出される内容に一貫性を持たせるために、ネットの海に漂う自らの名に紐付く情報をコントロールしなければならないからだ。アンチでも湧こうものならツイートの一つ、リプライ一つでも揚げ足取りに使われてしまう。SNSのアカウントを分けて運用している人なども見かけるが、公私両面での交友関係や既に実名が周知の事実となっているケースも有り、切り分けが難しそうである。
ちなみにここまで書いたことを台無しにするようで難だが、個人のブランドで仕事をしていなくても他人事ではない。SNSにブランディングされた個人とその他個人との境界はない。何の一貫性を担保するのかと言いたくなるような趣味や独り言の垂れ流しアカウントに対してでさえ、一貫性がない、信用できないなどと難癖つける人間は珍しくない。一貫性強迫症とでも言いたくなるような人間であるが、もちろん彼らが本当に求めているのは一貫性などではない。多くは相手に粗があり、それを指摘できる自分が優等だと思いたいだけの人間だ。
あなたが有名人でなくても彼らはやってくる。有名人バッシングでマスゴミだ、週刊誌は糞だなどと言っている場合ではない。勝手に粗を探しにやってくる彼らは今この時もあなたのツイートを見ている。