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私とトルコと言語学


音楽、ライブ、旅行、カメラ、アート、読書などなどスキなことはたくさんあるんですが、前回の投稿で書いたように私がnoteを始めようと思った理由には、トルコと言語学が大きく関係しています。そして、この2つは私にとって強い繋がりがあります。今回はその経緯について自分の頭の中の整理も兼ねて書きたいと思います。少し長くなるけれど、お付き合いしていただけたら嬉しいです。

1.トルコに留学しようと思ったわけ

大学に入学するまで私は一回も「トルコ」に留学しようと思ったことはありませんでした。高校生の時は、大学に入学したら英語圏に留学して英語がペラペラになってやるんだと夢を描き、英語の勉強を頑張るんだと意気込んでいました。

しかし、現実はそう甘くなく、大学に入ったら英語がぺらぺらの人間なんてうじゃうじゃいるわけです。特に私は文学部なので周りに英語ができる人間がとても多かったんです。こういう子が留学に行くんだ、と思わされるような子ばかりでした。

それに加え、たまたま仲良くなった子たちが揃いも揃ってみんな地元有数の進学校出身でした。そこまで出身校の偏差値が高くない私はそんな周りに学歴コンプレックスを抱いていました。また、進学校からは多くの生徒が入学するので、みんな知り合いが多いんですよね。私の場合、同じ大学に進学したのは自分を除いて2人しかおらず、その2人も学部はそれぞれ違う上、もともと交流があったわけでもなかったので、実質ひとりぼっちで圧倒的孤独感を感じていました。

私自身英語がものすごく苦手だったわけではありませんが、そんなこんなで学歴コンプに打ちのめされ、劣等感ですっかりボロボロになっていました。

「何かしなきゃ」「何かしたい」「目標が欲しい」という積極的な自分と「どうせ自分なんかがやっても」「私はこの大学で底辺なんだ」という消極的な自分の葛藤で最初の数か月は本当に苦しかったです。夢を語っていた地元の友達に電話してよく泣いていました。何かやりたいのにやりたいことが見つからないというのはこんなにも苦しいんだと初めて思いました。

そんなとき大学のオリエンテーションで出会ったのが「トルコ留学」です。

資料を見たとき、受験期の私がいつか絶対に旅行に行きたいと思った場所ランキング一位の「カッパドキア」がトルコにあることを思い出しました。そして、トルコはアジアとヨーロッパのちょうど間にあり、文化がちょうど混交する場所です。文学部を進学先に選んだのには「文化」にも興味があったからということもあり、トルコに行くことを決めました。

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2.「遊びなさい。」

多くの人は目標を遂げるために留学に行くと思います。しかし、私の場合はそんな経緯があったので、「目標を探しに行く」ために留学したのでした。

私が留学したのはチャナッカレという街にある大学です。チャナッカレはイスタンブールからバスで6時間ぐらいの西海岸の港町です。街の紹介はまた別の記事にしますね。とてもじゃないけれど書ききれないので。本当に美しい街です。私はこの街で1か月の間ホームステイをして暮らしていました。

向こうの大学のカリキュラムの予定がずれたため、1か月では単位を取ることが難しくなったので、私は日本語教育学科と留学生向けのトルコ語のクラスにランダムで聴講生として参加していました。だから、みなさんが想像するような課題に追われていて、いつも勉強しているような留学生とはだいぶ違った生活をしていたと思います。遊んでいた、と言われても正直仕方がないです(笑)実際身に着けたことは「トルココーヒー」と「チャイ」の淹れ方、晩御飯のトルコの家庭料理風サラダのつくりかたぐらいです。

でも、思い返してそんな留学生活で良かったなとやっぱり思います。

「せっかく日本から10時間かけてトルコに来たのでしょう。きっともう一度ここへ来ることなんてほとんどありえないでしょう。いろんな経験をしてください。いろんなところへ出かけてください。遊びなさい。授業なんて出なくていいです。机の上でできる勉強なんて日本でもどこでもできるんだから。

これは留学初日に大学へ挨拶しに行ったときに、日本語教育学科の学科長から言われた言葉です。今でもよく思い出します。私はとてもこの言葉に救われました。

留学を決めてからも、「目標を見つけるため」に留学に来たというのは、やはり他の人の明確な目標を持った留学に負けているような気がして劣等感に苛まされていました。けれど、この言葉は、私がどうにか変わりたいと不格好だけど藻掻いて手に入れた経験は代えがたい貴重なものだと認めてくれたのです。他の人みたいに目に見えてわかりやすい価値があるものではないのかもしれないけれど、それでも私が自分の力で手に入れた素晴らしい経験には違いないと思えるようになりました。

3.言語学との出会い

トルコでの留学生活は本当にいろんなことを学ばせてくれました。そのどれもが、普通に生きていたらすることがなかった経験だったと断言できます。

そしてその経験の中でも私が興味をもったのは文化の違い、そしてそれらの大半は言語のこと、または言語に関係する事でした。前の投稿でも書きましたが、言語は一番身近な存在だからこそなんですよね。

長くなるので、とりあえずひとつだけ例を紹介しますね。

トルコ語には「ようこそ」「welcome」に相当するものとして、「Hoş geldin」という言葉があります。直訳すると「心地良く君は来たね」という意味ですが、意味はだいたい「ようこそ」と同じです。しかし、使い方は「ようこそ」より広いです。

・誰かを家に呼んだとき ・誰かが新しいクラスメイトになったとき ・誰かが新しく組織に入ったとき ・お客さんがお店に入ってきたとき

私の体感的には「誰かが新しくある社会集団や空間に入る時」に使われているという感じです。

これのおもしろいところは、「Hoş bulduk」という返事の言葉があるということです。これは、直訳すると「心地良く私たちは見つけられました。」という意味ですが、挨拶言葉だからそこまでの意味はないです。日本語で「ようこそ」と実際に面と向かって言われても返答に困りますよね。けれどトルコ語の場合、挨拶のようにいろんな場面で頻繁に使われており、返事の言葉があるから、誰かを迎え入れるというのが一連のコミュニケーションとして日々の生活の中で成り立っているんですよね。トルコ人の国民性は気さくでおもてなしの精神があると言われますが、そんな国民性が言葉にも表れているのかなと、たくさんの場所で暖かく迎え入れられながら思いました。

このような言語と文化の繋がりを肌で感じ取る経験を留学生活を通してたくさんしていくなかで、「文化」へのすこしだけのぼんやりした興味が「文化」の写し鏡といっても過言ではない「言語」へのはっきりとした興味へと変わっていきました。

「文化」というものは E.タイラーによると「文化または文明とは,知識,信仰,芸術,道徳,法律,慣習など,人間が社会の成員として獲得したあらゆる能力や習慣の複合的総体」と定義づけられています。つまり、人が集まればそこには「文化」が生まれます。目に見える「文化」というのは驚くほどに少ないのです。だからこそ、「言語」という形あるものを研究することで「文化」という目に見えないものに気づくことができます。

「言語」の違いを通して「文化」の違いを研究したい。

そう思ったのがきっかけで、今私は言語学を専攻しています。長々書きましたがこれが私とトルコと言語学のすべてです。

原点回帰で卒論のテーマ探しに繋がるといいんですけど、なかなか難しいですね(笑)いっぱい今日書きすぎたから、明日からはきっと短くなります(笑)




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